207話 ダム攻防戦 (12)
そのとき、リルビュルが舞い上がった。
翼が空気を掴むように畳まれたかと思うと大きく広げられ、その体が一息に高く舞い上がった。
巨大な石壁と、その間に根を張った巨木の太い枝の上で待機していたムワの翼兵たちが、リルビュルの後に続いた。
矢の届かぬ高さまでまっすぐに駆け上がると、リルビュルを先頭に隊列が横へと折れた。
城壁西側の外。
地に降りた濃い霧が、城壁の前を白く覆っていた。
表面は意外にも滑らかだったが、その下に蠢く 黒い影の動きに合わせ、絶えず波打っていた。
リルビュルは高度を落とさぬまま、上空から霧の海を見下ろした。
しばらくして、霧の海の中央が突然大きく窪んだ。
――フォン。
霧の帳 の下から、石塊 が打ち上げられた。
続いて、長く振り抜かれる物体の軌跡が霧の上に描かれた。
白い表面が長く裂け、弧を描く傷痕を残したが、遅れて吹いた風に再び覆い隠された。
オークたちの投石機だった。
発射の瞬間ごとに、霧が弾けるように噴き上がり、
回転する長い腕が通った跡には、その軌道に沿って白い尾が長く尾を引いた。
そしてその痕跡が、すぐさま位置を露わにした。
リルビュルの目が大きく見開かれた。
「そこだ!」
リルビュルの声に反応し、翼兵たちが一斉に首を巡らせた。
霧の下、見えぬオークたちの陣形が、白い海の底で蠢いていた。
リルビュルと翼兵たちは、その上をかすめるように飛んだ。
翼の先が下降気流を生むたび、霧の表面が薄く窪み、白い筋が裂けた。
リルビュルが短く翼の先を傾けた。
見えぬ合図が広がるように、翼兵たちへと伝わった。
後に続いていた翼兵たちの隊列が割れた。三つに分かれた群れが、それぞれ異なる角度で広がりながら霧の海へと傾いていった。
ほどなく、霧の下へ向かい、翼兵たちの具現化された手が一斉に伸び、空気を切り裂く音とともに槍を放った。
投石機を操っていたオークたちの位置へと飛んだ槍先が、霧の中へと突き刺さった。
霧の中から、オークたちの悲鳴がいくつも聞こえた。
霧の下で、何かががたつきながら止まった。
引き絞られていた縄が突如緩み、回転していた長い腕の影が歪みながら一方へと垂れ下がった。
――ドスン。
発射されそこなった石塊が、そのまま霧の中へと落ちていった。
白い表面が一度大きく盛り上がり、重いものが沈むように再び静まった。
ややあって、別の方角でまた霧が窪んだ。
リルビュルが視線を移した。
霧の上に短く立ち上った回転の軌跡。
だが、最後までは繋がらなかった。
飛来した槍の一本が、その軌跡の先端を貫いたのだ。
見えぬどこかで何かが折れる音がし、続いて幾重もの金属がぶつかり合う音が絡み合うように響いた。
「投石機は一つ仕留めた! 再び高度を取れ、翼兵!」
リルビュルの声を狙い、矢が幾本も飛んできたが、再び高く舞い上がるリルビュルを捉えることはできなかった。
飛んできた矢の方向へ、再び翼兵たちの槍が向けられ、霧の下から怒号が聞こえてきた。
慌ただしく動く影が互いにぶつかり合い、乱れていった。
リルビュルは高く飛び上がり、その様子を見下ろした。
霧は再び表面を均しながら覆っていったが、先ほどの揺らぎはそのまま残っていた。
*****
城壁の下、霧の中から重いものが引きずられる音が聞こえた。ガチャ。ガチャン。大きく分厚い木と鉄がぶつかり合う音。
霧の縁から巨大な影がいくつも姿を現し、分厚い木の板を肩に担いだミノタウルたちが濠 の前まで進み出ると、それを下ろして立てた。
自らの胴より大きな木の板が、濠の前に一列に立てられていく。地面に支柱を打ち込んで固定する音が聞こえた。ガン。ドガン。ダダン。杭を打つ音。
分厚い木の板を立てて作られた巨大な防壁。マントレットだった。
マントレットが濠の前に並び立つと、その背後へオークの弓兵たちが駆け寄って身を隠した。
黒く塗られたオークたちの弓が、一斉に構えられた。
「Throkka!」
一匹のオークの叫び声とともに、無数の矢が飛んできた。
コツ。カン。カタッ。
石壁にぶつかった矢尻が弾かれ、何本かは城壁の石の隙間に突き刺さった。
