212話 ダム攻防戦 (17)
霧。
ダムの北の城壁に立てば、まずそれが目に入った。地を這うように低く垂れ込め、ゆっくりと流れる白い霧。城壁の下の堀は見えなかった。堀の向こうの地面も、その先の森も見えなかった。
ただ遠くに、霧の上からかすかにナウラート川が見えた。流れの緩やかな川だった。濃い灰色に輝く川。川面は夜明けの光を受け、鉛色 に見えた。そしてその川の水の一部は水路を伝って流れ下り、北の城壁の堀を満たしていた。
城壁の上は静かだった。
まだ戦いの始まらぬ時の静けさだった。
バアクは城壁の胸壁 に肘をついて立っていた。
広い肩に、板金鎧 が乗せられていた。背には大きな斧が掛けられている。柄が長く、刃 の広い斧だった。
彼は今、下を見下ろしていた。胸壁の向こうは霧ばかりだった。何も見えなかった。
バアクの傍にはマウが立っていた。
バアクより一回り小さな体格。鎧は薄かった。革鎧 に鉄板が二枚だけ当てられている。鎧に慣れた体つきではなかった。胸の前の留め具の一つがきちんと留まらず、少し開いていた。
マウは両手を胸壁の上に置き、首を伸ばして下を覗こうとしたが、やはり霧ばかりだった。音だけがかすかに立ち上ってきた。下から吹き上げる風は冷たく湿っており、その空気に鼻先が痺れるように冷えた。
遠く、西の城壁から音が聞こえてきた。
ドン、ドン、ドン。
低く重い太鼓の音だった。
一定の間隔で鳴る音が続いた。
西の城壁の方角だった。北の城壁から聞くにはかなり距離があり、かすかに届く音だった。だが目を閉じ、耳先を動かして集中している二人のダウィの耳にはそれが届いていた。
その太鼓の音の合間に、何かが混じって聞こえてきた。オークたちの叫び声だった。荒く分厚い声が束になって響く音。一つ一つの言葉は聞き取れなかった。ただの音だった。大きく、多くのオークが発する音。その音は城壁を越えた空気に乗り、北まで流れてきた。
「聞こえるか?」
バアクが言った。
「うん」
マウが短く答えた。
二人の兄弟はしばし、その音に耳を傾けた。
城壁の西端、二本の巨木に抱かれた大きな石の望楼 から声が響いた。
木の太い幹が石壁と接していた。太い枝は城壁の石と絡み合い、細い枝は望楼の上部を覆っていた。その望楼の中で、一人のダウィ兵が下に向かって叫んだ。
「オークどもだ!」
ダウィの声が城壁を伝って広がった。すぐに赤い外套 のムワの翼兵 が一人、飛び立った。外套の裾が羽ばたきにひるがえった。彼は北の城壁沿いに飛びながら叫んだ。
「攻城塔 だ! 月の側の城壁にオークどもの攻城塔が近づいている!」
声はかすれながら遠ざかっていった。
マウはその翼兵が遠ざかっていくのを目で追った。翼兵の体は霧の上を飛び、西の方角へと消えていった。
「バアク兄」
「あ?」
「兄はオークを見たことある?」
バアクは城壁の下を見下ろしていた視線をマウに向けた。
「ねえな」
「え? あ? ないの?」
「ああ、ないな」
マウは少し驚いた顔をした。バアクがないと言うとは思ってもみなかった。ダムの関門守備隊長がオークを見たことがないとは……
バアクは腕を組み、胸壁から背を離した。
「何年か前に討伐隊に配属されるはずだったんだが、そのときによりによってこの肩をやっちまってな」
彼は右肩を手のひらでバンと叩いた。鎧が鈍く鳴った。
「それで行けなかったのさ」
「肩、どうやって怪我したの?」
「訓練中に……いや、違ったか? 転んだんだったか?」
バアクが素っ気なく言った。
マウはしばし口をつぐんだ。よかったという言葉は口にしなかった。バアクが聞けば、気を悪くしただろう。
城壁の下からザブン、という音が聞こえてきた。
バアクは城壁の下へと首を伸ばした。胸壁のすぐ下、目の前に城壁の石が垂直に立っていた。
