195話 ナウルの神殿 (1)
白い湯気が細い線を描きながら、上へと昇っていった。グラベルは手に持った茶杯 から立ち上る水蒸気をじっと眺めた。
「おかわりが必要でしたら、お申し付けください。」
イゴールは注ぎ口の長いティーポットを手に、静かに言った。彼の具現化した手は、ティーポットの取っ手をそっと包み込んでいた。
「ありがとうございます。」
グラベルは頷き、杯を唇へと運んだ。ハーブの香りが鼻先をかすめた。清涼な草の香りが染み込んだ茶だった。
*****
四日前のことだった。
あの日、ベナールはダムに滞在しているグラベル一行を夕食に招いた。そしてその席で、彼は提案を口にした。
「ナウルの神殿へ、一緒に行かないかね?」
彼はワインの杯をテーブルに置きながら言った。
「季節が変わるたびに一度は訪れる場所でね。君たちもダムに滞在する間に、一度は行っておく価値があると思うよ。」
グラベルは頷き、提案を受け入れた。
「ご一緒いたします。」
翌日、ベナールの屋敷の前庭には大きな馬車が何台も並んだ。ムールムックたちが頭を垂れて立っていた。
黒い毛並みの巨大な獣たちは、それぞれ二頭ずつ荷を満載した馬車の前につながれていた。
ベナールの馬車は、その中でも最も大きかった。
「この馬車を作ったのは、十五年前だったかな。」
ベナールは馬車の側面を手でなでながら言った。
「こいつと連れ添ってきたのも、もう十五年になるのか……見かけはこうでも、ダムでも指折りの職人たちが総出で作り上げた代物でね。とても丈夫なんだよ。」
グラベルは馬車に乗り込んだ。内部には長い椅子が両側に並べられており、小さなテーブルと収納棚も備えられていた。窓の向こうに外の景色が見えた。
他の馬車には荷物が積まれていた。穀物の袋、ワインの樽、干し果物の入った箱、布で包まれた器類――神殿に献上する供物 だった。
「出発だ!」
ベナールの声が響いた。ムールムックたちが一斉に歩を踏み出した。馬車がゆっくりと動き始めた。
ダムを出て北へと向かう道は、広くて平坦だった。砂利の敷かれた道の上を、馬車の車輪が滑らかに転がっていった。
「この道は、ずいぶん昔からあったのでね……」
ベナールは窓の外を眺めながら言った。
「しかし数年前から本格的に整備し始めてね。石を敷き、水たまりを埋め、木の根を取り除いた。大きな馬車が通れるよう、道がしっかりしていなければならないからね。」
「神殿までは、どのくらいかかりますか?」
グラベルが尋ねた。
「二日あれば着くよ。一日は速度を上げて行き、もう一日は休みながら進む。急ぐ必要はないからね。」
馬車は丘を越え、森の道をたどっていく。遠くに山脈が見えた。青い空の下に連なる山の裾野は、雲に遮られて霞んでいた。
夜になると、一行は道の脇に天幕 を張った。ムールムックたちは草を食み、ムワと使用人たちは火を起こして夕食の支度をした。
翌朝、馬車たちは再び道を行った。昼頃になると、遥か前方に巨大な湖が見え始めた。陽光 が水面で砕け散り、きらきらと輝いた。
「あそこがナウルの神殿だ。我々の言葉ではメルハラムと呼ぶ場所でね。」
ベナールが手を挙げて指し示した。
*****
グラベルはその記憶をたどりながら、再び茶杯を口へと運んだ。
今、彼はナウルの神殿――メルハラムの外縁に設けられた席に座っていた。
広い布が頭上を覆っていた。四本の木柱が、広く張り出した布の四隅を支えていた。その日陰の下には長い長方形のテーブルが置かれており、その周りにグラベルとイリス、ニア、そしてベナールが腰を下ろしていた。
イゴールはテーブルの脇に立ち、ティーポットを手にしていた。彼はニアの茶杯へと注ぎ口を傾けた。黄金色の液体が細い筋を描きながら、杯の中へと流れ込んだ。
湯気が立ち上った。
「ありがとうだる!」
ニアは両手で杯を包み込み、満面の笑みを浮かべた。
グラベルは顔を上げ、神殿の中心部を遠くから眺めた。
