197話 ナウルの神殿 (3)
キナが立ち止まった。短い静寂の後、キナの太い腕がゆっくりと持ち上げられた。そしてその先についた三つに分かれた指が大きく開き、再び閉じた。
キナの動きは予想していたよりも安定していた。その大きさに似合わず、動作が途切れたり揺れたりすることが全くなく、小さな石ころくらいならそのまま摘み上げられそうなほど精確 に見えた。
「キナは、トウェンとウェンテの神々がムワたちにお与えになった贈り物でございます。」
イゴールが言葉を継いだ。
「お二方は、ナウル神とともにある神です。」
グラベルは顔を向けた。
「ナウルとともにある神とは……アウェンやフィアラルダ、グロールのような存在のことですか?」
「はい、サルン・ケの女神アウェン、フィアラルダ、グロールに似た方々です。」
イゴールが答えた。
「トウェンは木に命を吹き込む神です。種が芽吹けるように、根が地中深くまで張れるように、枝が天へと伸びられるように、力をお与えになります。」
ベナールは軽く頷きながら言葉を添えた。
「トウェンは木を植えるのが好きな神だと伝えられておる。ヴラントたちとも親しく交わっているそうだ。ダウィたちに強靭 な力を授けてくれた神でもあるのだよ。」
「それでは、ウェンテは?」
イリスが少し体を前に傾けながら尋ねた。
「ウェンテは、ムワたちに知恵と翼をお与えになった神です。」
イゴールはしばらくキナを見つめた後、落ち着いた声で答えた。
「ムワたちが高く、音もなく空を飛べるのは、ウェンテのご加護です。ウェンテ神は森の風を司る神でいらっしゃいます。」
「それでは、キナはお二方の神が共にお作りになったものなのですか?」
グラベルは視線をキナに移したまま尋ねた。
「さようでございます。」
イゴールが答えた。
「トウェンは木を育て、キナに命を吹き込みました。ウェンテは動かすための脚と強靭な腕をお与えになったのです。」
ニアは相変わらずキナを見つめていた。
「不思議だる。木が歩いてるだる。」
グラベルは再び湖の周囲を見回した。キナたちはゆっくりとラフへ向かって近づいていた。あるキナはすでにラフの前に到着し、立ち止まっていた。腕を前に伸ばし、ラフへと頭を垂れた姿勢だった。
「キナもラフに礼拝 を捧げるのですね。」
「中に乗ったムワが礼拝を捧げているのです。」
イゴールが答えた。
「キナはムワの体のようなものです。ムワがキナの中で両手を合わせれば、キナもまたラフへと向きを合わせるのです。」
グラベルはラフの前に立つキナを見つめた。キナの腕が胸の前で合わされた。両腕が互いに触れ合い、
まるで祈りを捧げるダウィの手のように見えた。
しばらくして、キナの胸の部分からかすかな光が漏れ出てきた。青白い細い光の筋が、キナの胴体にある木製の装甲板 の隙間から流れ出て、ラフへと伸びていった。
光の筋は空中を横切り、ラフに触れた。
ラフが一瞬揺らめいた。
「あの中に乗ったムワが、マナを送っているのでしょうか?」
イリスが尋ねた。
「さようでございます。ムワはキナの中からでも、ラフへとマナを送ることができます。」
グラベルは再びキナの形をじっくりと観察した。
「キナは戦闘にも使われるのですか?」
「ダウィとムワを守るために作られたもの、それがキナです。」
イゴールが答えた。
「キナは強いです。オークと戦う時も、ミノタウルと立ち向かう時にも使われます。」
ベナールは微笑みを浮かべながら言った。
「昔、アンドゥル・ナバザールという名のサルン・ケが、ダムの軍長たちと共に荒野のオーク討伐遠征に出た折のことだ。彼は、戦列が揺らぐほどの巨大な重量感をもって、まるで躊躇 という言葉すら知らぬかのように真っ直ぐ敵陣深くへ突き進んでいったキナたちの猛進ぶりを書き記しておった。その乱戦の中でさえ揺るぎなく前進し続けたあの圧倒的な気迫を目の当たりにした彼は、それ以来キナを『フィアノート(Fearnought)』と呼ぶようになったのだ。」
ニアは目を大きく見開いて尋ねた。
「じゃあキナはオークより強いんだる?」
「キナはヴラントの力にも劣らぬ力を持っているとも言われておる。」
ベナールは指で茶杯の縁をなぞりながら、軽く頷いた。
「もっとも、キナを動かすムワによって違ってくるがの。」
グラベルはしばし考えに沈んだ。
『森の守護者たる木の巨人……それに匹敵する力とは。』
「キナはどれほどいるのですか?」
