203話 ダム攻防戦 (8)
〈ダムの夜明け〉
夜明けの空気は冷えていた。
ダムの西の城壁の上から、闇が退いていくところだった。空はまだ完全には明けておらず、東の果てにだけ、かすかな灰色の光が滲み出ていた 。
星はひとつずつ消えていき、ふたつの月はすでに西の地平線の彼方へと傾いて、姿を消していた。
冬の露が、城壁に沿って立ち並ぶ木々の葉に宿っていた。
大木の枝は湿ってしっとりと濡れており、葉のひとつひとつに小さな水滴が連なっていた。ときおり風が吹くと、水滴が落ちて石畳に小さな音を立てた。ぽつ。ぽたぽた。不規則な音だった。
城壁の石は青みを帯びていた。夜明けの光が灰色の石に染み込み、冷たく色づいていた。
石の表面に散る黒い結晶が、かすかにきらめいていた。モノス採石場から切り出された石だった。硬く、重い石。積まれてから日が浅く、石と石の継ぎ目はまだ荒かった。
西の城壁と南の城壁が交わる地点には、巨大な石の物見塔 が聳えていた 。
未完成の物見塔だった。塔の最上部はまだ石が積み切れておらず、骨組みが剥き出しになっていた。木材の梁 が露わになっており、その上に天幕が被せられていた。吹きつける風に、天幕がはためいていた。
塔の外壁の一部は、石が十分に整えられていないため表面が凸凹 としていた。しかし全体の形は明らかだった。巨大だった。普通の物見塔の何倍もある、圧倒的な大きさだった。
オークとミノタウルの大軍が迫るという報せが届いてから、クラバの命令によって城壁の外側に向けた足場はすべて撤去されていた。木の柱は抜かれており、踏み板は解体されたまま城壁の内側の空き地に積み上げられていた。
城壁の一部の区間は、まだ形が整っていなかった。石と石の間の隙間が広く、表面を整える作業も終わっていなかった。しかし壁としての機能は十分だった。高さも、厚みも、敵を阻むに足りていた。
城壁の上には松明 が灯されていた。
鉄製のブレイジャーが一定の間隔で置かれていた。半球形の鉄製のブレイジャー だった。三本の脚が地を踏みしめており、その上で炎が燃え上がっていた。
ブレイジャー の中では炭が余り火 のように燃えていた。橙色の炎は夜明けの青みの中では鮮明に見えず、色あせたように鈍い光でゆらゆらと揺れていた。熱気が上へと昇り、空気を揺らがせていた。
一人のダウィの兵士がブレイジャー のそばに立っていた。
オークとミノタウルの軍勢が接近しているという報せが届いてから、彼は普段より重い装備を身に纏っていた。
大柄な体格に合わせて作られた鎧が、分厚い肩と胸を覆っていた。肩の板金には、ずっと昔に刻まれた傷跡が完全には消えずに残っていた。兜 は顔全体を覆っていたが、首と顎の下には、褐色の毛が隠れることなく覗いていた 。
盾を体に引き寄せ、ブレイジャー の熱を背に受けながら、城壁の外を見つめていた。もう一方の手には長槍を持っており、柄 の中ほどには短い革紐が緩く結ばれていたが、今は手に巻かず垂れたままになっていた。戦いとなれば手首に掛けて槍を突き出すために、彼が取り付けたものだった。
彼はしばらく槍を下ろし、ブレイジャー の前の城壁に立て掛けた。両手を合わせて冷えた掌 に短く息を吹きかける間、槍の柄に結ばれた革紐が、城壁の上を吹き過ぎた風に揺れていた。
その脇へ、ムワの翼兵が一人飛んできた。
翼をはためかせて城壁の上に降り立つ瞬間、爪が石畳を掴んで鋭い音を立てた。それから彼は翼を畳み、黒い羽根が体の両脇へ流れ落ちるようにして収まった。
彼もまた武装していた。革鎧が胸と背を包んでおり、肩には鉄板が重ねられていた。首には金属の輪が掛けられ、そこに外套 が固定されていたが、外套は短く、翼の動きを妨げないよう腰までしか届いていなかった。爪には青銅で作られた爪鞘 が被せられていた。
ムワの翼兵がブレイジャー へと近づくと、ダウィの兵士はそこで初めて顔を向けて彼を見た。
「うう……今日は昨日より冷えるな」
近づいてきたムワが言った。
「だな」
ダウィの兵士が答えた。槍を地に立てたまま、片手をブレイジャー の上へと伸ばした。熱気が掌に触れた。
「奴らも、そのうち来るだろうな」
ムワはブレイジャー の脇に腰を落とした。爪を縮めた。
「そうだろうな」
ダウィの兵士が頷いた。
