211話 ダム攻防戦 (16)
ガルドンは走りながら、堀の向こうへと顔を向けた。
霧の中、巨大な木製の盾が地面に突き立てられ、壁のように並んでいた。黒く濡れた板のあちこちに矢が突き刺さり、隙間という隙間から矢尻とミノタウルたちが投げた斧が出入りしていた。
その後方、オークの弓兵たちが集まっている場所から外れた一角。
黒い鎧をまとった人影がまだ立っていた。リルビュルに矢を放った者たちだった。
その黒い人影の一人が、城壁の上に向けて弓を構えていた。
弓の弦は限界まで引き絞られ、ぴんと張り詰めて震えていた。
顔のほとんどを覆う面甲 の奥、その視線は梯子の上でオークと絡み合いながら戦うバンダを捉えていた。
ガルドンの足が、堀に架かる橋を踏みしめた。
走る体の重みが橋にかかると足元が揺れたが、ガルドンは止まらずさらに二歩踏み込み、右手の投槍 を背後深くまで引き絞った。
走る方向を保ったまま、上体を捻った。
後ろへ引かれた腕と共に肩が回り、その回転は腰へと伝わっていった。
解き放たれた力が一気に腕へと集まり、投槍が放たれた。
――ヒュオオッ――
ガルドンの手を離れた投槍が、霧を切り裂き真っ直ぐに伸びて堀を横切った。
弦を引き絞っていた黒い鎧の弓手 が息を止めたその刹那、ガルドンが投げた槍が弓手の胸甲 の真ん中を貫き、鈍い音を立てた。
弓手の体が後ろへ折れ曲がり、引き絞っていた弦が緩んだ。つがえていた矢は逸れて地面に突き刺さり、弓が手から落ちた。
ガルドンはすでに左手を後ろへ引き絞っていた。
別の弓手が位置を変えながらガルドンへと弓を向けた。狙いが定まりきる前だった。
ガルドンが二本目の投槍を投げた。
槍が弓手の兜の面甲の脇を強打し、鈍く重い衝撃音を立てた。
兜が横に吹き飛んで脱げ、露わになった顔は遠すぎて輪郭だけしか見えなかった。細く青白い顔だった。
弓手がよろめきながら崩れ落ちると手から弓が滑り落ち、周囲の黒い鎧の者たちが彼を抱え起こし、霧の濃い方へと退いていった。
ガルドンは斧を再び握り直し、堀に架かる橋の端に立った。橋の先は攻城塔へと繋がる最も狭い地点だった。オークが一度に四、五匹以上並んで立つことはできない広さの橋だった。
背後には攻城塔の入り口。前方からは霧を突いて駆けてくるオークたちが迫っていた。
橋の上には、バンダの投槍に貫かれたオークが一体倒れていた。
ガルドンがその体を足で押した。オークは橋の下へと転がり落ち、堀に叩きつけられて水音を立てた。
「来るがいい、オークどもよ。」
短く決然とした声が、一瞬動きを止めたオークたちへと向けられた。ガルドンは斧を握り直しながら、乱れた息を整えた。
オークがガルドンへと駆けてきた。
咆哮 を上げながら、斧を肩の上に振りかざして駆けてきた。
ガルドンが一歩前へ踏み出した。
斧を握った手を下から上へと振り上げた。オークが斧を振り下ろす直前だった。
ガルドンの斧刃が、先にオークの腕の内側を打ち上げた。
関節が折れ曲がり、骨が砕ける音が短く鈍く響いた。オークの手から斧が弾き飛ばされた。
その瞬間、ガルドンが斧を返してオークの首を叩き斬った。オークは膝を折り、崩れ落ちた。
別のオークが二匹、続けて駆けてきた。
左のオークは槍を手にしていた。右のオークは片手に刃の短い剣、もう片方の手に盾を持っていた。盾を持ったオークが先に飛びかかり、盾を前に立てて間合いを詰めた。
オークの盾の陰から、粗く削られた鋸歯状 の刃と平たい切っ先を持つ短剣が、ガルドンのガントレットを掠めて過ぎた。
ガルドンが盾を蹴りつけ、横へ押しやった。盾は隣で槍を構えたオークにぶつかった。二匹のオークが一瞬絡み合った。
ガルドンがその隙間に踏み込んだ。槍を持ったオークの腕を片手で掴んで下へねじ伏せると同時に、斧で盾を持ったオークの兜を叩き斬った。
