201話 ダム攻防戦 (6)
モスロウ家の邸宅。邸宅の内部には、二枚の大きな旗幟 が掲げられていた。紅地に太陽の紋章が刻まれた、モスロウ家を象徴する旗幟だった。
紋章は金の糸で縫い取られており、陽光を受けてほのかに輝いていた。旗の下には、ムワの武具が整然と並んでいた。
羽刃が見えた。
刃翼とも呼ばれる、ムワ固有の武器。精緻に彫琢 された刃には、華やかな文様が刻み込まれていた。
渦巻く風の形、広げたムワの翼、そして細かく刻み込まれた文字が、刃の表面に沿って流れていた。
それぞれの羽刃は、モスロウ一族の偉業と名誉を象徴していた。その重みは、小さな木の台座や、いかに華やかな文様をもってしても、とうてい表しきれるものではなかった。
羽刃の傍らには、甲冑が立てかけられていた。板金と革を組み合わせた、ムワ特有の鎧。翼を自由に動かせるよう設計された造りで、肩当てには羽毛の形が意匠として施されていた。兜は嘴の形に突き出ており、目の部分は琥珀 色の水晶で覆われていた。
邸宅の中へ足を踏み入れると、高い天井が視界を圧した。邸宅の主であるモスロウ一族のために設計された構造だった。邸宅のどこであっても、翼を広げて飛び上がっても何にも当たらないほど、広く、そして高かった。
壁面には、モスロウ家の歴史を描いた絵が隙間なく飾られていた。
大小さまざまな額縁が無秩序に連なり、あるものは遠い西方でのオークとの戦いを描いた大きな絵であり、その周囲にはモスロウ家歴代の当主たちの肖像が掛けられていた。
幾世代もの時を越えてきた歴代の軍長 たちの視線が、大きさも構図もまちまちなまま、壁の上で互いに絡み合っていた。
廊下を進んで奥へと入れば、邸宅の主、サルマの部屋があった。
扉は厚く重い木でできており、取っ手は青銅で鋳造されていた。扉の表面には、ムワが月を背景に翼を広げた姿が彫り込まれていた。
そしてその扉の向こうから、叫び声が聞こえてきた。
壁と廊下を伝って邸宅全体へと広がる、押し殺した苦痛の痕跡だった。
「くっ……!さっさと治療を終わらせろ!」
サルマの声だった。苦痛の滲む声。
「軍長 様、動いてはなりません!」
治療師の声が続いた。切迫していて、懸命だった。
扉が開いて、もう一人の治療師が急いで部屋の中へ飛び込んだ。
部屋の中は広かった。天井は丸く高く盛り上がり、窓は大きく高く開いていた。陽光が降り注ぎ、埃がその光の中でゆっくりと漂っていた。
寝台は部屋の中央に置かれていた。厚い布でできた寝具が敷かれていたが、流れた血が布の織り目に沿って固まっており、急いで拭き取った跡ごとに赤い染みが滲んで残っていた。
サルマがその上に座っていた。半ば起き上がった姿勢。背を床頭板 に預けたまま、翼を広げていた。
左の翼が力なく垂れ下がっていた。羽毛の間々に赤い跡が見えた。乾いた血の痕跡。そしてまだ乾いていない血。
「もう一度言うぞ!」
サルマが叫んだ。
「俺は今すぐにでも出て行って、あいつらの首をへし折ってやれる!だからさっさと治療を終わらせろ!」
翼が羽ばたいた。右翼が大きく広がって風を起こした。寝台の上の布が翻り、卓上の布切れが吹き飛んだ。
「軍長様!」
治療師が慌てて叫んだ。
彼はサルマの脇腹に軟膏を塗り続けていた。手には青みがかった薬草の練り物がついており、その匂いが部屋いっぱいに満ちていた。苦い匂い。焚いた薬草の匂いが部屋中に広がっていた。
「動けば傷が開きます!すでに三度も !」
治療師の声は、ほとんど懇願に近かった。
もう一人の治療師がサルマの翼をそっと支えていた。彼は血のついた羽毛を一枚一枚丁寧に拭き取っていた。水を含ませた布で。布はすでに赤く染まっていた。
「翼骨 にひびが入っています。一週間は動いてはなりません。」
