194話 外伝:画家と薬草師(4)
老人の筆が画布 の上をゆっくりと動いていた。ジェリンの顔に、少しずつ生気が宿り始めていた。頬の曲線、額の明暗、顎の輪郭が、次第に鮮明になっていった。
「絵が仕上がるまでには、まだしばらく時間がかかりそうだな」
老人は筆先を画布の上に動かしながら、視線を絵に据えたまま、唇だけを動かして目の前の相手に語りかけた。
「構いません。いつまでもお待ちいたします」
ジェリンが答えた。声はまだ震えていたが、先程よりは落ち着きを取り戻していた。
「今日はここまでにしよう。絵の具が乾いたら、また上から塗り重ねねばならぬ。数日後にもう一度来てくれ。できれば三、四日後の朝がいいな。日の光が今と同じくらいの角度で入る頃合いがよいのでな」
「分かりました。朝早くに参ります」
老人は筆を水で洗った。赤い絵の具が水の中に広がっていった。
「今日はもう帰るがいい。君も休んだほうがいいだろう」
ジェリンは席を立った。窓辺を離れ、老人のもとへと歩いてきた。彼は深く頭を下げ、礼をした。
「今日は……こうしてお聞きいただき、ありがとうございました」
「いや。わしは何もしておらぬよ」
老人が言った。
「先生は、私の話に耳を傾けてくださいました。それだけで十分です」
ジェリンが言った。その目元はまだ赤かったが、表情はいくらか和らいでいるように見えた。
ジェリンは戸口の方へと歩いていった。古びた茶色の外套のボタンを留めた。
老人は戸口までジェリンを見送りに来た。
「次に会おう」
老人が言った。
「はい。では、その時に……お目にかかります」
ジェリンはそう答えると、戸を開けて外へ出た。冷たい風が頬をかすめた。彼はもう一度深く頭を下げると、ゆっくりと歩き去っていった。
老人はその後ろ姿が路地の角を曲がって消えるまで、見送っていた。
戸を閉めた。再び絵の前へと戻る。ジェリンの顔は、半ば描き上げられたまま画布の上に残っていた。
老人は、その絵をしばらくの間じっと見つめていた。
若い顔だった。だが、苦難に満ちた人生が刻み込まれた顔だった。
*****
数日後の朝、日が昇り始めたばかりの頃、ジェリンが再び戸を叩いた。老人が戸を開けると、そこにジェリンが立っていた。以前より幾分、顔色がよくなっているように見えた。
「来たか」
「はい。この数日で、ずいぶん寒くなりましたね」
ジェリンは中へ入った。部屋に入ると、数日前と同じ場所、窓辺へと歩いていき、腰を下ろした。
「よし。あの時と同じ姿勢で座ってくれ」
ジェリンは顔を少し左へ向け、顎を軽く上げた。
老人はその様子を確かめると、頷いた。
老人は絵の前に立った。以前に塗った下地は、すでにすっかり乾いていた。彼は新しい筆を取り出すと、顔料を混ぜ始めた。より細かな作業のための、細筆 だった。
目を描き始めた。深い茶色で瞳を塗り込めると、次第に温かみが滲み出してきた。小さな光の点を一つ加えると、眼差しに生気が宿った。続いて、眼瞼 の下にほのかな影を落とし、まつ毛を一本一本描き入れていった。
「じっとしているのは、つらくないか?」
老人がジェリンに尋ねた。
「大丈夫です」
「話をしていれば、少しは楽になるだろう。前回は……つらい話ばかりしてしまったからな。今日は、何か別の話をしてみてはどうかね」
ジェリンは少し考え込んだ。
「別の話、と言われましても……何をお話しすればいいのか、よく分かりません」
「君が薬草を採りながら見てきたものは、どうだろうか。森で、野原で、目にしたものの話だ」
ジェリンの表情が、わずかに和らいだ。
「森は……美しいです。特に早朝に入ると、霧が木々の間に立ち上るのですが、その光景がとても好きです」
「そうだろうな」
老人が筆を動かしながら言った。
「春には、野の花がたくさん咲きます。名前も知らない小さな花が、森のあちこちに咲いているのです。薬草を採りに行く途中でも、そういう花を見かけると、つい足を止めてしまいます」
ジェリンの声に、静かな安らぎが宿っていた。
「夏には蝶がたくさん飛びます。白い羽に小さな斑点のある蝶、鮮やかな黄色の蝶、羽の縁に濃い青がにじんだ蝶まで。花から花へと飛び回る姿を見ていると、時間を忘れてしまいます」
老人は鼻の形を整えると、鼻筋に明るい光を少し加えた。続いて鼻翼 の下に濃い影を落とし、鼻の下、人中 の線を落ち着いた筆致 で描き入れた。
