200話 ダム攻防戦 (5)
その時だった。
サルマの耳羽 が揺れた。音を聞いたわけではなかった。風の流れが変わったわけでもなかったが、確かに何かが近づいてきていた。
野営地の中心部へと続く道、無数の足跡によって踏み固められた土道の向こうから松明の光がひとつ多く滲み出し、無秩序に続いていた騒音が徐々にひとつの方向へと収束していった。まだ遠い。しかしその道の先から迫り来る何かの気配が、サルマの感覚を揺さぶっていた。
彼は頭を巡らせた。
まず視界の一端を埋め尽くしたのは、その姿だった。人よりもひと回り大きな体躯 、重い金属が互いにこすれ合う低い摩擦音、そして動くたびに地面を踏みにじる重量感。オークたちだった。
しかし、ただのオークではなかった。厚い金属板を重ねた重甲冑 が彼らの胴体と四肢を隙間なく覆っており、兜の下からは荒々しく突き出た牙と灰色の肌がのぞいていた。
板金は滑らかではなく、あちこちに引っかき傷と凹みの跡が残っており、すでに幾度もの戦場をくぐり抜けてきたことは明らかだった。
彼らの手には大型の斧が握られ、もう一方の手には金属と革を重ねた盾が添えられていた。装飾より実用を選んだ武装、重く武骨だったが、それゆえに威圧感があった。
『重甲のオークか。』
サルマが顎を引き、細めた目で下を一瞥 した。
『これは予想外だな。』
重甲のオークたちが隊列を組んだまま、戦闘に加わるべく駆け寄ってきていた。数は多くなかった。せいぜい数十に過ぎなかったが、彼らの動きは明らかに違った。無秩序に突進する他のオークたちとは異なり、足を揃えて走りながら隊列を保ち、盾を一定の間隔で配置したまま乱れることなく前進していた。訓練を受けた兵士の動きだった。
サルマは視線を移し、周囲を改めて確認した。戦闘は依然として順調に見えた。翼兵たちはオークたちを圧倒しており、目立った損害もほとんどなかった。
しかし、その順調さがかえって引っかかった。オークたちは混乱の中でもがきながら翼兵たちの一方的な攻撃を受け、あちこちで悲鳴が上がっていた。炎が噴き上がり、血が飛び散っていた。
それでも、状況はあまりにたやすく流れすぎていた。
『楽すぎる。』
サルマの思考が高速で駆け巡った。
『これは……何かおかしい。こんなに警戒が手薄なはずがない。大軍が移動するというのに、警戒がこの程度とは。歩哨 も足りず、警報体制もなく、反応も遅い。いくらオークでも……まるで……』
「ネルム、ベジェデ、セビレ」
サルマが大声で副官たちを呼んだ。副官たちは翼を畳んで彼に近づいた。三人とも、戦闘の興奮がまだ醒めやらぬ顔をしていた。血の付いた槍を手に持ち、息が荒かった。
「あの重甲兵を片付ける。素早く」
サルマが重甲のオークたちを指した。彼らはすでに野営地の外縁に達していた。盾を構え、隊列を整えていた。
サルマの命令を受けた三人が頷くや、飛び立った。
ネルムが最初に戦場へ到達した。足下に見える重甲オークたちの隊列を見下ろし、体を折るようにして急降下し、速度を限界まで引き上げた。風が目元を鋭く切り裂いて過ぎ去り、マントは気流に押しつけられて体に張り付いた。
そこでようやく重甲のオークたちが彼に気づいた。盾が一斉に持ち上げられ、斧が遅れて振り上げられた。しかし、もう遅かった。ネルムは盾を狙わなかった。
彼はオークの真正面六キュビト(三メートル)の地点で体をひねって急旋回した。翼を広げながら体をねじった。広げた翼が風を受けて体が横へと押し流され、脚の距刃が水平に回転した。
シュィィィン——
鋭い金属音が走った。重甲オークの太ももの甲冑が一直線に裂けるように割れた。続いてその下の肉と筋肉まで深く食い込んだ。
瞬間、オークの脚が力を失った。赤い血が甲冑の隙間から流れ落ち、オークは短い悲鳴を上げながらひざまずいた。斧が手から滑り落ち、盾も均衡を保てないまま傾いた。