石の表面は夜明けの湿気を含んで暗く、ところどころに苔がついていた。城壁はそのまま霧の中へ沈み込み、どこから堀が始まるのか見えなかった。
バアクは首を引いた。
「何かあるか?」
マウが訊いた。
「うぅん……霧ばっかりだ。下の方は何も見えねえな」
彼は短く言った。
二人は再び前を見た。北の城壁の向こう、霧が低く垂れ込めた下。そこに堀があった。
堀の向こう、ナウラート川と城壁の間には森があった。
だが森は見えなかった。霧の上にわずかに木々の梢 がのぞいているだけだった。木々の幹と枝は霧の下に隠れていた。
光のない黒い塊だった。木々は一つに固まり、厚い壁のように立っており、どこで終わりどこから始まるのか分からなかった。
空に向かって伸びた枝の輪郭が、ところどころ現れては霧の中へとかすんでいった。森全体が黒い面のように見えた。面の縁はぼやけ、不揃いだった。城壁のすぐ下からその黒い面まで、その間はすべて白い霧だった。堀も、堀の向こうの地面も、その地面の上にオークがいるのかいないのかも分からなかった。
しかし、音は聞こえていた。
森から音が立っていた。枝が折れる音。重い足が地を踏む音。言葉なのか叫びなのか区別のつかない太く低い音が、霧に乗って流れてきた。
一つの方向からだけ聞こえる音ではなかった。北の城壁沿いに広く広がる森全体から音が立っていた。
「こんなに濃い霧、見たことないよ、バアク兄」
マウが言った。
「俺もだ」
バアクが短く答えた。
「城壁の下をオークの何匹かが通り過ぎても気づかねえくらいだな。ちっ」
彼は舌を打った。
ザブン。
再び音が聞こえた。今度は左だった。一度ではなかった。重いものが次々と水に落ちる音だった。
「ところでダレンはどこにいるんだ?」
バアクが訊いた。
「地の側の城壁に行ったよ」
マウが答えた。
「地の側の城壁?」
「うん。あぁ、ボウマもそこにいるよ」
「ボウマ? あの釣り道具屋やってる奴だろ」
「そう。釣り竿も直してくれるし、餌も売ってる」
「俺もたまに寄るんだが。あの隣に小さな倉庫まである店じゃなかったか?」
「そう、そこだよ」
バアクは軽く頷 いた。
「地の側の城壁は静かだろうから、あんまり心配すんな」
彼は言った。
マウはダレンの顔を一瞬思い浮かべた。今頃、南の城壁の上で同じ霧を見ているはずだった。
マウが言った。
「兄は怖くないの?」
バアクはマウを振り返った。
「何がだ」
「オークたち。それとミノタウルたち」
バアクは口を開けると、低く太い笑いを漏らした。
「クヘッ! 全~然!」
「兄はミノタウルもオークも見たことないじゃん」
マウがまた言った。
「どうせ会うことになる奴らだからな」
バアクは背中から斧を外し、前へと持ち上げた。両手で柄を握ってから、それを片手で持ち上げ肩に乗せた。刃の広く厚い斧だった。
「むしろ来てくれたんだから、直々 にこの俺様の腕前を見せてやらねえとな」
バアクが笑いながら言った。鋭い牙がのぞく笑みだった。
マウはその笑みを見つめた。
バアクは幼い頃からそうだった。
父であるガルドンが荒野へ遠征に出るたび、バアクは隊列の後ろに身を寄せてついて行こうとした。
荷馬車の箱の間に体を押し込んだこともあった。マウも何度かその後を追った。兄が行くなら自分も行かねばという思いだったのか、置いていかれてはならないという思いだったのか、今振り返ってみればその理由さえ分からなかった。
ある日は馬車に隠れきれず、そのままガルドンの後を追って走ったこともあった。幼いマウの両脚は兄よりも短く、兄は速く歩いた。マウとバアクは結局、父ガルドンに捕まった。
ガルドンが二人の兄弟の首根っこを同時につかみ、ダムへと引き返した日、バアクはそのときも笑っていた。
