205話 ダム攻防戦 (10)
夜明け前、霧がダムを飲み込んだ。
立ち込めた霧は正午を過ぎても晴れなかった。ナウラート川の冷たい水から立ち上る湿気がサアルンの森の霞と絡み合い、城壁の向こうにあるものすべてを覆い隠した。太陽が高く昇ってもその光は霧を貫けず、10キュビト(5m)先すら見通せない濃い霧が城壁の兵士たちを覆い、サアルンの森とダムを丸ごと包み込んでいた。
西の城壁の物見塔に立つダウィの兵士が、目を細めて霧を見つめた。白い帳 。動かぬ壁。槍を握る手に力を込め、また緩めた。霧の湿気が槍を握る兵士の手と交わり、手のひらがじっとりと濡れた。
霧の向こうから、様々な音が聞こえてきた。
木が折れる音。鈍く重い音が森から響いてきた。斧の音が続いた。ドン。ドン。ドン。規則的な音。木を切り倒す音だった。
攻城兵器 か梯子 、あるいは木柵でも作っているのだろう、と兵士は思った。
時にその音は近くから聞こえた。城壁のすぐ目の前で木を切っているかのようだった。兵士は槍を持ち上げ、霧へと構えた。しかしその目には何も見えなかった。
霧の中から、方角のわからない音だけが聞こえてくるばかりだった。
ある音は遠くから響いた。森の奥深くで木霊 する音。霧が音を歪めるため、距離がわからなかった。方向も定かではなかった。
オークとミノタウルの声が聞こえた。
荒々しい怒鳴り声。笑い声。何かを叫ぶ声。霧の中に響き渡った。
兵士たちが城壁の向こうに目を凝らす間にも、霧は形を変え続けた。遠い西のサアルンの森が見えそうなほど視界が一瞬開いたかと思えば、また霞んだ。その中で何かが動いたのか、あるいは何もなかったのか、見分けることができなかった。
日が傾くと光は弱まり、冷えていく空気の中で霧はかえって濃くなった。霞んでいた城壁の輪郭はさらに曖昧になり、白みがかった色は次第に暗くなっていった。
夜になった。
ダムの城壁の上に松明が一本、また一本と灯された。油の燃える匂いが広がり、炎は風に長く横たわっては、また起き上がった。
火の光は霧を照らすというより、その手前で止まった。松明の周囲数歩だけが朱色に浮かび上がり、その外はすぐに霞んだ。光の届く場所では霧が揺らめきながらうごめいていたが、少し離れると再び厚い白い靄 が視界を遮った。
兵士たちは城壁の各所に集まって立っていた。何人かは胸壁 に身を寄せて下を見下ろし、他の者は槍を立てたまま頭を上げ、城壁の上の空を見渡した。
夜が更けるにつれ、火の光と霧の境界はさらに近くなった。兵士たちは城壁の下、城壁から少し離れたところにある濠 へと目を向けた。
その日はそうして終わった。オークの矢も飛んでこず、城門に向かって迫るミノタウルの蹄 の音も聞こえなかった。
*****
翌日。
夜明け前、城壁の上の兵士たちが城壁の外の霧の中に、かすかな光を見つけた。
小さな灯りだった。
いくつもの灯り。霧の中で淡く滲む灯りだった。その灯りはゆっくりと向きを定め、城壁へ向けて動いていた。
城壁の上の兵士が振り返り、叫んだ。
「灯りだ!灯りが近づいてきます!」
警告の声が城壁の上を走ると、兵士たちが一斉に身を起こした。槍を持ち上げ、弓弦を引き絞り、霧の中のかすかな灯りを見つめた。
城壁の上に上がってきたバンダが兵士たちの間を横切った。城壁の上を歩き、兵士たちを通り過ぎる際に鳴る鎧の音が立て続けに響いた。