治療師が言った。彼の前には清潔な白い包帯を握った具現化した手が浮いていたが、サルマの怒りを前にして、その形は不安定に揺れていた。
「一週間だと?」
サルマが眉をひそめながら聞き返した。
「一週間もあれば、あいつらはダムの城壁の前まで来ているぞ!」
「それでも今出られては……」
「死ぬと言いたいのか?」
サルマの目が鋭くなった。猛々しく閃く彼の黄色い瞳が、治療師を刺し貫いた。
治療師は口を閉じた。頭を伏せた。
サルマはくちばしを鳴らした。くちばしが噛み合わさる音が小さく響いた。
「俺はモスロウ家の軍長だ!俺の部下たちが死んだ!セビレが死んだ!俺の目の前で!」
声が低くなった。怒りは収まらなかった。それはより深い場所へと沈み込んでいき、凝縮されたまま留まっていた。
「それなのにお前たちは、俺に寝て休んでいろと言っているのか!」
サルマの叫びが壁を揺さぶり、天井の下で跳ね返って戻ってきた。
治療師たちの肩が同時にびくりと震えた。部屋にいる誰一人、言葉を継ぐことができなかった。
部屋の空気が重かった。陽光は降り注いでいたが、部屋の空気を圧迫していたのは 、サルマから滲み出る、まだ冷めやらぬ彼の戦意だった。
その時だった。
廊下から足音が聞こえた。
重く規則的な足音。板金が擦れ合う音。金属のきしむ音。
誰かが近づいてきていた。
サルマが頭を巡らせた。治療師たちも扉の方を見た。
扉の前で足音が止まった。
そして声が聞こえた。
「大軍長がお越しだ!道を開けろ!」
廊下の外から誰かが声を張り上げた。
すぐに別の声が聞こえた。
「サルマ軍長はただいま治療中でございます。」
モスロウ家の翼兵 だった。落ち着いた、毅然とした声。
「大軍長がいらっしゃいましても、今はお会いできません。」
廊下で動きがあった。足音がいくつも重なった。翼の羽ばたく音。モスロウ家の翼兵たちが集まってきていた。
「道を開けろ。」
新しい声が聞こえた。
低く、深い声。しかし穏やかだった。脅しではなく、勧めのように聞こえた。
「サルマ軍長が治療中だから来たのだ。見舞いに来た。」
ガルドンの声だった。
「ですが……」
翼兵が躊躇した。
「退け。」
ガルドンが再び言った。
今度は穏やかな声ではなかった。声は相変わらず低かったが、そこに込められた重みは明らかに異なっていた。それは要請でも警告でもなく、拒むことのできない命令だった。
翼兵たちが退いた。足音が後ろへ引いていく音。翼の畳まれる音がした。
「構わん!」
サルマが叫んだ。
「大軍長をさっさとお通しせよ!」
寝台から起き上がろうとしたサルマを、治療師たちが慌てて押さえた。
「軍長様!」
「放せ。」
サルマが翼を振った。治療師たちがよろめいた。
扉が開いた。
ガルドンが入ってきた。
ガルドンの大柄な体躯 が部屋の中へと入ってきた瞬間、空間が狭くなったかのようだった。壁と天井がひと回り近くなったような感覚があった。
巨大な体が扉枠を埋め尽くした。板金の鎧が全身を包んでいた。黒い鉄でできた鎧。表面は滑らかではなかった。あちこちに傷が刻まれており、数多の戦場をくぐり抜けてきた痕跡がそこかしこに残っていた。
肩当ては分厚かった。まるで鋼鉄の塊のようだった。その上に布が垂れており、ダムの紋章が描かれていた。爪を立てた熊の形だった。
兜 は被っていなかった。剥き出しになった茶色の毛は短く硬く、顔のあちこちに傷跡が残っていた。眉を横切る長い傷跡、左頬を走る傷跡が見えた。
彼の茶色い瞳が部屋の中をゆっくりと見渡していた。
ガルドンはゆっくりと歩いた。鎧の金属が擦れ合う音がした。金属の靴が床を踏みしめるたびに、重く鈍い音が響いた。
治療師たちが脇へと退いた。モスロウの翼兵たちも壁際へと下がった。