斧刃が兜の金属に食い込んだ。盾を持ったオークが倒れた。
槍を持ったオークの腕がへし折れる音がして、槍が橋の上に落ちた。
ガルドンが倒れた二匹のオークを足で押しやった。背後から押し寄せていたオークたちとぶつかり、絡み合って崩れ落ちた。
続けて駆けてきたオークたちが、倒れたオークを踏みつけて押し寄せた。
オークが一匹、身を低くして飛びかかり、ガルドンの脚を掴もうとした。ガルドンが斧の柄で短くその頭を打ち下ろした。オークは顔を橋の床に叩きつけて倒れた。
ガルドンがそのオークの背を踏みつけ、次のオークへと進んだ。
「OKKA-ULLA!! Shak-Shlos! Daaawi!」
橋の上のオークたちが叫んだ。咆哮が霧の中で反響し重なり合った。同じ言葉が繰り返された。その後ろから、さらに多くのオークたちが駆けてきていた。その後ろから、絶え間なくオークたちが駆けてきていた。
ガルドンが斧を握り直した。刃を斜めに立て、腰の下へと構えた。体を捻り、橋の幅に合わせた。
オークたちが互いを押しのけながら我先にと橋へ駆け込んだ。肩がぶつかり合い、何匹かはバランスを崩して橋の下の堀へと落ちていった。
オークたちの後ろからミノタウルが押し寄せてきた。巨躯 が踏みしだくように駆けるたび、橋が大きく揺れ、釘がきしみながら弾け飛んだ。そしてついに、ミノタウルがオークの群れを押しのけて突き抜け、真っ直ぐガルドンへと突進してきた。
ミノタウルの手には巨大な鉄棍棒が握られていた。太い鉄棒をそのまま伸ばしたような胴に、先端が鈍く膨らんでおり、打ち鍛えた跡がそのまま残って表面は凸凹していた。鉄棍棒の頭には、長く太い鉄釘が四方に打ち込まれていた。
ミノタウルがガルドンへと鉄棍棒を横に大きく振るった。
ガルドンが身を低く沈めると、鉄棍棒が頭上をかすめて過ぎ、兜を擦った。
ガルドンは低い姿勢のまま前へ駆け込み、ミノタウルの脚に斧刃を深く打ち込んだ。肉を抉る感触が手に伝わってきた。分厚い筋肉が裂け、刃が骨に触れた。
ミノタウルが咆哮した。手が下りてきてガルドンの肩を掴もうとした。ガルドンがミノタウルの手を打ち払いながら斧を引き抜くと、ミノタウルの血が斧刃を伝って橋の上に流れ落ちた。
ガルドンが短く息を吸い込んだ。
「スゥーッ――!!」
腰を深く落としながら体を捻った。
手にした斧が、腰の下から引き上げられた。
ガルドンの斧が下から上へ、ミノタウルの腰をそのまま斬り裂いた。
鎧もろとも裂ける革が、鈍い破裂音を立てて引き裂かれた 。
分厚い胴体は、まともに抵抗する間もなく真っ二つに裂かれた。
ミノタウルの重々しい上半身が後ろへ仰け反りながら、切り離されて落ちていった。
下半身が一拍遅れて崩れ、その場に頽 れた。
ガルドンはそのまま斧を下ろして構えた。
ミノタウルの斬られた死骸が転がる橋の上、ガルドンは斧を握ったまま、再び押し寄せるオークたちへと向き直った。
ガルドンの斧が休みなく動いた。
斬り、打ち込み、押した。斬られたオークが倒れれば、ガルドンは止まることなく押し込み、次のオークを斬り伏せ、迫ってきたオークはそのまま押し出して橋の下へ突き落とした。狭い橋の上で、彼は一歩も引かなかった。四方から押し寄せるオークたちをただ一人で防ぎ続け、一歩たりとも後ろへ下がることなく持ちこたえた。
時が流れた。
どれほどの時間が経ったのか、ガルドン自身にも分からなかった。
その時、遥か背後から音が聞こえた。
落下橋 を渡る足音だった。
ダウィの兵士たちだった。翼兵 たちを連れて城壁へと戻ってくる途中だった。
木の橋を踏む足音が聞こえてきた。そしてその合間に、鎧が擦れる金属音が混じって流れてきた。
ガルドンがその音を聞いた。
足を後ろへ一歩引いた。