湖は広大だった。水面が果てしなく広がり、さざ波がおだやかに揺れていた。陽光が水の上で砕け散り、無数の小さな光を生み出していた。湖岸には白い石が敷かれており、その上をさまざまなダウィとムワが行き来していた。
湖の中心には、巨大な構造物があった。
真白な石で作られた台座だった。ダウィの体躯 をはるかに超える大きさの石々で築かれたその台座は幾重 もの段を成しており、その上には深く透き通るような青を帯びた、球体をなす巨大な原石が安置されていた。
そして湖の畔 から台座へと、幅の広い石橋が伸びており、ダウィとムワたちは敬虔 な足取りでその橋を渡り、原石へと近づくことができた。
台座の上の原石は、深く透き通った青色が陽光を受けて輝いていた。表面は完璧に滑らかで、内部からはほのかな光彩が流れ出ていた。
「あれがナウルの眼だ。」
ベナールが言った。
「我々の言葉ではラフ(Rah)と呼ぶのだ。」
グラベルは目を離せないまま、ナウルの眼と呼ばれる巨大な青い石を見つめ続けた。周囲には多くのダウィとムワが集まっていた。ひざまずく者もいれば、両手を合わせる者もいた。ムワたちは翼を折り畳み、胸の前へと寄せていた。
「ラフは……何から作られているのですか?」
イリスはいつものように、主君の代わりにベナールへと問いかけた。グラベルの好奇心を汲み取り、説明を引き出すのが彼女の習いだった。
「それは誰も知らないよ。」
ベナールは杯を置きながら答えた。
「ラフは遠い昔からあそこにあったのだ。ダウィとムワがこの地に根づくよりも前、はるかに長い歳月の間な。」
ニアは目を大きく見開き、ラフを見つめた。
「うわあ……すごく大きいだる!あんなに大きな宝石、初めて見ただる!」
「そして、ラフには特別な力があってね。」
ベナールは続けた。
「ラフは、君たちが『マナ』と呼ぶものを受け入れるのだ。ダウィは両手を合わせてラフへと向け、ムワは翼を折り畳んでラフへと向けると、ほんのわずかなマナが抜け出ていく。結局、ラフが持っていってしまうようなものだな。」
「マナを奪うのですか?」
グラベルが尋ねた。
「奪うというより……受け取る、と言った方が正確だろうね。」
ベナールは微笑んだ。
「ダウィとムワたちは、喜んで自らのマナをナウルへと捧げるのだ。敬虔な心を込めてな。 そしてラフは、その心を受け止めてくれる。」
ベナールはしばし言葉を止めてから、付け加えた。
「しかし逆の場合もある。病を抱えていたり、傷を負った者がラフに触れると、ラフはむしろマナを分け与えてくれるのだ。癒しの力をな。」
グラベルは湖の周囲を再び見渡した。体を支えられながらゆっくりと歩み来る老いたダウィの姿が目に入った。その傍らでは若いダウィが気遣わしげに腕を支えていた。年老いたダウィはラフの前にたどり着くと膝をつき、両手を前へと差し伸べた。
別の方では、ムワが翼を大きく広げてからゆっくりと折り畳み、ラフへと向いていた。
「あの者たちは皆、ラフにマナを送っているのですか?」
イリスが尋ねた。
「大半はそうだな。」
ベナールは頷いた。
「健やかな者は感謝の心を込めてマナを送り、病を抱えた者は癒やしを願ってラフに触れるのだ。」
ベナールは杯を持ち上げてひと口飲んだ。そして席から立ち上がった。
「私にも、まだナウルへと送るだけの気力が残っているとは……本当に嬉しいことじゃ。」
彼は笑みを浮かべながら両手を胸の前で合わせた。手のひらが重なり合った。彼は目を閉じ、ラフへ向けてゆっくりと手を差し伸べた。
瞬間、その手の周りに光が集まった。かすかな青白い光の筋が指先から流れ出て、ラフへと向かって伸びていった。光の筋は細く透き通っていたが、確かにそこに存在していた。それは空中を横切り、ラフへと届いた。
ベナールは手を下ろし、席へと戻った。
「君もやってみてごらん。」
彼はグラベルを見やりながら言った。
「ダウィやムワでなくても構わないよ。ラフはすべての者の心を受け入れてくれるからな。」