一人の兵士が指先で城壁の下を指した。バンダはその前に立ち止まると、胸壁越しに身を乗り出して下の霧を確かめた。
城壁下の霧は低く垂れ込めていた。
前日とは違い、早朝の冷たい空気が城壁の下に溜まり、霧は城壁の腰のあたりまでしか満ちていなかった。物見塔の頂からは、霧の上に頭を覗かせた木々の梢 が見え、遠くの森もおぼろげに姿を現していた。
しかし城壁の下は完全に塞がれていた。濠も城壁の下の地面も見えず、そこには濃い霧だけが隙間なく満ちていた。
霧の中で小さな灯りが動いていた。
バンダは眉をひそめ、灯りを数えた。城壁に沿ってあちこちに散らばりながら近づいてくる灯りが、十、二十、三十。すぐに数えることができなくなった。それ以上だった。城壁へと向かってくる者たちの松明であることは明らかだった。
「どれほどになりそうか?」
バンダのそばに重い影が止まった。低く沈んだ声が続いた。ガルドンは眼下の霧を見下ろしながら、しばし言葉がなかった。
「正確にはわかりません。しかし、少ない数ではありません」
バンダが答えた。
ガルドンは頷き、霧を見下ろした。松明はさらに近づいていた。今は火の光だけでなく、影も見えた。小さな影。松明を持つ小さな影。
「ゴブリンです」
リルビュルの声が聞こえた。翼を畳んで胸壁の上に止まっていた彼が、嘴 を開いた。
「ゴブリン?」
ガルドンが聞き返した。
「そうです。あの大きさ、あの動き……ゴブリンです」
リルビュルがガルドンに答えた。
バンダは城壁の下を見つめた。霧はゆっくりと動いていた。風はなかったが、白い煙の川が流れていた。川から湧き上がる湿気を含んだ風が霧を押しやっていた。
松明の灯りが消えた。
濠の手前だった。霧のせいで濠は見えなかったが、バンダにはわかっていた。城壁から30キュビト(15m)離れた場所。そこに濠があった。
音が聞こえた。
"Grak-ka-ka-ka!"
"Nek-tah-tah!"
霧の中から高い笑い声が弾けた。鉄を引っ掻くような甲高い音だった。一つではなかった。幾重もの笑い声が重なって響き、あるものはすぐ真下から、あるものは遠く離れた場所から木霊した。
そして別の音も聞こえた。
タン。タンタン。ドン。
木を叩く音。木片が打ち合う音。革が引き伸ばされる音。
バンダは耳を澄ませた。ゴブリンたちが何かを作っていた。おそらく濠を渡るためのものだろう、と思った。
船。筏。何か。
「ゴブリンたちが水舟 を作っています」
バンダが言った。
「水舟?」
ガルドンが聞き返した。
「ゴブリンたちの船です。木と革で作った粗末な船で、ナウラート川周辺のゴブリンたちが川を渡るときに使うものです」
バンダが説明した。
ガルドンは頷いた。彼は城壁の上を歩きながら兵士たちに命じた。
「投槍 と弓を構えよ。敵が濠を渡ろうとしておる」
兵士たちが動いた。柄が短く、先端の鋭い投擲用の槍を持ち上げた。ムワの翼兵たちは具現化された手で槍を握り、城壁の上へ飛び立った。ダウィの兵士たちは肩越しに槍を担いだ。
弓を持つ兵士たちが矢をつがえ、弦を引いた。張り詰めた弦の上で、鏃 は城壁の下の霧へと向けられた。
音が続いた。
ザブン。ザブン。
水の音。霧の下で何かが濠に触れ、水がバシャバシャと鳴った。
"Vark-zug-zug!"(急げ、早く早く!)