「秋には、落ち葉が積もります。足を踏み出すたびにかさかさと音がするのですが、私はその音が好きです。空気も澄んで涼やかで、長く歩くのにちょうどいい季節です」
「冬は?」
老人が尋ねた。
「冬は……静かです。雪が降った日には、すべての音が消えてしまったかのように静まり返ります。その静けさの中で薬草を探していると、世界に自分一人だけが残されたような気がすることもあります」
ジェリンの声が、少し低くなった。
「ですが、その静けさは、悪いものばかりではありません。むしろ、心が安らぐこともあります」
老人は唇を描いた。上唇と下唇の境を、はっきりと描き分ける。口角のかすかな曲線を、丹念に表した。
時が流れた。日は少しずつ高くなっていった。窓から差し込む光の角度も、わずかずつ変わっていった。
「少し休もう」
老人が言った。
ジェリンは姿勢を崩した。首を回し、左右に動かす。肩を回した。
「水を少し飲むか?」
「大丈夫です」
「飲むがいい。喉が渇いておるだろう」
老人は水瓶を持ってくると、コップに水を注いだ。それをジェリンに手渡した。
「絵は……どのくらい進みましたか?」
ジェリンが、おずおずと尋ねた。
「半分ほどだな。今日のうちに仕上げられそうだ」
「そうですか」
ジェリンは水を飲み終えると、コップを老人に返した。
「では、また始めようか」
老人が言った。
ジェリンは再び窓辺へ行き、腰を下ろした。老人は筆を取った。
彼はまず髪から整えていった。額を覆う前髪、耳をかすめる一筋、うなじへと柔らかく流れ落ちる髪の流れ——その筋目に沿って、筆が画布の上を幾度も往復した。一筋一筋に明暗を乗せながら、形と流れを丁寧に捉えていった。
続いて下塗り を重ね、外套の質感を画布に押し込むように描き込んでいった。古びた茶色が広がり、擦り切れた袖や継ぎを当てた布切れ、そこに残る繕いの跡が、次第に姿を現していった。彼は皺の寄った部分はより暗く、布の折れ目はわずかに明るく仕上げ、外套の重みを表現していった。
最後に手を彩色 した。荒れて荒々しくなった肌、手の甲に残る薄い傷、爪の間に入り込んだ土、手のひらに刻まれたたこ——そのひとつひとつを、丁寧に色で写し取っていった。その手は、ただの形ではなかった。長く生き抜いてきた歳月そのものが、染み込んだ手だった。
太陽が天の最も高い場所に達していた。光がいっそう強くなった。
「もうじき終わるな」
老人が言った。
最後の仕上げに入った。顔のかすかな明暗を整えた。明るすぎる部分はわずかに暗く、暗すぎる部分はわずかに明るくし、絵全体の均衡を取っていった。
そして最後に、もう一度目に筆を入れた。瞳の奥深くに、何かを込めようとした。悲しみ、孤独、そしてそれでも生きようとする意志——そのすべてを、小さな一筆に込めた。
「終わったぞ」
老人は筆を置きながら言った。
ジェリンは席を立ち、画布の方へとゆっくり歩いてきた。絵の前に立った。
絵の中に、自分がいた。窓辺に腰掛けている自分の姿だった。陽の光が顔を照らし、古びた外套を纏っている。その目は、どこかを見つめていた。遠くを、あるいは深い場所を見つめる目だった。
ジェリンは長い間、その絵を見つめていた。何も言わなかった。ただ、見つめるだけだった。
「気に入ったかね?」
老人が尋ねた。
「はい……」
ジェリンの声が震えた。
「これが……私なのですね」
ジェリンの目に、再び涙が浮かんだ。だが今度は、それが流れ落ちることはなかった。彼は涙をこらえながら、絵を見つめ続けた。
「これでもう、私がここに存在していたことを、誰かが知ってくれるのですね」
「そうだ」
老人は頷いた。
「この絵は、長く残るだろう」
ジェリンはゆっくりと頷いた。それから、老人に深く腰を折って礼をした。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「構わぬよ」
老人が言った。
ジェリンは腰に巻いた巾着 を外した。中から銀貨の入った袋を取り出し、老人に差し出した。
「絵の代金です」
老人は銀貨を受け取った。
「ありがとう。絵が乾き次第、また数日後に取りに来てくれればいい」
ジェリンはもう一度礼をすると、戸口の方へ歩いていった。靴を履き、外套をきちんと整えた。
老人が戸を開けてやった。
「達者でな」