ネルムは翼をもう一度広げて上昇した。空中で体をひねって一回転し、高さを確保した。
彼の右翼が輝いた。具現化。青い光が羽毛の間から滲 み出し、形を成した。
手の形が現れて槍を掴み、その鋭い先端は下を向いた。
彼は落下と同時に、凝縮されたマナが生み出した手にさらにマナを込めて力を加え、自分を見上げるオークへ向かって槍を投げた。
槍が空気を切り裂いて飛んだ。軌跡は揺るぎなく一直線を描いた。そしてひざまずいたオークの喉を貫いた。
金属製の兜の隙間を抜けて槍先が首の後ろから突き出た。オークの体が後ろへ仰け反りながら倒れ、続いて重い甲冑が地面に叩きつけられる鈍い音が響いた。流れ落ちたオークのどす黒い血は、ゆっくりと土の地面に染み込んでいった。
ベジェデは二体の重甲オークを同時に相手にした。彼は低く飛びながら地面からわずか一拳分の高さで滑空した。
一体目のオークが斧を振り下ろした。軌跡は大きく重かったが、それだけに動作は鈍かった。ベジェデは体を斜めに傾けてこれを躱し、斧の刃は彼の頭上をかすりながら過ぎ去った。巻き起こった風に羽毛が一瞬押しつぶされた。
その瞬間、彼の左脚が動いた。距刃がひらめき、オークの脚を包む甲冑の関節の隙間を突いた。金属板が重なって隙間が生じた、防御が最も脆い箇所だった。
刃が深く食い込んで腱を断ち、オークは悲鳴を上げながら均衡を失って前に倒れた。顔から地面に叩きつけられる鈍い音が続いた。
ベジェデはすでに二体目のオークへと近づいていた。オークが急いで盾を持ち上げたが、ベジェデはその上へと体を浮かせて飛び上がった。オークの頭上へ。そして体をひねりながら回転し、オークの膝裏へ向かって刃を突き立てた。
ベジェデの距刃が甲冑の隙間へと食い込んだ。肉を裂き腱を断つ感触が伝わってきた。オークは均衡を失ったまま後ろへ倒れて崩れ、盾と斧を手放したまま地に伏した。
ベジェデはすぐさま上昇した。空中で青い光が揺らめき、虚空 に手の形が具現化された。光で織り成された手に二本の投擲 用短剣がたちまち握られた。短く鋭い刃だった。
翼を広げて体勢を整えるや否や、具現化された手に力を込めて短剣を下へと投げた。
二本の短剣は正確に、倒れたオークたちの首元を貫いた。兜と甲冑の狭い隙間に深々と刺さった短剣に、オークたちが短く痙攣して動きを止め、血が刃を伝って流れ落ちた。
セビレは音もなく滑空しながら重甲オークたちの間をすり抜けた。
オークが遅れて気配を感じ、体を回そうとした瞬間には、彼の距刃はすでに足首の後ろ側を深く割いていた。脚を支えていた腱が断たれ、オークは脚の力を失って後ろへ倒れた。均衡を失った体が背中から地面に叩きつけられ、重甲が地を打つ鈍い音が大きく響いた。
セビレはすぐさま着地した。足が地面に触れる瞬間、すでに具現化した手に握っていた長槍を引き上げた。
同時に、彼の背後の虚空で青い光が揺らめき、もう一つの手が具現化された。自分の体よりもはるかに大きな手が槍の柄を掴んだ。
セビレはその手に力を込めて槍を突き下ろした。大きくなった手が加える圧力がそのまま伝わり、槍先がオークの兜の内側へ向かって押し込まれていった。目を狙う軌跡だった。金属がねじれながら開く音とともに、肉を貫く鈍い音が聞こえた。
オークの体が一度大きく震え、そのまま止まった。具現化された手が槍を掴んで一気に引き抜くと、セビレはその反動を利用して再び空中へと体を跳ね飛ばした。
ほんのわずかな時間だった。重甲オークの半数以上が後に続いた翼兵たちの攻撃で倒れていた。残るオークたちは隊列を失い、混乱に陥った。後退するオークもいれば、背を向けて逃げようとするオークもいた。
恐怖が彼らを飲み込んだ。
しかしサルマは、彼らを見ていなかった。