グラベルが尋ねた。
「そう多くはないのだよ。」
ベナールは杯を脇へ押しやり、両手を重ねた。
「キナを生み出すのは容易なことではないからの。木を育てるだけでも数十年かかり、ムワが形状化魔法 で仕上げるのにも何年もかかるのだ。だからキナはメルハラムとダムにしかおらぬのだよ。」
「ダムにもキナたちがいるのですか?」
「もちろんだ。」
ベナールは指で茶杯の縁をなぞりながら、軽く頷いた。
「ダムには四十体おる。そのうち何体かは城壁の近くに常に待機しておるのだ。」
「それでは、ここメルハラムには?」
「メルハラムにも五十体ほどおる。」
イゴールが茶瓶を取り、グラベルの杯を満たした。温かな湯気が立ち昇った。
グラベルは杯を手に取り、一口飲んだ。茶はまだ温かく、ハーブの香りが口の中に広がった。
その時、湖の向こう側で騒ぎが起こった。
グラベルは顔を向けた。
遠くから何かが近づいてきていた。
最初は形がはっきりしなかった。だが次第に近づくにつれ、その姿が露わになっていった。
グラベルの目に、巨大なキナ二体の姿が映った。
二体のキナは、グラベルが今まで見てきたどのキナよりもはるかに巨大だった。目の前の存在は普通のキナの三、四倍ほどに見え、その高さは二十キュビトから二十五キュビト(十~十二・五メートル)に達するようだった。
二体のキナは黒い布で覆われていた。布は胴体全体を包んだまま下へとなだらかに流れ落ち、裾がほとんど地面に触れんばかりの高さで止まっていた。
キナは動いていなかった。代わりに、数十人のダウィたちが巨大な車輪のついた運搬車を引いていた。運搬車の上にキナたちが横たわっていた。ダウィたちは長い縄を肩にかけ、ゆっくりと前へ進んでいった。
「あれは……?」
「トウェンとウェンテの神々のキナでございます。」
イゴールが静かに答えた。
「御二方の神をお宿しするためのキナです。」
グラベルは目を離せぬまま、二体のキナを見つめた。
「神が直接……あのキナに……?」
「はい。トウェンとウェンテの神々が降臨される際には、あのキナにお宿りになります。ですから、いつお越しになっても不便のないよう、常に整えてございます。」
ベナールが言葉を付け加えた。
「あの二体のキナは特別なのだ。普通のキナよりもはるかに大きく、はるかに強い。神が宿る器なのだからの。」
運搬車はゆっくりと湖の方へ近づいてきた。ダウィたちは縄を引きながら一歩一歩進んでいった。汗が彼らの額から流れ落ちていたが、誰も足を止めなかった。
運搬車が湖畔に辿り着くと、ダウィたちは縄を下ろし、息をついた。
神官が何人か近づいてきた。彼らはゆっくりと、二体のキナを覆う黒い布を取り払っていった。
布が剥がされると、キナの姿が露わになった。
グラベルは目を少し見開き、身を乗り出して、その姿を詳しく確かめようとした。
二体のキナは巨大だった。胴体は太い木の柱を幾本も編み合わせたような形をしており、表面には木の葉と蔓 が絡み合ったような複雑な紋様 が刻まれていた。
腕は四本あった。それぞれの腕は普通のキナの腕より何倍も太く、先端は鋭く分かれた指の形をしていた。
二本の脚は木の柱を幾重にも重ねて作られたように見え、関節の部分には青銅色の金属の輪がはめ込まれていた。
上体の前面には、分厚い木の板が幾重にも重なって取り付けられていた。中央の大きな隙間からは、濃い緑色の巨大な原石がそのまま露出しており、滑らかな表面が隙間の縁とくっきりとした対比をなしていた。
二体目のキナも同じく巨大だった。一体目と似た形をしていたが、腕の形が少し違っていた。二本の腕は長く伸びており、残る二本の腕は幅広い盾のような板を持っていた。
「あの二体のキナは、それぞれトウェンとウェンテの神々のものでございます。」
イゴールが二体の神のキナの方を見ながら言った。
神官たちは黒い布をすっかり取り払うと、湖の水を小さな桶に汲んでキナに注いだ。水はキナの胴体のあちこちに撒かれた。水が染み込むと、木の表面がきらめいた。
「おお……そういえば、今日は黒布を取り替える日だったか。」
ベナールはしばし背筋を伸ばしながら周りを見渡した。眉を軽く上げ、何かを思い出したような表情で言った。
「黒布は何で作られているのですか?」
イリスはキナの方へ視線を向けながら尋ねた。
「ガレルという木の樹皮 から作った染料で染めた布でございます。」
イゴールは手にした茶瓶を置きながら言葉を続けた。
