192話 外伝:画家と薬草師(2)
老人はエプロンで手を拭きながら、ドアのほうへ歩いていった。足を踏み出すたびに木の床が軋んだ。重いオーク材のドアを開けると、冷たい風が顔を撫でた。冬の空気が家の中へと流れ込んできた。
ドアの外には若い男が立っていた。背はやや高く、肩幅は広くない。茶色の外套 をまとっていた。外套は古びていた。袖口はすり切れ、肩の部分には布を当て縫いした跡があり、胸元にも繕った痕 が見えた。糸がわずかに飛び出しており、外套の色は元の色より褪せていた。陽射しと雨に何度も濡れ、そのたびに乾かされてきた布だった。
男の手は荒れていた。手の甲には小さな傷跡がいくつも連なり、爪の下には黒い土が詰まっていた。親指の横には濃い緑色の染みが残っており、草汁が潰れて染み込んだ痕だった。手のひらには長年の厚いたこが、固くこびりついていた。
「こんにちは」
男は頭を下げて挨拶をした。声は澄んでいた。
老人は男の顔をじっと見た。若い顔だった。三十ほどに見えるその男の顎には短い無精髭 が生え、目尻には陽に焼けたような細かな皺 が刻まれていた。額にはかすかなあせもの跡まで残っていた。
「絵の依頼に来たと言っておったかね?」
老人が尋ねた。
「はい」
男が答えた。
「中へ入りたまえ」
老人はドアを開け、男を中へ招き入れた。男が敷居をまたいだ。靴には泥がついていた。靴紐は何度も結んでは解いた跡が残っていた。
男は室内を見回した。壁にかかった画布 、棚の上の絵の具の壺、作業台の上に置かれた乳鉢 と顔料へと視線が流れた。
「私の名は、ジェリン・ホッパーと申します」
男が言った。
老人は少し動きを止めた。ホッパー。その名前にどこか聞き覚えがあった。遠い記憶の中から、何かがぼんやりと浮かび上がってきた。しかし、はっきりとはしなかった。老人はゆっくりと頷いた。
「ホッパー……ふむ」
「もしかして、覚えていらっしゃいますか?ずいぶん昔のことです。私が冒険者ギルドに初めて登録した時、先生が私の肖像画を描いてくださいました」
ジェリンが言った。
老人は目を細めた。記憶をたどった。遠い昔のことだった。いったいどれほど前だったのか。十年ほど前だろうか。あの頃、冒険者ギルドで新入りたちの肖像画をよく描いていた。数十人、もしかすると百人を超えていたかもしれない。顔が入り混じっていた。若い顔。緊張した表情。その中の一人がこの男だったのだろうか。
「そうだったかな……記憶がぼんやりしているよ」
老人が正直に言った。
「当然です。遠い昔のことですから」
ジェリンが微笑んだ。無理に作った笑みではなかった。
ジェリンは腰につけた小さな革袋の紐を解き、口を引っ張って開けると、中から布に包まれた小さな包みを取り出した。包みを広げると、干した葉が現れた。葉は小さく丸く、縁がのこぎり状になっていた。かすかな草の香りがした。
「ラコエの葉です。薬草を採りに行ったついでに摘んできました。お茶として煎じてお飲みいただくといいですよ」
ジェリンは包みを老人に差し出した。
老人は包みを受け取った。指で葉に触れた。崩れそうなほど薄かった。香りがよかった。
「ありがとう。ラコエは手に入りにくいのにね」
「冬はなおさら貴重ですから」
ジェリンが言った。
老人は茶碗 を空にし、ティーポットに残ったカモミールのかすを流し捨てた。きれいにすすいだ後、新しい水を入れて炉の上に置いた。
水が温まる間、ジェリンは家の中を見回した。壁の一方には大小さまざまな画布が立てかけられており、床には乾いた絵の具の跡が残っていた。窓際には筆を差した瓶と色褪せた布切れが並んで置かれていた。炉の傍でティーポットが湯気を立て、静かな音を立てていた。
やがて水が沸き始めると、老人はジェリンからもらった包みを開いた。ラコエの葉のほのかな香りが広がった。彼はティーポットを火から下ろし、中に葉を何枚か浮かべた。爽やかな香りが部屋を満たした。カモミールよりも一段と澄んで清涼な香りだった。
「一緒に飲もうじゃないか。君も座りたまえ」
老人が言った。
ジェリンは頷き、部屋の奥へと入ってきた。老人は椅子を一脚引きずってジェリンに勧めた。ジェリンが椅子に腰かけた。背筋をまっすぐ伸ばして座り、両手を膝の上に置いた。
