199話 ダム攻防戦 (4)
風の向きが変わった。サアルンの森から吹き込んでいた風が止み、代わりに血の生臭さと獣の体臭が入り混じった淀んだ 空気が、森の木々の間へと忍び込んできた。
夜空を満たす闇の下、森の向こう側からじわりと朱色の光が広がり始めた。
松明と篝火 から迸る 朱色の光が木の葉の間に滲み込み、森の奥深くまで照らし出した。その光は、川の向こうの森全体が燃え盛っているかのように見えるほど、広く森を染め上げた。
ヴェルス川のほとりの広大な平地に広がる野営地には、秩序と呼べるものが何一つなかった。オークたちの天幕はてんでばらばらな方向に立てられており、間隔もまちまちだった。ある場所では天幕が密集していて、間を通り抜けるのも難しそうだったし、ある場所は荒野のように広々と空いていた。天幕と呼ぶのも憚られる ものがほとんどだった。
獣の皮を木の棒に引っかけただけのもの、破れた布を幾重 にも重ねて縛り合わせたもの、果てはただ地面に皮を敷いて、その上に横になって眠るオークの姿まで見えた。
篝火の周りにはオークたちが群れをなしていた。横になって骨をしゃぶるオークがいるかと思えば、生肉を素手で引き裂いて食らうオークもいた。
脂が顎を伝って滴り落ちていても、拭おうともしなかった。大声でわめき立て、互いを押しのけて食い物を奪い合った。喧嘩が始まると、周りの別のオークたちが見物しながら喚き立てた。地面には骨の欠片と食い滓 が散乱し、悪臭が立ち込めていた。
野営地の中心部には、他のものよりもはるかに大きな天幕がそびえていた。黒い布で作られたその天幕は、高さが周囲を行き交うオークの背丈の三倍はあろうかという代物で、入口には武装したオークが四匹、槍を手に立っていた。
その周りには、比較的整然と配置された小さな天幕群が取り囲んでいた。中心部から少し離れた場所には、荷馬車が一列に並んでいた。荷車には袋や箱がぎっしりと積まれており、その傍らには番のオークたちが配置されていた。
野営地の端、川沿いには木柱に縛り付けられたダウィとムワの捕虜たちがいた。
ダウィたちは膝をついており、首はだらりとうなだれていた。茶色の毛皮には血と泥が入り混じっていた。
ムワたちは翼を縛られていた。太い縄が翼を胴体にしっかりと固定しており、脚には鎖が嵌められていた。何人かは顔を上げて空を見つめていたが、ほとんどは地面を見つめていた。
川の向こう、さらに遠く、野営地の外れにはミノタウルたちの野営地も別に設けられていた。オークたちの野営地からは離れ、はっきりと区分されており、その間には何もない広い空き地が広がっていた。
ミノタウルたちの数はオークたちに比べれば圧倒的に少なかった。彼らの天幕はオークたちのものより大きく丈夫そうに見えたが、やはり整然と配置されているわけではなかった。ミノタウルたちは篝火の前で何かを手入れしており、大きな斧や鈍器が彼らの傍らに置かれていた。オークたちと打ち解けている様子はまったくなかった。それぞれが自分たちの縄張りを守っているだけだった。
ヴェルス川沿いの巨大な野営地は、そのまま無秩序で野蛮な姿を晒したまま、サアルンの森の夜を迎えていた。
川の向こう岸の森、巨木の太い枝の上にサルマとヤクラ翼兵たちが集まっていた。
巨木の影が落とす暗がりの下だった。松明の光の届かない闇の中で、彼らの姿は完全に隠されていた。赤いマントは折り畳んで体に押しつけ、兜の金属板だけが時折かすかな光を反射した。
サルマは枝の先に腰を落とし、野営地を見下ろした。彼の目はゆっくりと動きながら全体を見渡した。
天幕の配置、篝火の位置、オークたちの動き、見張りに立つオークの数と位置。
ネルムがサルマの傍らへ近寄った。翼を慎重に動かし、音を立てなかった。
「バッドランドのオークとミノタウルのすべてが、ここに集まっているようです」