グラベルはゆっくりと席を立ち、ラフを見つめた。
両手を胸の前で合わせた。手のひらが重なり合った。そして手をラフへ向けて、ゆっくりと差し伸べた。
瞬間、手の周りの空気が変わった。手のひらから細い糸が一本、引き抜かれていくような感覚があった。その糸は空中へと伸びていった。
グラベルは目を開けた。
糸が見えた。ほのかな銀色の細い線が、彼の指先からラフへと向かって伸びていた。線は空中で揺れていた。そしてゆっくりと形を変えていった。細い糸が丸くまとまり、小さな球体となった。水の雫 のようだった。銀色の雫が宙に浮かんで、ゆっくりとラフへと向かって飛んでいった。
雫がラフへと触れると、青い光がしばし揺らめいた。そしてその光が静まるころ、グラベルの手に感じていたかすかな感覚も、共に消えていった。
グラベルは手を下ろし、席へと腰を下ろした。
「どうだったかね?」
ベナールが尋ねた。
「言葉にしにくいのですが……手の中から何かが抜け出ていく感覚が……まだ余韻として残っています。」
グラベルは率直に答えた。
「このような経験は、初めてです。」
「ナウルはすべての者を受け入れてくださるのだよ。」
ベナールは満足げに頷いた。
「種族を問わずね。だからここにはダウィとムワだけでなく、他の者たちも訪れるのだよ。もっとも、大半はダウィとムワだけれどな。ふははは。」
グラベルは再び湖の周囲を眺めた。ラフに向けてマナを送る光の筋が、十も百もの数で空中を横切っていた。
湖の周囲には小さな建物が立ち並んでいた。真白な石で建てられた低くて広い建物の間を、ダウィとムワたちが行き来していた。
「あの建物は何ですか?」
イリスが尋ねた。
「神殿の宿舎と食堂だよ。」
ベナールは答えた。
「遠くから訪れた者たちが泊まれる場所でね。メルハラムは、単にナウルへの奉献を捧げる厳粛な場所ではない。多くのダウィとムワが集い、言葉を交わし、食を共にし、共に時を過ごす場所でもあるのだ。」
グラベルは頷いた。雰囲気はベナールの言葉そのままだった。ダウィたちとムワたちは神殿の各所で輪になり、明るく笑いながら語り合っていた。軽やかな笑い声と朗らかな声が重なり合い、神殿の中は穏やかな活気で満ちていた。
「あちらに見える建物は、神官たちの居住区だよ。」
ベナールは湖の北側にある大きな建物を指し示した。
「神官たちはラフを管理し、信者たちの助けとなる役割を担っているのだ。病者の世話をし、道に迷った者に道を教え、争いを仲裁することもある。」
「神官になるには、どうすればよいのですか?」
グラベルが尋ねた。
「ナウルに認められねばならないのだ。」
ベナールは茶杯を置いて説明を続けた。
「神官を志す者は、しばらくメルハラムで過ごし、己を磨く時間を送るのだ。そしてその修練 が認められると、最後にラフの前へと立つことになる。」
ベナールは微笑んだ。
「そうしてラフの前で長い時間をかけて祈り、ラフが光を放って答えを示してくれれば、神官となることができるのだ。しかし容易なことではない。真心がなければ、ラフは応えてくれないからな。」
イゴールが再びティーポットを持ち上げ、ベナールの杯を満たした。ベナールは杯を手に取り、ひと口飲んだ。
湖の向こう側からは歌声が聞こえてきた。ダウィたちが輪になって座り、歌を歌っていた。低く深みのある声が水の上を渡ってきた。ムワたちが翼をはばたかせてリズムを取っていた。
ニアは湖を眺めながら、しっぽをゆらゆらと揺らした。
「水がとても澄んでいるだる。」
「湖を満たす水は、北の山から流れ下ってくるのだ。」
ベナールが言った。
「雪解け水だから、冷たくて清らかなのだよ。」
グラベルは湖のさざ波を眺めた。水面が陽光を受けて輝いた。ラフの青い光が水に反射し、湖全体が青緑色に染まっていた。
「メルハラムは、どのくらい古い場所なのですか?」
グラベルが尋ねた。
「正確にはわからないよ。」