兵士たちが身を低くすると、矢は|胸壁《きょうへき をかすめながら散っていった。
矢の何本かが、狭間 を越えてきた。一人のダウィの兵士の肩をかすめて過ぎていった。
他の何本かは盾に突き立った。
そして、飛び交う矢の合間に、鈍く重い音が混じって聞こえた。
マントレットの陰から再び姿を見せたミノタウルたちが投げた投擲斧 が、城壁を越えてきた。
太い柄の先の鉄刃が胸壁の角を打ち、弾かれていった。あるものは石にぶつかって斜めに逸れ、あるものは狭間の内側へと落ちた。
石の破片が飛び散った。
ダウィの兵士の何人かが、叫びながら後ろへ下がった。
一人は肩を打たれ、そのまま崩れ落ち、
もう一人は傷ついた肩を押さえたまま、体を支えきれずによろめいた。
盾をかすめた投擲斧の一つが、傍らに転がり落ちた。
城壁の上では、ダウィの兵士たちが胸壁に沿って並んでいた。
盾を構えたまま弓を射る者たちの間を、負傷者を引きずり出す兵士たちが行き交っていた。
倒れた者の場所を埋めるように、別の兵士たちが前に進み出た。
濠の前にはミノタウルたちが立てたマントレットが並び立ち、その陰でオークの弓兵たちが身を乗り出しては隠れるのを繰り返していた。
マントレットには投擲用の槍が突き立ち、何本かは木を貫けぬまま、がたつきながら垂れ下がっていた。
その合間を、ミノタウルたちが行き来していた。
投擲斧を振り上げ、投げ、再び斧を取るために身を翻した 。
矢は上から下へ、下から上へと絶え間なく行き交った。城壁の上では短い号令が飛び交い、濠の前ではオークたちの荒々しい叫びが続いた。
「濠の弓兵を射よ! 盾壁の隙間を狙え!」
ガルドンが叫んだ。
ダウィの弓兵たちは城壁の上に身をさらすことなく、胸壁の狭間から矢を放った。
マントレットの隙間に覗くオークたちの頭と上半身を狙う。矢が放たれた。
そのとき、オークたちの攻城塔 が霧を押しのけながら、濠の前へと達した。
城壁の高さに匹敵する巨大な木の構造物だった。丸太と分厚い板を幾重にも編み上げて立てられ、外側には皮が被せられていた。表面を伝った水が、縁からぽたぽたと滴り落ちていた。側面には梯子と手すりが層をなして取り付けられ、上部には城壁へ掛けるための短い落下橋 が、畳まれたまま吊り下げられていた。
その下、攻城塔の前面の大部分を占める巨大な構造物が、ダウィたちの目に入った。分厚い梁 と太い丸太が幾重にも噛み合わされ、鎖でしっかりと縛り付けられていた。攻城塔の前壁のように見えたが、実のところは濠を渡るために用意された巨大な落下式の構造物だった。
攻城塔が濠の縁で止まった。巨大な木の車輪が泥に深く食い込みながら停止し、上部の旗が大きく揺れた。内側からはオークたちの咆哮 が湧き上がった。
――ゴゴゴゴ。
攻城塔の前面部を固定していた鉄の留め具が外れた。
攻城塔の前面を成していた巨大な木の構造物が、ゆっくりと前へ傾いていった。分厚い梁が噛み合ったまま、一つの塊として動いた。鎖が解けながら垂れ下がり、重みを乗せた前面部が、濠の上へと倒れ込むように下りていった。
――ドゴォン。
その先端が、濠の向こう岸を打った。
攻城塔の下部の大半を成していた構造物が、そのまま下りて濠を渡る橋となった。
「橋だ!」
バンダが叫んだ。
「攻城塔が濠を渡ってくる! 奴ら、道を作りやがった!」
切迫した声を聞き、ガルドンが顔を向けた。
攻城塔が作り出した橋の上を、オークたちが雪崩れ込むように渡ってきた。
木の橋を踏みしめながら、おびただしい数のオークが濠を渡った。続いて、頭上に巨大な盾を掲げたミノタウルたちもその橋を渡った。
城壁へと突進してくる足音が、霧の中に響いた。ジャブ。ジャブ。ジャブ。
霧の向こうから、もう一つのオークの攻城塔が姿を現した。
すでに橋を下ろした最初の攻城塔の後を追い、より緩やかな速さで巨大な木の車輪が泥をこねながら転がってきた。その瞬間、城壁の上方から低く長い響きが聞こえた。
――シュゥン。
巨大な石の望楼 に据えられたバリスタが、咆哮するように震えた。捻れた空気を切り裂いて飛んだ鉄色のボルトが、オークたちの攻城塔を貫いた。
バキッ!