ベジェデが低い声で続けた。
「あれほどの数を一度に見たことはありません。いつも部族単位での戦いでしたから」
サルマの嘴 がわずかに開いた。
「むしろ好都合だ。奴らが散らばっていたなら、一匹ずつ探して首を刎ねて 回るのに、随分と時間がかかっただろう。だが、こうして自ら一箇所に集まってくれたのだから、手間が省けた」
その言葉にベジェデの嘴がわずかに開き、笑いが漏れた。
「さすが軍長様です。あのうようよと群れ集まった奴らを目の前にしても、そんなことをおっしゃるとは!」
ネルムが首を横に振った。
「しかし、数が……」
「数だと? 全部殺してしまえばそれまでだ」
サルマが野営地を指した。
「あそこに見えるだけでも数万はいるだろう。夜なので正確にはわからないが、最低でも五万は超えているはずだ。
ミノタウルはそれよりずっと少ない。多くても一万頭ほどだろう」
セビレが翼を一度はたいた。
「それでも多すぎます」
「多くて何だ。オークはオークだ」
サルマが翼を広げた。
「ここで待っていろ。全体の配置を確かめてくる」
サルマが枝を蹴り、上空へと飛び立った。音もなく高く舞い上がりながら野営地全体を俯瞰 した。川沿いに長く連なる天幕、篝火が作り出す不規則な光の点々、そしてその間をうろつくオークたちの動きが一望できた。
「軍営とも呼べない有様だな」
サルマはつぶやいた。彼の視線は野営地の外縁に沿って動いた。北の端には見張りのオークがぽつりぽつりと見えたが、彼らの間隔は広すぎた。東は森と接しており、そちらの警戒はさらにずさんだった。篝火一つなく、ただ暗闇だけが広がっていた。
『あそこだ。』
サルマの目が細くなった。
『日の側から接近し、森の闇に乗じて低く飛べば、奴らに気づかれることはないだろう。風も吹いているから、こちらが接近する音は風の音にかき消されるはずだ。見張りの奴らの視線は川の方を向いている。森の方は気にも留めていないようだな。』
彼は野営地の中心部に目を向けた。巨大な天幕が立っている場所だった。
『あそこには手を出さない。奇襲の目的は打撃であって殲滅ではないのだから、外縁のオークどもだけを素早く叩いて、素早く離脱しなければ。』
サルマは再び北の端に目を向けた。そこから川沿いへと続く道筋があった。
『あの道筋にいる奴らを先に片付けて、その次に篝火周りの奴らを叩く。そのあとは混乱が広がる前に再び飛び上がらなければ。』
彼はゆっくりと旋回しながら見張りの位置を改めて確認した。東の森の外縁には篝火が三つ見え、その周りにオークが三、四匹ずついた。彼らは槍を手にしていたが、ほとんどが座っているか、互いに話し込んでいた。
『間抜けなオークどもめ。』
サルマはさらに高く上昇し、野営地の後方を見渡した。荷馬車が連なって立ち並ぶ様子がうっすらと見えた。
遠目に見渡した荷馬車には、血の滲んだ肉塊と燻製の獣の肉、粗末な皮の山と酒樽が列をなして積まれていた。
『あれを全部始末して離脱するのは無理だな。』
サルマは再び降下し、枝の上の翼兵たちのもとへ戻った。着地しながら、鉤爪が木の皮を引っ掻いた。
「かといって、このまま引き返すわけにもいかない」
サルマが副官たちを見た。
「奴らをこの森でのうのうと休ませるわけにはいかない」
ベジェデの目が輝いた。
「奇襲しますか?」
「ああ」
サルマが頷いた。
「ご命令さえいただければ!」
「日の側から接近する。警戒がずさんな分、目標は外縁の奴らに限定し、素早く叩いて素早く引く」
ネルムが尋ねた。
「部隊の編成はどうなさいますか」
「ネルム、お前は我が隊より高く飛んで、より遠い端を担当しろ。ベジェデ、お前は森の外縁側を。セビレ、お前は後に続きながら警戒を担当しろ。私が中央を受け持つ」
サルマが翼を広げた。
「合図は私が出す。私が槍を投げたら一斉に攻撃、そしてすぐに上昇する。わかったな?」