二人の間に短い沈黙が流れた。ブレイジャー の中で炭がしゅわしゅわと鳴る音だけが聞こえていた。
「ダムにオークとミノタウルか」
ムワの兵士が呟いた。
「思いもしなかったな」
ダウィの兵士が言った。
「奴らの数、どのくらいだって話だっけ?」
ムワの兵士が問いかけた。
「クイリンの話じゃ、オークが七万だったか? いや、五万だったか?」
ダウィの兵士が首を傾げた。
「ミノも三万いるって話だぞ」
「馬鹿な」
ムワが嘴 を振った。
「俺も聞いた話だから」
ダウィの兵士が肩をすくめた。
「それだけの数なら、ダムの前のサアルンの森がオークとミノで埋め尽くされるな」
「そうか……」
ムワが答えた。
「でも嘘じゃないだろ。サルマ軍長殿が直に見てきたんだから」
「サルマ軍長殿が……」
ダウィの兵士が低く呟いた。
「ヤクラ翼兵の半数を失って、つい先頃お戻りになったんだ」
「セビレ様も亡くなったって聞いたぞ」
「聞いた。モスロウ家の翼兵指揮官でいらしたって……」
「あれほど強いお方でも、逝くんだな」
ムワが溜め息をついた。
「俺たちはどうなるんだろうな」
「生き残るさ。生き残らなきゃいけないんだから」
ダウィの兵士が燃えさかるブレイジャー の炎を見つめながら言った。
ムワが顔を上げ、西を見やった。まだ闇の晴れないサアルンの森では、木々が黒い輪郭だけを浮かび上がらせて立ち並び、その間から吹き込む風に枝が互いに擦れ合いながら揺れていた。
そのときだった。
ムワの目が細まった。
「あそこ」
彼が翼の先で指し示した。
ダウィの兵士が視線を移した。遠く西の森の向こうに、何かが見えた。
砂埃 だった。
砂埃の雲が立ち上っていた。一つではなく、数十もの。森の上に湧き上がった灰色の塊が互いに重なり合いながら、ゆっくりと迫ってきていた。
「あれは何だ?」
ダウィの兵士が問いかけた。
ムワは答えなかった。翼を広げた。爪が石畳を蹴って、体が上へと跳び上がった。
空中で翼を羽ばたかせた。一度、二度、三度。力強い羽ばたきが続いた。城壁の上、数十キュビットまで達すると風が体を揺さぶり、羽根が舞い散った。彼は目を細めて西を見据えた。
砂埃の向こうに何かが見えた。
木々が倒れていた。
巨大な木々が一本ずつ倒れていた。遠くからでも見えるほど大きかった。サアルンの森の大木たちだった。根こそぎ引き抜かれたのではなかった。中ほどで断ち切られていた。斧で打ち倒されたのだ。
「あの距離なら、三から四ティタといったところか」
ムワが呟いた。
四ティタ。近い距離ではなかった。それでも見えた。木々が倒れていくのが。そして砂埃が立ち上っているのが。
ムワはゆっくりと降下した。翼を畳みながら城壁の上へと降り立った。爪が石を掴んだ。
「木を伐ってる」
彼が言った。
「木を? 誰が? オークか? ミノタウルか?」
ダウィの兵士が聞き返した。
「ああ。木を。今この瞬間も」
ムワが頷いた。
ダウィの兵士は口を閉じた。西を見た。土煙がじわじわと濃くなっていた。
ほかの兵士たちも気づき始めた。
城壁の上を巡回していたダウィの兵士が足を止めた。城壁の胸壁 に手を置いて西を見やった。
兜の下の目が見開かれた。
「あれは何だ?」
彼が傍らの仲間に問いかけた。
「わからんが、良い兆しじゃなさそうだな」
仲間が答えた。
城壁のあちこちから兵士たちが集まり始めた。ブレイジャー の周りにひとり、またひとりと集まった。
誰もが西を見ていた。
土煙は上がり続けた。
鈍い音が聞こえてきた。
ズシン。ズシン。ズシン。
木が倒れる音だった。巨大な木が地に叩きつけられる音。遠くから聞こえてきたが、確かだった。
規則的ではなかった。あちこちから聞こえた。一本ではなかった。数十本が同時に倒れていた。
「あれはきっと……」
一人のダウィの兵士が言いかけて止まった。
「オークだ!」
別の兵士が続けた。
「あそこ! ミノタウルもいる!」
ムワの翼兵が一人、声を重ねた。
時が流れた。
日が昇った。東から赤い光が広がり、空が橙色に染まった。雲にもうっすらと赤みが滲んだ。夜明けの青みが晴れ、温かな朝の光が城壁を照らした。
しかし兵士たちの視線は東ではなく、西へと向いていた。
今ではさらに多くのものが見えていた。
