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202話 ダム攻防戦 (7)

怪物の背に乗る黒い影は体を低くしたまま、翼を羽ばたかせる怪物と完璧に息を合わせていた。


手綱(たづな) は見えなかった。それでも怪物の飛行には、微か(かすか) な揺れさえなかった。


サルマはその瞬間、確信した。


あれは、自分が乗っている怪物を支配している。


「背の上に騎手がいました」


サルマが目を閉じたまま言った。


ガルドンは何も言わず、ただ聞いていた。


「最初は形だけが見えました。サルン・ケと同じくらいの体格でした」


サルマの翼が再び震えた。治療師が軟膏を塗る手を止めた。


「鎧(よろい) を纏って(まとって) いました。全身を包む鎧。しかしオークどもの粗末な鉄甲ではありませんでした」


サルマが続けた。


「鱗(うろこ) のように繋がった鎧で、幾重にも噛み合い、隙間はほとんどありませんでした。最初は黒く見えましたが、月明かりがかすめると、闇の滲んだ(にじんだ) 青色が浮かび上がりました」


サルマが言い終えても、ガルドンはすぐには反応しなかった。


しばし、無言の時が流れた。


「兜(かぶと) は?」


ガルドンの目元が動いた。


「被っていました」


サルマが頷いた。


「ただし、サルン・ケやエルフの兜とは形の異なる兜でした。先の長い兜で……」


サルマの嘴(くちばし) が開いた。


「顔は見えませんでした。面頬(めんぽう) で覆われており、兜の隙間からは赤い目だけが覗いていました」


部屋が静まり返った。


治療師たちも手を止めた。翼兵(よくへい) たちも息を潜めた。


「オークどもではありませんでした!」


サルマが断言した。


「大軍長(だいぐんちょう) ! オークどもにはあれほど精巧な鎧は作れません」


「ミノタウルではないのか?」


「なおさら違います」


サルマが首を横に振った。


「ミノタウルはあのような飛び翔ぶ獣には乗りません。あの者たちは地上で戦う種族です」


サルマは言葉を止めた。そして再び目を閉じた。


記憶の中で。


巨大な翼を持つ灰色の怪物が旋回した。翼を傾けながら体をひねり、流れるように方向を変えた。動きは、魚が水の中を泳ぐように滑らかだった。


そして騎手が動いた。


手が見えた。


手の甲と掌(てのひら) は黒いガントレットが覆い、関節と指だけが革で繋がれていた。


鉄と革で包まれていながらも、その指は長かった。サルン・ケの手に似ていながら、より細く繊細だった。エルフの手に近い形だった。


その手が手綱を引いた。革と鎖で作られた手綱が怪物の首に掛かっていた。


怪物はすぐに反応した。頭を巡らせて翼を畳み、サルマへ向かって急降下した。


サルマは横へ体をひねり、翼を羽ばたかせて躱した(かわした) 。間一髪、怪物がかすめて過ぎた。


風が体を打ちつけ、灰色の鱗が目前を切り裂いて過ぎた。


そして尾が飛んできた。


長い尾だった。先端には棘(とげ) が生えており、節ごとに鉄片が添えられていた。


サルマは怪物の攻撃を辛くも(からくも) 躱した。尾が翼の端をかすめ、羽根が数枚散った。


怪物が再び上昇した。一度の羽ばたきで、サルマとの距離はたちまち開いた。


そして騎手は、怪物の背の上、鞍(くら) の前に固定してあった槍を一息に引き抜いた。


長い槍だった。鋭く研ぎ澄まされた穂先、柄(え) は黒く、穂先だけが銀色に輝いていた。


騎手が槍を持ち上げ、構えた。その視線の先はサルマだった。


怪物が再び突進した。


翼が広がり、爆発的な速度でサルマへと加速した。


サルマは急旋回した。体をひねって下へと落ちながら、間一髪で槍を躱した。