「はい!」
三人の副官が同時に答えた。
サルマが後ろを振り返った。枝の上に腰を下ろした翼兵たちが見えた。彼らの目には、戦闘直前の集中が鮮明に宿っていた。息を殺したまま、いつでもサルマの命令に合わせて飛び立てる構えだった。
「今夜、我々はオークどもに恐怖を植えつけなければならない。ダムを侮ることがいかに愚かなことか、奴らに思い知らせてやろう!」
サルマが翼を大きく広げた。
「出発する」
彼は枝を蹴り、飛び立った。副官たちがその後に続き、翼兵たちが一斉に空へと舞い上がった。だが、音はほとんどしなかった。翼ばたきは滑らかで、風を切る音さえ殺されていた。闇の中で、彼らは影にすぎなかった。
サルマは森の木々の間をかすめるように低く飛んだ。枝が頭上を過ぎ去り、木の葉が翼の先をかすった。だが速度は落とさなかった。後に続くヤクラ翼兵たちも同様だった。彼らは完璧な隊形を保ったまま、闇の中を飛んでいった。
*****
オークたちの野営地が近づくにつれ、篝火の光が木の葉の間から滲み出し、どこかからオークたちの声がかすかに聞こえてきた。サルマはさらに速度を落とし、滑空するようにゆったりと動いた。翼を大きく広げたまま気流に乗り、滑るように前へと進んだ。
野営地の外縁が見えた。篝火が三つ、一列に並んでいた。その周りにオークたちが座り込んでいた。
彼らは骨に残った肉の切れ端をしゃぶり取りながら話し込んでいた。武器は傍らに置いていたが、手には持っていなかった。
サルマはさらに高く上昇した。野営地のすぐ真上の上空だった。月明かりさえ雲に遮られており、星明かりだけがかすかに照らしていた。彼は翼の動きを止め、空中で静止した。後に続く翼兵たちも止まった。
彼らは皆、背に縛り付けた槍へ向かって具現化された手を伸ばし、槍の柄を握った。
サルマは槍を引き抜いた。先端が鋭く研ぎ澄まされた槍は、軽くて頑丈な柄とともに、マントの後ろで形を成した手にしっかりと収まった。
彼は下を見下ろした。篝火周りのオークたちは相変わらず騒ぎ立てており、何一つ気づいていなかった。サルマは槍を後方へと引き絞り、その手に力を込め、そのまま前へと投げた。
槍が空を切り裂いて落ちた。音もなく、速く。その後を追うように数十本の槍が一斉に飛んでいった。
闇の中で槍の穂先がかすかに光り、その刹那 、篝火周りのオークたちに槍が突き刺さった。
「Uwaaak!!」
悲鳴とともに一匹のオークが喉に槍を受けて後ろへ倒れ、続けて別のオークは胸を貫かれて地に崩れた。
篝火の傍にいたオークも、背に突き刺さった槍の勢いで前のめりに倒れた。そしてその周りにも数十本の槍が降り注ぎ、複数のオークがほぼ同時に倒れていった。
悲鳴と荒い息が入り混じった音がしばらく続いただけで、篝火の近くにいた一群は瞬く間に壊滅した。
サルマはすぐさま垂直に体を起こして飛び上がった。力強く翼を打ち下ろすと彼の体は速く上昇し、後に続いていた翼兵たちも一斉にその後を追って舞い上がった。十分な高さまで上がった彼らは、空中で速度を落として再び静止した。
「ヤクラ翼兵! 降下する!」
サルマが叫んだ。
彼は翼を畳み、真下へ体を落とした。体を回転させてさらに速度を引き上げ、野営地の外縁へとそのまま降下した。素早く落下していく間、風が兜の脇を叩きつけ、マントは後方へ押し流されて彼の体に巻きついた。
地面が近づくと、サルマは翼を広げた。羽刃が一気に展開し、鋭い金属音が走った。
彼は地面すれすれを飛ぶようにしてオーク一匹の首を斬り払った。羽刃が肉を断つ感触が翼の先へと伝わってきた。血が迸り、オークは悲鳴すら上げられないまま崩れ落ちた。
後に続く翼兵たちも急降下した。彼らは翼を広げながらオークたちの間を縦横に駆け抜けた。
羽刃が閃き、首を、腕を、脚を断ち斬った。距刃 のついた鉤爪がオークの頭を叩き割った。悲鳴があちこちから弾け上がった。