バアクは二日後、また遠征軍の荷の間に身を隠したが、再び引きずり出された。遠い昔の記憶がよみがえり、マウの肩と脚を強張 らせていた緊張が少し緩んだ。
そのバアクが今、斧を肩に乗せ、笑っていた。
マウは短く息を吐いた。
「はぁ……」
城壁の下、堀の方から音が聞こえた。
ザブン、ザブン。
今度は一箇所ではなかった。いくつもの方向から、間隔を違えながら聞こえてきた。マウはそちらへ首を向けたが、霧ばかりだった。音だけが聞こえた。何かが水に投げ込まれるか落ちるかする、重く大きな音が続いた。
マウは指先が強張るのを感じた。小さな鉄片で補強された革手袋の中で、手を握ったり開いたりした 。
「兄貴、この音、聞こえた?」
「ああ、聞こえた」
バアクは再び斧を肩から下ろしながら、胸壁の方へ首を傾けた。眼差しが鋭くなり、笑みは消えていた。
「こいつらが動いてるんだ……霧の下でな」
彼は低い声で言った。
ザブン。ザブン。
また聞こえた。今度は少し近い方角からだった。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「ならば目はしばし休ませて、耳をよく使うべきかのう?」
バアクとマウが同時に振り返った。
コルだった。
城壁の上の通路を歩いてきていた。白の混じった灰色の毛と、深く刻まれた皺 が顔を覆っており、右手には木の杖を持っていた。杖の先端の鉄製の飾りが、歩みに合わせて揺れていた。
コルの歩みは速くなかったが、視線はそれより先を動いていた。両の目が城壁の下の霧を眺め渡し、各区画の兵の配置を確かめていた。
「コル軍長 !」「コル軍長!」
バアクとマウが同時に体を向け、声を上げた。
コルは二人の前で足を止め、胸壁の向こうの霧を眺めた。
「音もよく聞こえません、軍長。下で……オークどもが何かをしているようなのですが」
マウが言った。
コルはしばしそちらを見つめてから、口の端を上げた。
「では、もっと音が聞こえる時を待つべきかのう?」
コルが言った。
「それとも、霧を晴らすか」
「少なくとも昨日とは違って霧は低く垂れ込めてはいますが……」
バアクが言った。
「そう簡単には晴れそうにありません」
コルは頷きながら胸壁の方へ一歩近づいた。杖を地に突きながら首を伸ばした。下を見た。しばしその霧を見つめてから、顔を上げた。
そのときだった。
堀の方から音が聞こえた。
ザブン。ザブン。ザブン。
一箇所ではなかった。北の城壁沿い、いくつもの地点から、ほぼ同時に。水が跳ねる音。何かが水に投げ込まれる音。大きく重いものが水に触れるときに立つ音だった。城壁の上の兵たちが一斉に胸壁へと身を乗り出した。
何も見えなかった。立ち込める霧ばかりだった。
コルは胸壁の方へ首を向けた。表情は動かなかった。そして、コルの目にムワが一体、近づいてくる姿が映った。
ネルムだった。灰色の羽根に赤い外套。外套の太陽の紋様が、夜明けの光の中でかすかに輝いていた。彼は城壁の上に降り立ちながら、翼をたたんだ。降り立つ動作は端正だった。爪が城壁の石の上をかすめて止まった。
「コル軍長」
「ネルム」
「ドゥラハ軍長が準備を終えました」
コルはしばし、何も言わなかった。
彼の口元に笑みが広がった。
「ほほほ。相変わらず早いのう」
コルはバアクとマウの方へ視線を向けた。しばし二人を見つめ、微笑んだ。
「実はわしも、待つのはあまり得意ではない性分でな」
彼は言った。
「奴らが霧の中で何をしているのか、見てやらねばのう」
コルはネルムの方へ首を向けた。
「ドゥラハ軍長に始めてくれと伝えてくれ、ネルム」
「はい、軍長」
貴重なお時間を割いてお読みいただき、心より感謝申し上げます