ゴブリンたちの声がさらに近づいた。
バシャ。バシャ。バシャ。
水を切る音が続いた。一定の間隔で水が割れ、また打ち合った。
「奴らが渡ってくる」
バンダは胸壁越しに深く身を乗り出し、霧をかき分けるようにして見下ろした。しかし下は依然として見えず、水の音だけがかすかに上がってきた。
そのとき、霧が一瞬割れた。
川から吹き込んだ弱い風が霧を押しのけ、割れた霧の隙間から濠が一瞬姿を現した。
水の上に船が浮かんでいた。
粗末な船だった。木の板を組んだり獣の皮を張ったりして作ったもの、丸太を束ねた筏もあれば、樹皮を曲げて作った小さな舟も混じっていた。
船ごとにゴブリンたちが乗っていた。
小さな体に緑の皮膚と尖った耳を持つゴブリンたちが、船の上で漕いでいた。
数が多かった。
濠に浮かぶ数十艘の小さな水舟。各船に五匹から十匹のゴブリン。数百匹のゴブリンが濠を渡っていた。
そして霧が再び下りてきた。
バシャ。バシャ。ザブン。
水の音。漕ぐ音。船が水を切る音。
"Zukk-shaa-ha."(もうすぐだ)
ゴブリンたちの声。小さな声が入り混じり、霧の中に響いた。
そして別の音が加わった。
カチャ。カチャ。
武器が打ち合う音。ゴブリンたちは武器を持っていた。短剣。小さな斧。槍。鉄が鉄に当たる音が水の音と混じって聞こえた。
ズン。ガタガタガタ。
何かが地面に触れる音。船が濠を渡り、向こう岸の土手に着いた。
そしてさらに多くの音が聞こえた。
ドン。ドドン。ドゴゴ。
ゴブリンたちの水舟が次々と土手に着く音が聞こえてきた。
ゴブリンたちが水舟から飛び降りた。湿り気を帯びた地面を踏む足音が、城壁の下からぬかるんだ響きとともに聞こえてきた。
ジャチャッ。ジャバッ。ジャバッ。
ゴブリンたちが城壁に向かって走った。霧の中に足音が響いた。
じりじりと近づいてきていた。
バンダは目を上げ、ガルドンを見た。大軍長は胸壁に手を置いて下を見下ろしていた。兜の中の眼が、城壁の下の霧を見つめていた。
「大軍長殿」
バンダがガルドンを見ながら言った。
ガルドンは頷いた。彼は振り返り、城壁の上の兵士たちを見た。
霧の中から小さな影が現れた。
淡い影。小さな形。城壁へと近づいてくるもの。
ゴブリンだった。
今はその姿をより確かに見ることができた。霧はまだ濃かったが、城壁の下まで迫ったゴブリンたちの形が一つ、また一つとはっきりしてきた。まず小さな体と丸まった背中が現れ、次いで短い腕とその先に持つ武器が見えた。緑の皮膚は湿気を含んでぎらぎらと光り、尖った耳とくぼんだ目がぎらりと輝いた。
その中の何匹かは城壁へ向かって走りながら、手に持った革の袋を持ち上げ、中身を口の中へ流し込んだ。粘ついた緑の液体が顎を伝ってどろりと垂れた。液体を飲み込んだゴブリンたちは口の端に緑の泡を浮かべたまま、再び異様な笑い声を上げた。
ゴブリンたちが城壁の下へ押し寄せた。
数百匹のゴブリンが見える。霧の中から絶え間なく姿を現し、次々と押し寄せてきた。
ゴブリンたちは城壁に触れるなり手を伸ばし、石を探りながら這い上がろうとした。しかし城壁はあまりにも高く、滑らかな石は彼らの足をことごとく弾き返した。
何匹かは鉤 のついた縄を取り出して力いっぱい投げたが、壁は彼らの予想よりずっと高かった。鉤は壁面を引っ掻く音だけを残して下に落ちた。
「今だ!投げよ!」
バンダの声が城壁の上の兵士たちの耳に響いた。迷いのない短い命令だった。
兵士たちが槍を投げた。
シュウウッ!
鉄が風を切る音がして、槍は霧の中へと吸い込まれた。
シュッ。シュッ。ヒュッ。
ダウィの兵士たちの手を離れた数多の投槍が、一斉に城壁の上から下へと舞い降りた。
ブスッ。ブスブスッ。
槍が肉に刺さる音。鈍く重い音。
"Skra-ghaaat!"
"Gakh!"
ゴブリンの悲鳴。高く鋭い声が霧の中から聞こえた。
さらに多くの槍が霧の中へと飛んでいった。
ムワの翼兵たちは具現化された手を振るって槍を射ち放ち、続いてダウィの兵士たちが短い投槍を投げた。重い力の込もった投槍が続いて城壁の下の霧の中へと飛んでいった。
続いて弓弦が鳴った。
ブゥン。
矢が一斉に飛び出した。空気を掠める音が短く響き、霧が矢を飲み込んだ。
"Keeeeek! Kyaak!"