ベナールは首を振った。
「しかし少なくとも数千年は経っているだろう。ダウィとムワがこの地に根づいたのは記録もおぼろになるほど遠い昔のことで、記録によればその頃にはすでにラフはここにあったというのだからな。」
「ラフを作った者が誰かも、誰も知らないのですか?」
「誰も知らないのだ。」
ベナールはラフを見やりながら言った。
「もしかしたらナウルが直接お作りになったのかもしれない。あるいはもっと遠い昔、この地に住んでいた別の種族が作ったのかもしれない。大切なのは、今ラフがここにあるということだ。そして我々を見守ってくれているということだな。」
グラベルは再びラフを眺めた。巨大な青い宝石は、静かに光を放っていた。無数のマナの筋がラフへと流れ込んでいった。
イリスは湖の周囲をゆっくりと見渡した。彼女の目がある一点に止まった。
「あちらの者たちは何をしているのですか?」
彼女が指し示した先には、ダウィが数人、大きな布を広げていた。布の上には食べ物が所狭しと並べられていた。パン、果物、チーズ、干し肉。彼らは輪になって座り、食べ物を分け合っていた。
「食事をしているのだ。」
ベナールが答えた。
「メルハラムでは、誰でも自由に食を取ることができる。神殿が用意した食べ物もあれば、信者たちが自ら持ち寄った食べ物もある。共に分かち合うことが、ナウルの教えだからな。」
ニアはその言葉を聞いて、こくりと頷いた。
「いい教えだる。」
ベナールは笑みを浮かべながら杯を置いた。彼は再びラフを眺めた。長い間、彼は黙ってラフを見つめ続けた。その表情は穏やかだった。
グラベルはその様子を眺めながら思った。ベナールは、自らの神への思いが深いダウィだった。ナウルを心から信じ、ここメルハラムを深く敬っていた。
時が流れた。陽は西へと傾き始めた。陽光が湖に斜めに差し込み、さざ波に長い影を作り出した。ラフの青い光はいっそう深みを増した。
グラベルは茶杯を持ち上げ、最後に残った茶を飲み干した。茶はすでに冷めてぬるくなっていたが、それでも香りだけは残っていた。
「あちらを見てごらん。」
ベナールが手を挙げて湖の東側を指し示した。
「あそこで白い衣 をまとっているのが神官たちだ。」
グラベルは視線を転じた。三人のダウィが長い白い衣をまとい、ラフへと向かって歩いていた。彼らはゆっくりと階段を上り、ラフの前にひざまずいた。両手を合わせ、ラフへとそっと押し当てた。
しばらくすると、ラフが明るく光を放った。青白い強い光が四方へと広がった。湖全体がその光に染まった。周囲のダウィとムワが一斉に顔を上げ、ラフを見つめた。
光はゆっくりと和らいでいった。神官たちは立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてきた。
「あれは……何ですか?」
グラベルが尋ねた。
「夕暮れの祈りだ。」
ベナールは答えた。
「神官たちは一日に三度、ラフの前で祈りを捧げるのだ。夜明け、正午、そして夕暮れ。ラフはその祈りに応えて、光を放ってくれるのだからな。」
ニアは目を輝かせながらラフを見つめた。
「すごいだる!」
イゴールはティーポットをテーブルに置き、ベナールへと静かに歩み寄って言った。
「日が暮れる前に、宿舎へお戻りになった方がよろしいかと存じます。」
ベナールは頷いた。
「そうしよう。」
彼は席から立ち上がり、微笑んだ。
「今日のこの老いたダウィの案内は、満足のいくものだったかね?メルハラムについて知りたいと思う者たちに出会えて……今日は私も嬉しかったよ。」
その声には、案内人としての誇りと、ナウルの神殿をグラベル一行に見せることができた小さな喜びが、共に宿っていた。
一行は天幕を後にし、湖に沿って歩いた。足元の白い石が、歩を踏むたびに柔らかな音を立てた。湖のさざ波がおだやかに揺れていた。
作品をお読みいただき、心より感謝申し上げます