「どうかお元気で」
ジェリンは戸を出た。冷たい冬の空気が頬をかすめた。彼はもう一度、後ろを振り返った。老人は戸口に立ち、彼を見つめていた。ジェリンは頭を下げて最後の礼をすると、路地を歩いていった。
老人は、ジェリンの後ろ姿が完全に見えなくなるまで、その場に立ち続けていた。それから、ゆっくりと戸を閉めた。
彼は再び絵の前に歩み寄り、それをそっと持ち上げて裏側を確かめた。
小さな筆を取り、下の隅に小さな文字を書き入れた。
『プロイクトンの薬草師、ジェリン・ホッパー』
*****
歳月が流れた。
エステタ王国は、歴史の中へと姿を消した。王朝は変わり、国境も変わり、いくつかの都市の名も変わっていった。
プロイクトンという名は、もはや地図の上に残っていなかった。
人々は生まれ、死んでいった。建物は崩れ、また建て直された。道は変わり、広場も変わり、城壁も崩れ落ちた。
しかし、絵は残った。
老人が描いたジェリン・ホッパーの肖像画は、幾人もの手を経て伝えられていった。
最初はジェリン・ホッパーのもとに渡ったが、歳月が流れた後、ある家で遺品を整理していた者たちがその肖像画を見つけ出した。絵はほどなく、ある画家の作品として人々の間に知れ渡り、優れた技巧の込められた肖像画として注目を集めるようになった。
絵は、ある貴族の手に渡った。貴族は自らの邸宅にその絵を飾った。数十年が過ぎ、その貴族の家が没落すると、絵は競売 にかけられた。
ある商人が、その絵を買い取った。
商人は絵を別の都市へ持っていった。そこで再び売られた。そうして絵は、いくつもの都市を渡り歩いた。あるときは裕福な家の壁に飾られ、あるときは倉庫の中に放置されることもあった。
さらに長い時が過ぎたある日、ある収集家がその絵を見つけ出した。古びた美術品店の片隅に、埃 をかぶったまま置かれていた絵を見出したのである。
絵の埃を払い落とすと、若い男の顔が現れた。
収集家は、絵の裏に残された記録を確かめた。『プロイクトンの薬草師、ジェリン・ホッパー』と記されていた。画家の署名もあった。収集家は頷いた。
絵は博物館へと移された。美術館の一展示室、かつての王国の絵画を集めた部屋の壁に掛けられた。照明が絵を照らした。ジェリン・ホッパーの顔が、再び光を受けた。
人々は、一人また一人とその絵の前で足を止めた。しばらく絵を見つめた後、傍らに置かれた説明文へと視線を移していった。
『プロイクトンの薬草師の肖像』
作者 グリューネヴァルト(Grünewald) 制作年代 エステタ王国時代
絵の中の若い男は、窓辺に腰掛けていた。古びた茶色の外套を纏い、顔の片側に光が当たっている。目は深く、表情は静かだった。手は荒れていて、肩はわずかに落ちていた。
人々は絵を見ながら考えた。この人物は誰だったのだろう。どんな人生を生きたのだろう。何を思いながら、こうして座っていたのだろう。
ある者は、絵の前で長く立ち止まっていた。若い男の目を覗き込んだ。その目の奥に、何かを感じ取った。悲しみ、孤独、そして生きようとする意志のようなものを。
一人の女が、絵の前に立った。絵を模写していた。鉛筆で輪郭を取り、顔の比率を合わせながら、目、鼻、口を描き入れていく。
一人の老人が、絵の前に立った。長い間見つめていた。そして、静かに頷いた。
一人の男が、絵の前に立った。ジェリン・ホッパーと同じくらいの年齢に見える男だった。彼は絵をしばらく見つめてから、ゆっくりと頭を下げた。
さらに時が流れた。数十年が過ぎ、百年が過ぎ、二百年が過ぎた。
絵は今もなお、博物館に掛けられていた。人々は今もなお、絵の前に立った。ジェリン・ホッパーの顔を見つめた。
エステタ王国は、もはや歴史書の中にだけ残されていた。プロイクトンという都市の名も忘れ去られた。そこに生きた人々も、そこにあった建物も、そこを通り過ぎていった道も、すべてが消え去った。
しかし、ジェリン・ホッパーは残った。
彼の顔は、画布の上に生き続けていた。その目は今もなお、どこかを見つめていた。その手は今もなお荒れたままで、その外套は今もなお古びたままだった。
彼は、記憶された。
数百年が過ぎた後も、彼は記憶されていた。
あまりにも多くの人々に。
彼が願っていたとおりに。
孤独と不安の中で一人残されたJeremy Hofferに、この物語を捧げます