槍が頭上をかすめ、兜の金属を裂いた。


額から血が流れた。多くはなかったが、目へと滲み込んだ。視界が赤く染まった。


サルマはすぐさま翼を広げて体勢を立て直した。そして反撃を試みた。


具現化。


青い光がサルマの翼から滲み出した。


光は形を成して手になり、その手が槍を掴んだ。


サルマは騎手へ向かって槍を投げた。


風を切る鋭い音とともに槍が飛んだ。


しかし、当たらなかった。


騎手が体を傾けた。


怪物の首に体を張り付けたまま、飛んでくる軌道を流した。


槍は虚空を裂いて外れ、下へと落ちた。


同時に怪物が口を開けた。


朱色の炎が短く噴き出し、夜空を焦がした。


サルマはすぐに反応した。


大きく翼を一度羽ばたかせ、続いて翼を畳んで体を立てながら上へと舞い上がった。


炎の幾筋かが翼の端をかすめ、微かな火の粉が散った。焦げる匂いがした。


サルマはさらに上へ上がった。


息が荒くなった。翼が重くなった。熱さと緊張が同時に体を締め付けた。


そして悟った。


『勝てない。』


戦いではなかった。一方的な狩りだった。


サルマは当惑を覚えた。敗北の感情ではなかった。


空で、自分が追われているという感覚だった。


彼はいつも上にいた。見下ろす側であり、追う側だった。


しかし今は違った。サルマは後退を決めた。


翼兵たちを呼び、生き残った者たちを集めた。


そして逃げた。


「そうして戻りました」


サルマが目を開けた。


声は力が抜け、沈んでいた。


ガルドンは依然として何も言わず立っていた。表情が固まっていた。


「その怪物は……」


ガルドンが口を開いた。


「その怪物についての記録を見たことがある」


サルマが顔を上げた。


「アンドゥル・ナバザールの著書だ。荒野(こうや) の北部についての記録」


ガルドンが言った。


「空を飛ぶ、翼を持つ怪物。炎を吐く化け物。ワイバーンと呼ぶと書いてあった」


「ワイバーン……」


サルマがその名をゆっくりと繰り返した。馴染みのない名ではなかった。ただ、長い間埋もれていた記憶に近かった。


彼はしばらく言葉を継げなかった。視線を落としたまま、記憶を辿った。


「……見たことはあります」


サルマが慎重に言った。


「ずっと昔のことです。荒野の北部へ遠征したときでした。戦闘でもなく、遭遇したわけでもありませんでした」


彼はしばらく息を整え、言葉を続けた。


「遠くから見ました。あまりにも遠く、形さえ定かではありませんでした」


サルマは首を横に振った。長く説明できるほど鮮明な記憶ではなかった。


「だから忘れていました。記憶と呼ぶのも難しい、そういうものでした。あのときのそれは……飼い慣らされた様子ではありませんでした」


サルマの翼がはためいた。


「しかしあの騎手は怪物を、そのワイバーンを完璧に操っていました。まるで……」


「サルン・ケたちのグリフォン騎手のようにだな」


ガルドンの言葉にサルマが頷いた。


「そうです。サルン・ケたちのグリフォン騎手のように。しかしあのワイバーンの騎手はサルン・ケではありませんでした」


ガルドンの視線がサルマから離れなかった。


「……なぜそう思う?」


サルマはしばらく言葉を選んでから首を横に振った。


「確信と呼べるほどの根拠はありません。ただ……」


その言葉をガルドンが継いだ。


「荒野にはサルン・ケがいない」


サルマが顔を上げた。


「私の知るところも、そうだな。君もまた幾十度(いくじゅうど) の遠征の間、一度たりとも荒野でサルン・ケを見たことがないだろう? それどころか、オークやミノタウルと肩を並べるサルン・ケなど……」