橋の向こうから駆けてきていたオークたちが、一瞬たじろいだ。
狭い橋の端、血と死骸の上に立つガルドンを見て、足を踏み出せずにいた。
その隙間を縫って矢が飛んできた。
ガルドンが斧を振り上げ、飛んできた矢の一本を刃で叩き落とした。折れた矢尻が横に弾け飛んだ。
続けて飛んできたもう一本の矢が、ガルドンの兜を掠めて逸れた。
ガルドンは橋の端に立ったまま、斧を斜めに構え直した。
*****
堀の向こう。
霧が濃く垂れ込めた一帯。
サアルンの森の境界線。
木々の間が開き、何かが姿を現した。
森の高い木々と背比べをするほど巨大な構造物が動いていた。木ではなかった。
巨大な投石機だった。
投石機が前へ進むたびに、細い木の枝が横を擦って折れた。根の浅い若木が傾ぎ、根こそぎ引き抜かれた。押し潰された枝の間から、太い丸太を組んで作られた車輪が姿を現し、森を押し退けるように前へと進んでいった。
骨組み全体が黒い鉄で繋がれていた。
ダムの城壁の上にあるバリスタや、オークたちの投石機よりも大きな規模だった。
発射腕一本だけでも、ダムの城壁の高さの半分に達するほど巨大だった。
支柱をなす二本の柱は鉄を幾重にも組み合わせて立てた構造で、繋ぎ合わせた跡があちこちに荒々しく残っていた。
木を組んだ構造ではなかった。鉄を熱して打ち鍛え、繋ぎ合わせた痕跡がそのまま残っていた。表面には角ばった線が繰り返される文様が刻まれていた。
発射腕の反対側の端には、重りが吊り下げられていた。鎖の一節が、オークの手首よりも太かった。
重りが動くたびに鎖が短く揺れ、太い鉄の節がぶつかり合ってガシャンと音を立てた。
分厚い革で作られた投石籠 は、オークが何匹も入れるほど広かった。内側の縁には鉄の枠が補強として張られていた。
車輪は四つで、両側に二つずつ取り付けられていた。車輪一つ一つの大きさは、ミノタウルを上回るほど巨大だった。輻 の縁には、鉄の鉤爪が一定の間隔で打ち込まれていた。
投石機の前方へと長く突き出た鉄製の骨組みに、太い鎖が結び付けられていた。
鎖は前方へと長く伸び、その先端には巨大な鋼鉄の輪が付いていた。
その輪を、鋏 がしっかりと咥え込んでいた。
開いた鋏が輪を深く咥え込み、内側の鋸歯が鋼鉄に食い込むように噛み合っていた。
二匹の巨大な蠍だった。
一匹が先に進み出て、完全にその姿を現した。
八本の脚が地面を踏むたびに土が押されて窪み、太い節がいくつも繋がった脚がゆっくりと前へ進んでいった。尾は五つの節を連ねたまま背の上へと巻き上がっており、先端の毒針は今にも打ち下ろされそうに持ち上げられていた。毒針の先には鉄製の覆いが被せられていた。
開かれた鋏脚 は前方へと伸びており、分厚い外骨格の上に鉄板が張り付けられ、先端には鋼鉄の輪が打ち込まれていた。
甲羅の上にも鉄板が連なっており、節に沿って切り出された鉄板が曲面に合わせて曲げられていた。関節が動くたびに、鉄板と鉄板の間が開いてはまた噛み合った。
甲殻の上にそのまま被せた構造だった。生きた体の上に金属を乗せた形だった。
二匹目の蠍が後に続いて素早く脚を動かし、もう一匹と並んで立った。二匹が同時に身を低くすると鎖がぴんと張り詰め、脚が地面を押し出しながら車輪が回り始めた。
土が押し退けられ、鎖と繋がった投石機が少しずつ前へと動いていった。
巨大な投石機がサアルンの森から完全に姿を現し、堀の向こう側で止まった。
その上にオークたちが登り始めた。発射の準備のために投石籠を引き下ろし、重りを引き上げるための縄を掴んだ。重りが上がっていくにつれ、発射腕がゆっくりと後方へ引き絞られていった。
ガルドンがそれを見た。
橋の上で倒れたオークを一匹、足で蹴り退けながら目を向けた。霧の中に巨大な投石機の輪郭が浮かび上がっていた。彼の目が、その巨大な投石機の上でしばし留まった。