木々が倒れるだけではなかった。倒れた木々が一か所に集められ、多くの手によって引きずられていた。巨大な幹が地を引っ掻きながら移動するにつれ、土煙はさらに濃く立ち上った。
砂埃の中から、灰色がかった形と角のある巨大な影が浮かび上がった。オークとミノタウルが木を引き、運びながら、その中を忙しなく行き来していた。
木柵が立てられていた。木の柱が地に打ち込まれ、一本ずつ立てられ、一列に並んだ。間隔は一定ではなく粗く雑然としていたが、作業は速く進んでいた。
別の場所では土塁 が作られていた。地が掘り返され、土が積まれた。そうして低い土手が形成され、木柵の手前に積み重ねられていった。
煙が立ち上った。黒い煙だった。あちこちから同時に上がっていた。炎の光がちらちらと見え隠れし、その上から煙が真っ直ぐ空へと立ち昇っていた。
荷車が見えた。遠くてはっきりとは見分けられなかったが、動いていることだけは確かだった。車輪が地を転がりながら緩やかに進んでおり、荷台には正体のわからない荷が高く積まれていた。
天幕が立て始められた。
大小さまざまな天幕が並んでいった。皮で作られた天幕だった。表面には粗く縫い合わせた跡がそのまま残っていた。毛が長くついたままのものもあれば、毛が半ば刈り取られて革の質感がそのまま露になっているものもあった。
色はそれぞれだった。褪せた褐色のものもあれば、灰色がかったものや、黒く煤けた ようなものも混じっていた。同じ形の天幕はほとんどなかった。
天幕の頂にはそれぞれ木の柱が立てられ、四方へと伸びた縄が地に打ち込まれた。引き絞られ、固定され、また隣にもう一つが立てられた。そうして天幕たちが次々と並んでいき、広い空間を占めていった。
城壁の上の兵士たちは言葉を失っていた。
一人のダウィの兵士が口を開いた。
「あれが全部……オークと……ミノってことか?」
答える者はなかった。
「あんなに多いのに、どうやって……」
また別の兵士が呟いた。
「俺たちが戦わなきゃいけないんだ。あいつらと」
ムワの翼兵が翼を震わせて言った。
「大軍長殿は何とおっしゃるかな」
「わからんが、戦うだろう。当然」
「勝てるのか?」
「勝たなきゃ。ダムがここにあるんだから」
兵士たちの間に不安が広がった。同時に、覚悟もともに広がった。恐れはあった。しかし退けないことも、わかっていた。
一人のダウィの兵士が前に出た。彼は兜を外した。灰色の混じった褐色の毛が露わになった。一目で年老いているとわかった。目元には古い傷跡が残っていた。
「早く軍長殿へ報告しろ」
彼が言った。
傍らにいた若いダウィの兵士は短く頭を下げると、すぐに体を翻して走り出した。
老兵は再び西を見た。
侵略者たちの野営地は広がり続けていた。天幕が増え、木柵が伸び、土塁はじわじわと高くなっていた。立ち上る煙も、さらに多くなっていた。
そして遠く、はるか遠くのサアルンの森の間に、また別の動きが見えた。
形はまだはっきりせず、距離があって輪郭がおぼろだった。しかし数だけは確かだった。数えきれないほどに多かった。黒い点が森の間を移動しており、その一部は手に何かを持っていた。
炎の光がきらりきらりと明滅し、動きに合わせて揺れた。武装したオークとミノタウルが、松明を手に姿を現しつつあった。
灰色の混じった褐色の毛を露わにしたダウィは、槍を固く握った。
「ついに来たか」
彼が低く呟いた。
城壁の上の兵士たちは散るように動き始めた。ブレイジャー の傍に集まっていた者たちが先に持ち場を離れ、槍を握って城壁の胸壁へと向かう者もあれば、弓を手に梯子の方へ足を向ける者もあった。
鎧が擦れ合って小さな金属音が鳴り、軍靴 が石畳を踏む音が続いた。兵士たちは無言のまま、それぞれの持ち場へと向かっていった。
そのとき、城壁の胸壁で一人のムワの翼が広がった。
「月の側だ! 森の向こうまで続いている!」
短い叫びとともに、彼は空へと舞い上がった。
翼兵が城壁の上を低く飛んで通り過ぎ、その影が兵士たちの間をかすめていった。
彼は城の内側へと飛んでいきながら、別の城壁と物見塔の方へも同じ言葉を伝える準備をしていた。
陽光が城壁を照らした。温かな光だった。しかし城壁の上の空気は、依然として冷たく重かった。
西の森の向こうで、敵の野営地がじわじわと鮮明になっていた。
この世界の一幕に目を留めてくださり、誠にありがとうございました