「ガレルの木は神殿でのみ育つ木です。その木の樹皮から抽出した染料は、深い黒色を生み出します。」
ベナールは指で服の飾り紐を整えるように触れながら言葉を添えた。
「取り替えた布は、メルハラムを訪れたダウィやムワたちに分け与えたり、軍長たちの旗印 に使われたりもするのだよ。神聖な布だからの。」
グラベルは頷きながら、再び二体のキナを見つめた。神官たちは新しい黒布を持ってきて、キナに被せ始めた。布はゆっくりとキナの胴体を包んでいった。
ニアは尻尾の先を振りながら言った。
「本当に大きいだる!」
「あのキナたちが動く姿をご覧になったことはございますか?」
グラベルがベナールに尋ねた。
「一度もないのだ。」
ベナールは首を振った。
「トウェンとウェンテの神々が降臨されることは、ごく稀 にしか起こらぬからの。わしが生まれてから今まで、ただの一度もなかったのだ。」
「それでは、御二方の神はいつ降臨されるのですか?」
「誰にもわからぬよ。」
ベナールは答えた。
「神々のお心は、誰にも推し量れぬ ものだからの。」
グラベルはしばし沈黙した。彼は二体のキナを見つめながら考えに沈んだ。
「キナの姿を描き残しておきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「キナを描いてみようと思うのか?道具が要るだろうに。」
「私のものがございます。記録のための道具は、いつも持ち歩いておりますので。」
グラベルは鞄から薄い紙と携帯用のインク壺を取り出した。彼はペン先を軽く湿らせると、先ほど確認した細部を頭の中で整理するように紙の上に線を引いていった。そして、キナの構造を把握するために何度か手を止めては実物を見つめ直し、線の太さと向きを調整した。
「あのキナたちはいつ作られたものなのですか?」
キナの姿を描く手を止めぬまま、視線も紙の上に置いたまま、グラベルが尋ねた。
「ずっと昔のことだ。 」
「正確なところはわからぬが、御二方の神のためのキナが作られたのは、少なくとも数百年は経っているはずだ。」
「そんなに古い木が、今もなお……」
「ラフの気を受けておるのだから、歳月とは関わりがないのだよ。」
ベナールは微笑みを浮かべた。
「ラフの気を宿した木は朽ちることなく、数百年、数千年が経っても、常にそのままなのだよ。」
イゴールが付け加えた。
「神殿では毎年、御二方の神のキナに湖の水を撒きます。そうすることで、キナの姿は保たれ続けるのです。」
グラベルは再び二体のキナを見つめた。神官たちが黒布をすっかり覆い終えた。二体のキナは再び黒布に包まれて横たわっていた。
日はさらに傾いていった。夕焼けの光が湖を染めていった。ラフは相変わらず深い青の光を放っていた。
グラベルは茶を飲みながら湖を見つめた。
穏やかなひとときだった。
周りのキナたちは、一体また一体とラフの前から退いていった。礼拝を終えたキナたちは、ゆっくりと神殿の外へと向かっていった。
ニアはキナたちを見つめながら尻尾を振った。
「何度見ても不思議だる。木が動いてるだる。」
「ほっほっほ。わしも初めて見た時は驚いたものだよ。」
ベナールは笑いながら言った。
「だが、慣れてしまえば自然に見えてくるものだ。」
グラベルは頷いた。彼は再び一体のキナを目で追った。キナは神殿の入り口へと歩いていくところだった。
湖に映る夕焼けの光が、神殿の木の柱とキナの巨大な体を柔らかく染めていた。
神殿の奥深くへと向かう、トウェンとウェンテ二柱の神のためのキナを運ぶ運搬車の車輪の音と、数十人のダウィが長い縄を握り一歩一歩進みながら立てる音が、遠くから聞こえてきた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
遠くから足音が聞こえた。速く、慌ただしい足音だった。
グラベルは顔を向けた。
一人のダウィが駆けてきていた。彼の顔は青ざめており、息が荒く漏れていた。
彼は一行が座っている場所に近づくと、躊躇うように足取りを緩めた。
イゴールを見つめる眼差しに一瞬ためらいが滲み、イゴールは目を閉じ、軽く頷いて無言の合図を送った。
ダウィはようやく息を整え、震える声で言った。
「ベナール様……ダムに……一大事が起きたとのことです。」
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