攻城塔側面の皮覆いを引き裂きながら、ボルトが突き刺さった。濡れた皮が裂け、中の木の骨組みが露わになり、噛み合っていた木材の一本がバキッと割れた。攻城塔の上でオークの一匹が均衡を失い、下へと落ちていった。悲鳴が霧の中へと吸い込まれていった。
「撃ち続けろ!」
城壁の上で叫び声が続いた。
しかし、オークたちの攻城塔は止まらなかった。傷を負った巨獣のごとくがたつきながらも、城壁へ向かう動きを止めはしなかった。
そのとき、城壁の端で別の動きが起こった。
短く鋭い叫びとともに、城壁の上から黒い影がいくつも舞い上がった。
ムワたちだった。
翼を広げ、城壁の上をかすめるように舞い上がったムワたちが、爪に握った小さな壺を攻城塔の上へと投げ落とした。
「松明を投げる準備をしろ!!」
叫びと同時に、空高く舞い上がったムワたちが落とした粘土の壺が、攻城塔の上部と側面にぶつかって粉々に砕けた。
粘り気のある黄色い液体が、皮の覆いの上に流れ落ちた。水のように流れることなく、ねっとりと張りつきながら、木と皮の目に沿って広がっていく。隙間に染み込んだ油は足場の下へと滴り、攻城塔内部の構造物までをも濡らしていった。
続いて、数十本の松明が攻城塔めがけて飛んできた。
油に濡れた部分から、まず炎が立った。
小さく立ち上った火は、しばし息をひそめるかと思いきや、ほどなく油が沸き立ち、気泡を弾けさせた。ボコッ、ボコ、と弾ける音とともに、炎は広がっていった。
攻城塔の上では、オークたちの怒号が湧き起こった。
攻城塔の周りのオークたちが、慌てて水を浴びせた。濠から汲み上げた水が、炎の上へと注がれた。
だが、火は消えなかった。水を浴びた燃える油が波のように押し流され、横へ、下へと伝い落ちていく。足場の下へ落ちた炎が再び燃え上がり、水を撒いていたオークたちの腕と甲冑 の上に、燃える油が飛び散った。
皮の鎧が油を吸い込んだまま、火を纏った。
鉄の鎧を着たオークたちもまた、攻城塔のあちこちに張りついた燃える油が鉄板と木を伝って流れ落ち、鎧の隙間へと染み込んでくると、悲鳴を上げながら濠へと身を投げた。
攻城塔の上部から流れ落ちた燃える油が外壁を伝って下り、塔を押していたオークたちの頭上へと火を移していった。
悲鳴が続いた。
オークたちの二基の攻城塔のうち、一基はもはや持ちこたえられなかった。
上部から始まった炎が骨組みを伝って下り、全体を呑み込んでいった。濡れた皮が焦げながら黒く縮れ、木の燃える音が聞こえた。車輪の一つが折れ、攻城塔が斜めに傾いだ。
傾いた攻城塔は、もはや重心を支えきれなかった。
焼け焦げた骨組みが、軋む木の悲鳴のような音を立てながら裂け、巨大な構造物が一方へと大きく傾いた。
折れた車輪が空回りした末に外れ落ち、続いて攻城塔のあちこちから、焼けた木材と鉄板が崩れ落ちていった。
――ズゴゴゴゴン――
炎に包まれた攻城塔が濠の方へと崩れ落ち、その下を押し潰した。
その炎の向こうで、霧が再び大きく揺らいだ。
霧全体が、低く押し出されるように前へとせり出してきた。
鈍く重い摩擦音が、地を擦りながら続いた。
――ギギッ。ギイイッ――
木が軋みながら耐える音、鉄が締め付けられる音が重なった。
霧の下から、巨大な形が徐々に姿を現した。
巨大な攻城車 だった。
低く幅広い木の覆いが、まず霧の上に浮かび上がった。丸太を繋いで作られた天板は幾重にも継ぎ足されており、その上を覆う皮はすでに水と泥を吸い、重く垂れ下がっていた。表面には矢の痕と擦り傷が残り、ところどころ黒く焦げていた。
覆いの下には、太い脚がいくつも見えた。
ミノタウルたちだった。