ガルドンは寝台の前に立ち止まった。そしてサルマを見下ろした。
「どうなった。」
問いではなかった。報告を求めるものだった。
サルマは頭を上げた。彼の瞳がガルドンと向き合った。
「オークでも、ミノタウルでもありませんでした。」
サルマが言った。
声は沈んでいたが、怒りは依然としてそこにあった。しかし今は、明らかに制御されていた。
ガルドンの目が細くなった。
「話せ。」
サルマは息を吸い込んだ。翼が震えた。痛みのためか、怒りのためか、判然としなかった。
「あの夜……」
サルマが語り始めた。
そして目を閉じた。記憶が蘇ってきた。
夜空の下、矢が降り注いだ瞬間。セビレの体を赤いマントが覆っていったあの場面が、サルマの記憶の中で蘇った。
あの日。
サルマはさらに高く上がっていた。飛来する矢の射程を外れるために。翼を力強く羽ばたかせながら上昇した。
周囲を確認した。後に続く翼兵たちの数は、すでに半数以上が消えていた。半分にも満たなかった。残った者たちは上にいた。残りは下に留まったままで、動くことはなかった。
その時、風が変わった。
強い風がサルマの頭上をかすって過ぎた。
サルマは頭を上げた。何かが自分より高い空の上から降りてきていた。
巨大な影。
最初は形がわからなかった。暗闇の中で、夜空の中で、黒い形が降りてきた。それは徐々に近づくにつれて輪郭が現れ始め、やがて翼が見えてきた。
巨大な翼が広げられていた。革の翼。骨と膜からなる、ムワの羽毛の翼とはまったく異なる形。より大きく、より広く、より重そうだった。
翼が一度羽ばたくと、激しい風が起こった。
サルマの体が後ろへ押し流された。均衡を失いかけたが、素早く翼を広げて態勢を立て直した。
そして自分へと飛来する、翼を持つ存在の正体を見た。
灰色の鱗だった。月光を受けて濃い銀色に輝く灰色の鱗が、長い首に沿って並んでおり、背に沿って続きながら翼の下に覗く巨大な胴体を覆っていた。しかし鱗だけではなかった。その上に鉄板と鎖からなる装備が重ねられていた。
首に沿って続く板金、背を覆う鎖の網、翼の関節部分を守る鋼鉄の当て板。まるでサルン・ケたちが軍馬に着せる馬鎧 のように、この怪物は戦闘のために堅固に武装されていた。
飼い慣らされているのだ。
頭が向き直った。長い首がゆっくりと曲がりながら、頭がサルマへと向いた。二つの目が彼を見据えた。濁った青の目。縦に裂けた瞳孔。
獲物を見張る冷酷な捕食者の目。しかしその視線には、獣に感じられるような衝動がなかった。
口が開いた。鋭い牙が剥き出しになった。
そして咆哮 が轟いた。
「Kaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
耳を裂く音。空気が震えた。サルマの羽毛が逆流する風に押しつぶされた。
サルマは息を整えながら目の前の怪物を見据えた。咆哮が降り注いでも、視線は揺るがなかった。
咆哮の余韻が薄れていく中で、彼は音の向こうの形をあらためて見渡した。
この怪物はドレイクではない。ドレイクよりは小さく……そして翼があった。
体つきははるかに俊敏だった。筋肉が滑らかに流れており、動きは速そうだった。
『空を飛ぶ……小さなドレイク。』
サルマはそう思った。
しかし、小さいというのはあくまで相対的なことに過ぎなかった。
怪物は依然として巨大だった。獣が翼を大きく広げると、二十キュビト(約十メートル)はあろうかという巨大な影が自分を飲み込んだ。
頭から尾の先まで続く胴の長さだけでも、優に十五キュビト(約七・五メートル)。特に胴の半分を占める、異様なほど長い尾が、空中でゆったりと揺れていた。
そして背の上に誰かがいた。
怪物の背に乗った「誰か」の正体は果たして……? 次回に続きます!