『目的は殲滅ではない。混乱を与えて引く。』
サルマは再び上昇した。地面を一度蹴り、翼を打ち下ろして空へと舞い上がった。彼は旋回しながら周囲を確認した。翼兵たちがそれぞれの標的へ攻撃を仕掛けていた。
篝火周りのオークたちは、仲間の悲鳴が上がった瞬間から攻撃がどこから来ているのかさえ把握できないまま、互いをかき分けながら我先にと散り散りになっていた。
ネルムの部隊が野営地の最も端を攻撃した。槍が嵐のように降り注ぎ、見張りに立っていたオークたちが次々と倒れた。
ベジェデの部隊は森の外縁側を叩いていた。彼らは低く飛びながら距刃でオークたちの首を斬り払った。
セビレの部隊はサルマの部隊に続いて上空から槍を投げ下ろし、降下してはオークたちの間に飛び込みながら、素早くオークたちを斬り倒していった。
外縁の野営地のオークたちが完全に混乱に陥った。乱れた篝火から飛んだ火の粉が枯れ草と天幕に燃え移り、あちこちで小さな炎が噴き上がった。倒れた荷馬車が道を塞ぎ、オークたちがその上に折り重なるように倒れた。
武器を探して慌てふためき駆け回るオークたちが互いに絡み合いながらぶつかり、悲鳴と怒号があらゆる方向から入り混じって弾け上がった。
だが、敵がどこにいるのかわからなかった。闇の中から飛んでくる槍と、明かりの合間をすり抜けるように現れては消える影のせいで、オークたちは方向感覚さえ失いまともに対応できなかった。
一匹のオークが急いで角笛を掴んで口に持っていったが、吹き鳴らす直前に飛んできた槍が喉を貫き、オークの体を後ろへ折り倒した。手から離れた角笛は力なく転がり落ちた。とうとう角笛の音は鳴り響かなかった。
ますます多くのオークたちが恐怖に駆られ、天幕の間へと隠れ込もうとしたり、森の闇の中へ我先にと逃げ出し始めた。しかしその混乱の中でも、翼兵たちはオークたちを見逃さなかった。上空から動きを追い、翼を畳んで体を真下へと落とすように降下しながら瞬く間に距離を縮め、逃げ惑うオークたちを一匹ずつ仕留めていった。
ベジェデがオークの背中に鉤爪を深々と突き立てて押さえ込んだ刹那、距刃が鎧の隙間をこじ開けて肉を裂き、オークが悲鳴を上げながら前のめりに崩れた。ベジェデは体を弾かせるように鉤爪を抜きながらすぐさま翼を広げ、上空へと跳ね上がり、次の獲物へと方向を転じた。
ネルムは具現化された手を素早く動かし、槍を一本ずつオークたちへと投げ放った。
一本目の槍は篝火の方を窺っていたオークの首の後ろへ突き刺さり、その体をよろめかせた。二本目の槍は翼兵に向かって斧を掴もうとしていたオークの脇腹を貫いてそのまま崩れ落とした。三本目の槍は逃げ惑いながら後ろを振り返ったオークの脚を射貫いて地に縫い止め、オークは悲鳴を呑み込むようにして倒れた。三匹のオークがほぼ同時に倒れるのをちらりと確かめたネルムは、体を低く傾けながら斜めに流れるように飛んで、次の標的へと向かった。
セビレの隊は天幕の間を飛びながら羽刃でオークたちを斬り裂いた。羽刃がかすめるたびにオークたちの首と肩が深く裂かれ血が飛び散り、オークたちが地に倒れた。
サルマはさらに高く上昇し、全体を見渡した。野営地の外縁はすでに崩壊した陣地のように荒れ果て、残るオークたちは方向も定まらぬまま倒れ続け、混乱はじわじわと広がりつつあった。
すべてが順調だった。
あまりにも、すべてが順調すぎた。
サルマはしばし動きを止めた。
違和感があった。
オークたちの悲鳴と燃え盛る炎、血の匂いが入り混じった戦場は、見た目には完全に制圧されているようだったが、サルマの本能はいまだ正体不明の警鐘を鳴らし続けていた。
『よし。今日はここらで引かなければならないな。』
サルマはその違和感がより明確な形を帯びる前に動かなければならないと直感した。
ご覧いただきありがとうございました!