老人は茶碗を二つ取り出した。磁器の碗だった。表面に細かいひびが入っていたが、使えるものだった。ティーポットからお茶を注ぎ、ジェリンに一碗を差し出した。
「ありがとうございます」
ジェリンは碗を受け取り、お茶を一口飲んだ。唇に触れた湯気が温かく広がり、やがて口の中をしっとりと潤した。
しばらくして老人も碗を手に取り、お茶を飲んだ。まず柔らかな味が感じられ、苦みはほとんどなかった。
喉を滑り降りていく感触が、じんわりと心地よかった。
「肖像画を描いてほしいと言っておったかね?」
老人が尋ねた。
「はい」
「準備が必要だよ。少し時間がかかる」
老人は作業台へと歩いていった。棚から清潔な画布を取り出した。中くらいの太さの綿布で織られた布で、木の枠にぴんと張られていた。
三本脚の木製架台を広げて画布を立てた。脚を大きく開いてしっかりと固定した後、高さを調整して目線よりもやや低く合わせた。
「窓際へ行って座りたまえ」
老人が言った。
ジェリンは椅子を持って窓際へ向かった。窓の傍に椅子を置いた。腰を下ろした。陽の光が横から斜めに差し込んできた。顔の片側が明るく輝いた。反対側には影が落ちた。
「顔を少し左に向けてくれ」
老人が言った。
ジェリンが顔を向けた。
「もう少し」
もう少し向けた。
「よし、そのくらいでいい。肩の力を抜いて」
ジェリンは肩の力を抜いた。
「顎を少し上げてくれ」
ジェリンが顎を上げた。
「よく描いてください」
ジェリンが言った。
「そうしよう」
老人が答えた。
老人は磁器の壺の中から細い筆を一本取り出した。そのそばにある小さな木箱を開けると、中にはさまざまな顔料を入れた瓶が整然と並んでいた。
そのうちの赤みがかった黄土色の粉を少量取り出し、膠水 を一滴と混ぜ合わせた。
画布の前に立ち、筆を持ち上げた彼は、ジェリンの顔を見つめた。
額から顎までの距離と目の間の間隔、鼻の長さと口の位置を順に確かめながら、比率を見定めた。
筆先が画布に触れると、細い線が引かれた。楕円を描いて顔の輪郭を取った。
線は非常に細く、ほとんど力を加えていなかった。続いて中心線を縦に長く引き、顔を二分した。横線も加えて目の入る位置を示した。その下にもう一本、鼻先の位置。さらにもう一本、口の位置だった。
「最近はどんな依頼を主にこなしているのかね?」
「私はいつも薬草を採っています」
「それなら冬は仕事が少ないだろうな」
老人が言った。
老人は筆を止めることなく問いかけを続けた。昔から肖像画を描く時は、いつもこうだった。座っている者が退屈に沈まないよう、あるいは表情が強張らないよう、会話を続けながら顔の筋肉をほぐさせた。彼にとって、画布の前に座る者へかける言葉は、細い線を描き出す筆よりも繊細 な道具だった。
「いいえ。むしろ冬は薬草の値が上がります」
ジェリンが答えた。
「そうかね?」
「雪が降るとさらに上がります。いくつかの薬草は手に入りにくくなりますから」
老人は筆を動かした。目の位置を示した。二点を打った。瞳の入る場所だった。鼻の輪郭を引いた。鼻筋から小鼻まで。唇の線も引いた。上唇と下唇の境界。
「冬にしか出ない薬草もあるのかね?」
「いくつかあります。霜が降りた後でないと効能が現れないものがあるんです」
ジェリンの声は穏やかだった。
老人は耳の位置を示した。目と同じ高さから始まり、鼻の先の高さで終わる線。顎の線を引いた。耳から顎の先へと続く曲線。首の輪郭も引いた。
「では、冒険者ギルドから依頼を受けた薬草だけを採りに行っているのかね?」
「そうです」
「戦闘はしないのか?」
「しません。戦闘は……私には向いていませんから」
ジェリンはしばらく言葉を止めた。
老人は筆を止めなかった。髪の流れを示した。額を覆う髪、耳を過ぎて首筋へと続く線。細い線が重なっていった。
「一人で仕事をしているのかね?」
老人が尋ねた。
ジェリンは答えなかった。しばしの間、沈黙が流れた。老人は筆を動かしながら待った。ジェリンの目が窓の外へと向いた。
「……はい」
ジェリンが低く言った。
「ずっとそうやって過ごしてきたのかね?」
「いいえ」
ジェリンの声がわずかに沈んだ。
「以前は仲間がいました」