ゴブリンたちの悲鳴だけが霧の中に続いた。
そして別の声が混じった。
"Nok-tar-ghat!"(逃げろ!)
ゴブリンたちが叫んだ。恐怖に染まった声が聞こえた。
タタッ。タタタタタッ。
ゴブリンたちは濠の方へと逃げた。足音が勢いよく遠ざかった。
ザブン!バシャッ!
水の音。ゴブリンたちが濠へ飛び込み、船に乗り上げて漕ぎながら向こう岸へと逃げていた。
しかし全員が逃げたわけではなかった。
"Kieeeek!! Kya kyak!"
城壁の下ではまだ悲鳴が聞こえた。槍に当たったり倒れたりして、逃げ遅れたゴブリンたちが残っていた。
そして別の音も聞こえた。
"Me-zug! Gar-nuk!"(どけ!俺の場所だ!)
ゴブリンたちが互いに争う声が混じった。何匹かは船を奪おうと互いを押しのけて先に乗り込もうとしていた。水辺では入り乱れた体がもつれ合い、濠を渡る船にしがみついた。
"Duk-ras! Vor-ka!"(押し込め!落ちろ!)
互いを水へ突き落とす声と、はねる水の音が絡み合った。水に落ちたゴブリンたちがもがいて暴れた。
霧の中では互いを踏みつけ押し合いながら逃げる姿が入り乱れていた。
悲鳴はしだいに遠ざかり、水の音も静まっていった。ゴブリンたちはそうして濠を渡り、散り散りになった。
そして静寂が訪れた。
霧だけが残った。動かぬ白い帳が城壁の下を覆っていた。
バンダは槍を下ろし、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が喉を撫でて降り、胸の中をひんやりと満たした。
城壁の上の兵士たちも武器を下ろした。
バンダは振り返り、ガルドンへと歩いていった。大軍長は依然として胸壁に立ち、霧を見下ろしていた。
「大軍長殿」
バンダが呼んだ。
ガルドンが顔を向けた。
「ゴブリンたちが退きました」
バンダが報告した。
「どれほど討ち取ったか?」
ガルドンが問うた。
「正確にはわかりません。霧のせいで見えませんが、少なくない数のゴブリンが倒れているかと思います」
バンダが答えた。
ガルドンは頷いた。
「リルビュルは?」
「翼兵たちを連れ、残ったゴブリンを始末しに城壁の下へ降りていきました」
バンダが言った。
ガルドンは霧を見下ろした。しばらくして、翼の音が聞こえた。翼兵たちが次々と霧の中へ降りていく様子が見えた。
そして短いゴブリンの悲鳴がもう何度か聞こえた。
翼の音が再び聞こえた。リルビュルと翼兵たちが戻り、城壁の上に次々と降り立った。彼らの羽根のあちこちには、まだ乾いていない血が染みていた。
「終わりました。城壁の下に、生きて動くものはございません」
リルビュルが報告した。
ガルドンは頷いた。彼は城壁を歩きながら兵士たちを見渡した。
「よくやった。されど、気を緩めるな」
兵士たちが頷いた。
ガルドンは再び霧の方へと向き直った。そして耳を澄ませた。
静かだった。
静かすぎた。
ゴブリンたちの声が消えていた。
そのとき、城壁の外、サアルンの森の方角から音が聞こえた。
ドン。ドン。ドン。ドン。
太鼓の音。
遠くから響いてくる太鼓の音。深く重い音。
ドン。ドドン。ドドドドドン。
「太鼓の音です」
バンダがガルドンに言った。
「オークどもの太鼓だ」
今回は、読者の皆様の視界と鼓膜を霧の中に閉じ込めたかったのです。湿った空気と骨まで染み入る冷気、そして霧の向こうから聞こえる正体不明の音。その冷たさが背筋を伝う感覚を、どうかそのまま感じ取ってください