ガルドンは自分の目を疑った。あれほどの大きさの投石機が放つ石の大きさを、しばし想像してみた。
『ダムの城壁も、あれには耐えられまい』
城壁の石が砕け散る幻聴が聞こえてくるようだった。ガルドンは生唾を飲み込みながら視線を逸らした。
しかし、オークたちがガルドンへと駆けてきた。
ガルドンは巨大な投石機から目を離し、短く息を吸い込んだ。
ガルドンが斧を持ち上げた。刃を斜めに立てたまま、腰の下へと構えた。
その時だった。
空から音が聞こえた。
「Kaaaaaa!!」
咆哮が上から響いてきた。
ガルドンが顔を上げた。
ワイバーンだった。
大きく広げた翼が巨大な影を落としながら、ガルドンへと向かって降りてきていた。
ワイバーンの背には騎手が乗っていた。
ワイバーン騎手の鎧が、攻城塔のあちこちでまだ燃え盛る炎の明かりを受けて浮かび上がった。
ワイバーン騎手の鎧は、小さな金属の鱗が隙間なく重なり合った構造で、暗い青色を帯びていた。肩当ては肘の下まで垂れ下がっており、ワイバーンの背の上で騎手が身を傾けるたびに、鱗同士が擦れ合いながら動いた。兜は顔全体を覆ったまま首の後ろまで長く伸びており、面甲には目のある位置に横長の隙間だけが空いていた。
下へと向けられた騎手の目が、堀の上を舐めるように見渡した。
ガルドンが後ろを振り返った。
オークたちの攻城塔。兵士たちが翼兵を連れて城壁の上へと渡り切るには十分な時間だった。
ガルドンが後ろへ一歩下がり、身を翻そうとした瞬間だった。
ワイバーンが翼を半ば畳み、ガルドンへと向かって降りてきた。
翼の鉤爪が、堀の上の橋の端に突き立った 。
分厚い木の板が裂けて引きちぎられた。折れた破片が上へと弾け飛び、橋が大きく揺れた。
ワイバーンが翼を広げ、真上へと舞い上がった。
騎手が鞍の上で身を起こしながら、片手を掲げてガルドンへと向けた。
ワイバーン騎手の手のひらの上に、縁に紫の光が薄く滲む黒い魔法陣が広がった。
円形の紋様と奇怪な文字が幾重にも重なり合った形だった。
「Zkar! Delaat!」
ガルドンの目が大きく見開かれた。
『魔法か!』
斧を握る手に力が込められた。肩が後ろへ回り、ワイバーン騎手へと投げつけようとした瞬間だった。
その時だった。
空気を切り裂く音が聞こえた。
ガルドンの動きが止まった。その首が反射的に、音の聞こえてくる方向へと向いた。
短く鋭い音が一度掠めた。続いて同じ音が途切れることなく続いた。
「ズワッド・ブルーム!!」
城壁の上から降りてきて、ガルドンの耳に届いた声。
見えぬほど速い風がそれに続き、騎手の上方に薄い線が掠めるように引かれた。
そして、その線が開き、裂けた。
横からも同じ痕跡が重なり、別の方向からも次々と線が引かれた。
幾つもの方向から生まれた痕跡が、騎手へと向かって狭まっていった。
霧を含んだ空気が押し退けられた。
堀の水が外へと広がり、大きく波打った。橋の上に溜まった血が一方へと押し流された。
ワイバーン騎手の鎧が裂けた。
鎧の破片が落ち、胸甲が開いて内側が露わになった。
騎手の体が、そのまま斬り裂かれた。
繋がっていた部分が離れ、下へとどっとこぼれ落ちた。
その余波は、そのままワイバーンにまで及んだ。
首の脇の鱗が裂けて血が飛び散った。翼膜 が引き裂かれた。
片方の翼の先端が斬り飛ばされ、均衡が崩れた。
残った翼がもう一度羽ばたいたが、裂けた側が折れ畳まれ、もはや浮かび上がることはできなかった。
ワイバーンが下へと落ちていった。
堀の上を掠めるように落下し、そのまま水の中へと突っ込んだ。
大きく重い音が響いた。
貴重なお時間を割いて本作をお読みいただき、心より感謝申し上げます