広い肩と分厚い腕で攻城車の後方を支えながら、身を低くして押していた。息を吐くたび、攻城車の中で荒く吐き出されるミノタウルたちの息が霧を裂き、角の下から太い汗が伝い落ちる。蹄 が泥に食い込みながら一歩進むたびに、攻城車全体が揺れた。
覆いの前方には、長く突き出た構造物が姿を見せていた。
太い木に吊るされた、巨大な錘 だった。
鉄に包まれた先端は城門へと向けられており、攻城車の車輪が動くたび、太い鎖がガチャガチャと音を立てて揺れた。
そのとき、上から小さな影が再び降ってきた。
ムワの翼兵たちだった。
今度はより低く飛んだ。攻城車の覆いのすぐ上をかすめるように通り過ぎながら、爪に握った油の壺をそのまま落としていく。
壺が覆いにぶつかり、砕け散った。
粘り気のある黄色い液体が、木と皮の上に広がった。流れ落ちることなく、表面に張りついたまま広がっていく。覆いの傾斜に沿って縁へと押し出された油が下へと滴り、ミノタウルたちの背と腕、攻城槌 の鉄の頭を濡らした。
ミノタウルの一匹が、咆哮を上げた。
油が、毛皮の間へと染み込んでいった。
次の瞬間、城壁の方からまた別の音が響いた。
――ヒュンッ――
バリスタのボルトだった。
今度飛んできたボルトは、先端が違っていた。
ボルトの先に巻かれた布が、火を纏ったまま燃え盛っていたのだ。
一本目のボルトが、攻城車の覆いに突き刺さった。
ドスッ!
油に濡れた皮が、一瞬びくりと震えた。炎が触れた場所から、油が沸き立ち気泡を弾けさせる。続いて二本目、三本目のボルトが、次々と攻城車めがけて飛んできては突き刺さった。
炎が、覆いの上で弾けるように広がった。
油は火を纏ったまま四方に飛び散り、下へと落ちた燃える液体がミノタウルたちを襲った。
ミノタウルの毛皮が焦げ、刺激臭が辺りに広がった。
ミノタウルたちは身をよじりながら、水を求めた。
濠から汲み上げた水が、攻城車の上へと浴びせられた。
だが、火は消えなかった。
水に押された燃える油が横へと広がり、攻城槌の鉄の頭と覆いの下へと伝い流れた。水を浴びせていたミノタウルの腕の上に、炎が逆流するように這い上がった。
悲鳴が聞こえた。
攻城車の下で、誰かが手を放した。
覆いが一方へと傾き、攻城槌が大きく揺れた。
その瞬間、もう一本の燃えるボルトが飛来し、攻城槌の鉄の頭に突き刺さった。
鉄と鉄がぶつかる音とともに、炎が弾けた。
油に濡れた鉄頭の周りで炎が立ち上り、錘を吊るす木が焼け始めた。
攻城車が止まった。
ミノタウルたちが退き、覆い全体が炎に包まれた。皮が縮れ焦げていき、木が燃えながら裂ける音が続いた。霧の上に赤い光が広がり、その姿は徐々に崩れ落ちていった。
城壁へと迫りくる、もう一つのオークたちの攻城塔。
側面が焼け焦げ、上部が半ば炎に呑まれていたが、内側ではオークたちが死に物狂いで水を汲み上げ、泥を固めて投げつけては火を消し、前進を止めなかった。炎は完全には鎮まらなかったが、攻城塔は動き続けた。燃える油が伝い落ちて地に滴り、煙と熱気の中でも、車輪は転がり続けていた。
ダムの西側の城壁が、徐々に近づいてきた。
焼け焦げた攻城塔の上部で、鎖が揺れた。
そして、攻城塔上部の落下橋が前へと傾いた。
鎖が解け、がたつきながら垂れていく。
――ドガァン!
重みを乗せた鉄の覆いが、城壁の胸壁の上に打ち下ろされた。衝撃に石粉が舞い、落下橋の先端が胸壁の石の隙間に食い込んだ。
「Okka-Ulla!! Okka-Ulla!! OKKA-ULLA!!」
攻城塔の中で叫んでいた、体躯 が大きく重武装したオークたちが、狭い落下橋を渡って駆けてきた。
貴重なお時間を割いてこの物語の世界に触れてくださり、心より感謝申し上げます