彼は依然として野営地の中心部を見つめていた。巨大なオークの野営地の中心を。静まり返ったその場所を。重甲のオークたちが出てきても、そこはまったく動きがなかった。警備兵たちさえ持ち場を守ったまま。戦闘に加わらなかった。援軍を送らなかった。まるですべてを傍観しているかのように。
『おかしい。』
サルマはさらに高く飛び上がり、朱色に輝くオークの野営地各所を見渡した。
『オークどもの重甲兵が出てきたというのに、さらに多くのオークたちが動かない。指揮官の姿も見えず、予備隊もいない。これは……』
不安は消えなかった。むしろ、濃くなった。胸が徐々に締め付けられ、背筋を伝って冷たい感覚が落ちていった。
彼は確かに何かを見落としていた。視野には映らないが、確かに存在する何かを。
視線が重甲オークたちへと向いた瞬間、気づきが過ぎった。あの者たちは表に晒された数だ。目を引くために投げ出された存在。
サルマの感覚はすでに別の方向を向いていた。真の脅威は、まだ姿を現していない場所にあった。
戦場でこのような感覚は、流し去れるものではなかった。サルマは無数の戦いでそれを学んでいた。疑いを流し去った者たちが先に倒れ、生き残った者たちは常にその違和感を手放さなかった。
『退かなければならない。』
サルマは決断した。
「退く、ネルム!」
サルマが叫んだ。
ネルムは顔をサルマへと向けた。戦闘は順調で、損害もわずかだった。その判断と食い違う命令に、彼の眉間がわずかに狭まった。なぜこの時点で退くのか。しかし彼は、その疑問を口にしなかった。サルマへの信頼が判断に代わったからだ。ネルムはすぐに頷き、翼に力を込めて広げながら、ベジェデとセビレのいる方向へと飛び上がった。
「撤退する! 全員上昇!」
ネルムの声が野営地の上空に響き渡った。大きく、明確に。命令が伝わった。
ヤクラ翼兵たちが動いた。彼らは最後の一撃を加え、上昇し始めた。地面を離れ、空中へと飛び上がった。翼が一斉に広げられ、赤いマントが風にはためいた。
その瞬間だった。
月明かりが照らす夜空に、突如として無数の黒い線が重なった。雲が月光を遮ったのではなかった。
上空を横切る何かが一瞬にして空を埋め尽くした。サルマは頭を上げた。そして見た。
矢だった。
夜空を横切る線が一度に並んだ。
寸分の狂いもなく降り注ぐ黒い線が、空を隙間なく埋めた。
矢尻が動くたびに月明かりが断ち切られ、下の篝火 がその金属の先端から短く弾けた。光は瞬間的にひらめいただけで、すぐにまた闇の中へと消えた。
矢は散らばらなかった。一枚の面のように広がったまま、黒い雨となって野営地へと降り注いできた。
『あれは……』
サルマの目が見開かれた。
「全員躱せ!」
サルマが叫んだ。
しかし、遅かった。
矢がヤクラ翼兵たちを覆い尽くした。
上空から黒い線が一度に解き放たれた。飛来する矢が重なった軌跡が夜空を断ち割りながら降ってきた。
翼兵たちにも、オークたちにも黒い矢が降り注いだ。
方向は違えど流れはひとつで、到達する瞬間はほぼ同時だった。躱す間はなかった。矢は目標を探すのではなく、野営地全体を覆っていた。
飛来した矢がヤクラ翼兵たちの翼を貫いた。
羽毛が裂け、血が噴き出した。翼骨 が割れる音がした。均衡を失った翼兵が悲鳴を上げながら落ちた。翼を広げようとしたが、すでに片方の翼が壊れていた。制御が不可能だった。
多くの翼兵たちが矢の刺さった翼をまともに広げられないまま、体がよじれながら空中で力の抜けた羽ばたきをして地面へと落ちていった。
降り注ぐ矢の雨の中、一人の翼兵の動きが見えた。一本の矢がサルマの声に反応して飛び上がろうとした翼兵の肩を貫いた。甲冑を貫通した矢先がそのまま骨を折り、翼兵のくちばしから悲鳴が弾けた。 彼は残った力を振り絞るように片翼を動かしながら必死に羽ばたいて飛び上がろうとしたが、すでに均衡は崩れていた。その瞬間、もう一本の矢が彼の背に食い込み、翼兵はもはや堪えきれず力なく下へと落ちた。