ガルドンはしばし言葉を止めた。


「想像しにくいな」


サルマはゆっくりと頷いた。


「サルン・ケである可能性は低いです」


サルマはしばらく息を整えてから続けた。


「そして、オークでもミノタウルでもないということは……直接お見せします」


サルマは寝台脇の卓へと翼を伸ばした。具現化した手が現れた。青い光の手が卓上の盆を取り上げた。


盆の上には矢が置かれていた。


「これがその証拠です」


サルマが言った。


具現化した手が虚空で矢を一本引き上げた。彼はそれをガルドンの方へと差し出した。


ガルドンは矢を受け取った。


何気なく掴んだ手が、すぐに持ち直した。


矢じりだった。


三角に研ぎ澄まされた矢じりは、均衡が過ぎるほど正確だった。刃は薄く、先へと向かうにつれて微妙に内側へと反っていた。


表面には紋様が刻まれていた。装飾と呼ぶには深く、標識と呼ぶには精巧すぎた。


渦を巻くように連なる線と、蔦(つた) のように絡み合う紋様。それぞれが互いを侵さないまま、ひとつの流れをなしていた。


ガルドンの視線が自然と矢柄(やがら) へと移った。


木を削って作ったことは明らかなのに、木目が見えなかった。節も、微かな歪みもなかった。


まるで最初からこの形で育ったかのように、真っ直ぐだった。


矢羽(やばね) は黒かった。鳥の羽根。どの鳥の羽根かはわからなかった。しかし羽根は均一に整えられており、一定の角度で付けられていた。


「これは……オークの手から出るような代物じゃないな」


ガルドンが呟いた。


「オークの矢は粗末だ。矢じりは大まかに打って作り、矢柄は歪んでいる。矢羽も勝手に付いている」


ガルドンは矢を持ち上げた。光に透かして見た。


「これは違う。職人が作ったものだ。手間を惜しまなかった証だ」


「そうです」


サルマが答えた。


「そしてミノタウルは弓を使いません」


ガルドンが頷いた。


「そうだな。ミノタウルは斧と槍を使う。弓は弱者の武器だと侮る」


ガルドンは矢を卓に置いた。そしてサルマを見た。


「では、誰なのだ?」


サルマは答えなかった。答えられなかった。


「オークでもなく、ミノタウルでもなく。ワイバーンを手なずけ、精巧な矢を作り上げ、相手を誘い出して周到な攻撃を仕掛ける者たちだ」


ガルドンの声が低くなった。


「我々の知らぬ敵が、ダムへ向かっている」


部屋が静まり返った。


治療師たちはその場に立ったまま、誰も先に動けずにいた。


壁際に立つ翼兵たちも姿勢を乱すことなく、息すら押し殺したままだった。


言葉が加えられることのない沈黙だった。


サルマが深く息を吸ってから言った。


「再び出撃します」


声は断固としていた。


「今度はモスロウのキナたちを呼び覚まし、全力で奴らに当たらなければなりません」


「ならん」


ガルドンが断固として言った。


「君はまだ回復中だ。戦場に立てる体ではない」


「そのくらいはわかっています」


サルマが顔を上げた。


「しかし今の状況が、それを構う余裕を与えてくれません」


サルマが言い返した。


「私はモスロウ家の軍長(ぐんちょう) です。私の部下たちが死にました。セビレが私の目の前で落ちました!」


サルマの声が震えた。


「この屈辱を、この恥を、黙って飲み込むことはできません。再び打って出て、晴らさなければなりません!」


「感情で戦えば負ける」


ガルドンが冷たく言った。


「復讐は体が癒えてから考えろ。今は休んでおけ」


「休めません!」


サルマが叫んだ。


寝台から立ち上がろうとした。翼がはためいた。治療師たちが急いで駆け寄った。


「軍長殿!」


「放せ!」


サルマが翼を振り払った。治療師の一人が弾き飛ばされ、床に倒れた。


「今すぐ出なければなりません! 奴らがダムに辿り着く前に!」


「今は出る時ではない!」


ガルドンが叫んだ。


声が部屋全体を満たした。壁が震えた。窓が揺れた。


治療師たちが凍りついた。翼兵たちも動けなかった。


サルマさえ、はっとして立ち止まった。しかしすぐに、再び翼を広げた。


「それでも出ます」


ガルドンが問うた。


「何故そう急ぐ? 敵はまだここには来ていない。時間はある」


「時間がありません!」


サルマが叫んだ。


「あのワイバーンの目……あの目を。私を見下ろしていたあの目を。私はもう一度向き合わなければなりません」


サルマの嘴が震えた。


「あの夜、私は死を感じました。初めて。戦場で幾度も戦ってきましたが、あの夜のように死が近くに来たことはありませんでした」


サルマの翼がだらりと垂れ下がった。


「そして逃げました。セビレを見捨てて! 生きるために!」


声が詰まった。


「この屈辱を……この恥を……」


サルマが頭を垂れた。


「耐えられません」


ガルドンは何も言わなかった。ただサルマを見つめていた。


長い沈黙が流れた。


そしてガルドンが口を開いた。


「復讐は生きている者にしかできない」


声は柔らかかった。しかし揺るぎなかった。


「今死んでは何もできない。屈辱も拭えず、部下たちの仇も討てない」


ガルドンが一歩近づいた。


「休め。体を回復させろ。そして万全に備えよ」


「しかし……」


「命令だ」


ガルドンが言い切った。


「私はダムの大軍長であり、君もダムの軍長だ。私の命令に従え」


サルマの嘴が震えた。怒りが、羞恥が、挫折感が入り混じっていた。


しかし答えることができなかった。ガルドンの言葉は正しかった。命令だった。


ガルドンは体を向き直した。扉へと歩いた。


「後でまた来る」


ガルドンが扉の前で止まった。


「それまでに体を立て直せ。そして考えておけ。どう戦うかを」


ガルドンが扉を開けた。廊下の光が部屋の中へと溢れ込んだ。


「奴らは我々の知らぬ敵だ。しかしダムもまた、奴らの知らぬ場所だ」


ガルドンが出ていった。板金鎧(ばんきんよろい) が軋んで(きしんで) 鳴り、その音は次第に遠ざかっていった。


部屋にはサルマだけが残った。そして治療師たちと翼兵たちが。


サルマは寝台にへたり込んだ。翼がだらりと垂れた。力が抜けていった。


「再び出て……」


サルマが呟いた。


「この屈辱を取り返してやらなければ……」


声は震えていた。怒りと羞恥が入り混じっていた。


治療師たちが近づいた。おそるおそると。再び軟膏を塗り始めた。


サルマは抵抗しなかった。ただ頭を垂れたまま、あの夜を思い返していた。


窓の外から陽光が溢れ込んだ。温かな陽光。穏やかな陽光。


しかしサルマの心の中は、依然としてあの夜だった。暗い夜空。降り注ぐ矢。落ちていくセビレ。そして迫りくる灰色のワイバーンと、その背の上の騎手。


赤い目。


見下ろしていたワイバーンの騎手の赤い目。


サルマは目を閉じた。


『次に会ったときは……』


『必ず……』


窓の外から風が吹き込み、カーテンが軽くはためいた。

私が紡ぐ世界に足を止めてくださった皆様へ、敬意と感謝を込めて

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