地上のオークたちも倒れた。矢が背を、頭を、腕を次々と貫き、彼らの体に突き刺さる矢の音だけが聞こえてきた。
重甲を纏ったオークでさえ、降り注ぐ矢に耐えられなかった。盾で防ごうとしたが、矢が当たって弾ける音が続き、そのうちのいくつかはそのまま盾を貫いて腕と胴体に食い込んだ。
一体のオークが盾を構えていたが、一本の矢が盾の縁をかすりながら喉を貫いた。彼は喉を押さえたまま、そのまま崩れ落ちた。
ベジェデが急旋回して矢を躱した。体をひねって翼を畳み、また広げながら方向を変えた。矢が二本、彼のいた場所をかすめて過ぎた。風を切る音が聞こえた。
しかし三本目の矢は躱せなかった。矢一本が彼の太ももに刺さり、肉が裂けて血が流れ落ちた。致命傷ではなかったが、痛みが脚を伝って上ってきた。
ベジェデの体が空中で一瞬よじれた。
彼は体をひねり、嘴 で矢の柄を折った。太ももに矢尻を残したまま、そのまま飛び上がった。
セビレはそれほど運に恵まれなかった。
矢一本が彼の左翼を貫いた。羽毛が裂け、赤い血が流れ落ちた。翼骨が折れる感覚が翼を伝わった。彼は悲鳴を飲み込んだまま羽ばたきを続けた。痛みが全身を締め付けたが、止まれなかった。
止まれば落ちる。落ちれば死ぬ。
セビレはその言葉を頭の中で繰り返した。
もう一本の矢が飛んできた。
今度は背中だった。
矢が甲冑の背を貫いた。肉を貫通した後、肺を貫き、その衝撃でセビレの体が前へとくずおれた。
翼が力を失って垂れ下がり、羽ばたきはそのまま止まった。彼は頭を上げて前を見ようとした。
その時、ネルムの姿が見えた。遠くからセビレの様子を見つめていた。
セビレは何か言おうと嘴を開いた。しかし喉の中で血が溢れてきた。ねっとりとした血が気道を塞ぎ、ついに声は出なかった。嘴の端から血の混じった息がにじみ出るだけだった。
彼は落ちていった。
翼がはためいたが、もはや飛び上がれなかった。風が流れる血を払い、地面が近づいてきた。セビレの目に最後に映ったのは夜空だった。
星一つない、暗い空。そしてその空を横切る無数の矢たち。
彼は地面に落ちた。
オークたちの間に、矢の刺さった屍 の間に。
赤いマントが彼の体をゆっくりと覆った。
「セビレェェェェェ!」
ネルムが叫んだ。喉が裂けそうな絶叫だった。
しかしセビレからの返答はなかった。
サルマはさらに高く上がった。矢の射程を外れなければならなかった。彼は周囲を確認した。翼兵たちが後に続いていた。しかし数が減っていた。多くの赤いマントが飛び上がれないまま、森の冷たい土の上に倒れていた。
『あの矢はどこから来たんだ?』
サルマの頭が速く回転した。
『矢は闇の中から飛んできた。野営地の内側ではない。下から上へ向けて放ったもの、そして空中へ飛び上がる翼兵たちを狙ったもの……二方向。森の中か? それとも木の上か? しかしあの高さで、あの精度……』
彼は野営地を見下ろした。混乱はまだ続いていた。オークたちがあちこちで倒れており、篝火が倒れて火が広がっていた。悲鳴と呻き声が入り混じって聞こえた。
『計画されていたものだ。』
サルマは悟った。
『罠だった。最初から。警戒を手薄に見せて我々をおびき寄せた。オークどもの犠牲など意に介さず。いや、もしかしたらオークたちも囮 だったのかもしれない。我々を引き込むための。』
その時、風が変わった。
強い風がサルマの頭上をかすって過ぎた。
何か巨大なものが上から降りてきていた。視界を埋め尽くす影。空気が圧迫され、息が詰まった。耳が鳴った。
サルマは頭を上げた。
振り返り、自分へと迫り来る黒い影を見上げた。
二つの月の光を遮り、星明かりを飲み込み、夜空全体を覆い尽くしながら。
何かが降りてきていた。
巨大な何かが。
今回も読んでくださってありがとうございます