老人は筆を置いた。ジェリンを見た。ジェリンの表情が変わった。口角がわずかに下がった。目に影が落ちた。
「どんな者たちだったか、聞いてもよいかね?」
「良い人たちでした」
ジェリンが言った。
「スライム退治の依頼を一緒に受けたこともありました。廃坑の入り口の近くでした。それほど難しい仕事ではありませんでした」
ジェリンは膝の上で、ゆっくりと手を握ったり開いたりした。
「石殻兎 を狩ったこともあります。皮が固くて、矢がなかなか刺さらなかったんです。それでも三人で取り囲めば、簡単に捕まえることができました」
「よい仲間たちと過ごしていたようだな」
「はい。私と、剣の扱いに長けた友人、弓を得意とする友人……三人でいつも一緒でした。いつかはアクイルンの迷宮まで冒険に出ようと、約束していたんです」
ジェリンの声にわずかな震えが混じった。
「行商人の護衛を引き受けて、バラ・グラスまで同行したこともありました。道は遠く険しかったです。夜になると道からやや離れた木に寄りかかって眠りにつきましたが、あの時の風は冷たく身に染みました。それでも構いませんでした。そばにはいつも仲間たちがいましたから」
ジェリンはしばらく言葉を止めた。息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出した。
「そしてある日……ブルントの花の採集依頼を受けました。貴重な花なので値も良くて。欲が出ました。森の奥へ行けばもっとたくさん採れると思ったんです。仲間たちは危険だと言って止めましたが、あの時の私は二人の言葉に耳を貸しませんでした」
ジェリンの手が震えた。拳を握った。手の甲の血管が浮き上がった。
「グノールの群れに遭いました。八匹いて、私たちはたった三人でした。戦いは避けられませんでした。剣を使っていた友人が最初に倒れました。腹を刺されて崩れ落ち、その瞬間、弓を使っていた友人が私を突き飛ばして逃げろと叫びました。私は結局、彼の叫びに従って体を向け、走り去りました」
ジェリンの声が割れた。
「生きて戻ったのは、私だけでした」
老人は何も言わなかった。ジェリンの顔を見た。ジェリンは頭を下げた。肩が縮んだ。
「その後、私は一人で仕事をするようになりました。もう仲間は求めませんでしたし、戦闘の依頼も受けませんでした。残ったのは薬草を採ることだけでした。危険ではなく、一人でもできることですから」
「寂しくはないのかね?」
老人が尋ねた。
「少しは寂しいです。でも、慣れました」
ジェリンは顔を上げた。目の端が赤くなっていた。
「誰とも一緒にいなければ、二度と誰かを失わずに済みます。私はすでに一度……自分の過ちで失いましたから」
ジェリンは無理やり笑った。口角だけが上がった。目は笑っていなかった。
「一人で仕事をするのも、悪くはないですよ。時間に縛られることなく、誰かとの約束を守る必要もない。ただ自分の心の向くまま動けますから。だからなのか、時には一人でいることが、むしろ心地よく感じることもあります」
「それが、君の望んでいることなのかね?」
老人が尋ねた。
ジェリンは答えなかった。顔を向けて窓の外を見た。冬の陽射しが顔を照らした。
「わかりません。私が選んだ孤独です。楽になろうと選びました。でも今になって後悔しているのかどうかも、わかりません」
老人は筆を再び手に取った。少しの間ジェリンを見つめた。古びた外套、すり切れた袖口、繕った跡。それらすべてが語っていた。長い時間を一人で歩んできた道を。
「続けて描かせてもらおう」
老人が言った。
ジェリンは頷いた。再び姿勢を正した。
老人は下絵を描き続けた。線が加えられた。顔の比率が完成した。目、鼻、口、耳、顎のライン。すべてが正しい位置に収まった。
下絵が終わった。老人は筆を置いた。そして、その隣に置かれていた太い筆を手に取った。
「では下地の色を塗ろう。動かないでくれ」
老人が言った。
画布の上に赤茶色の絵の具を塗り始めた。顔の暗い部分から。目の下、鼻の横、顎の下。筆が画布の上を滑った。絵の具が布に染み込んだ。薄い赤みがかった層ができた。
光の当たる部分は絵の具を薄く塗った。額、鼻筋、頬の高い部分。影の落ちる部分は絵の具を濃く塗った。首、耳の後ろ、顎線の下。明暗の構造が浮かび上がった。
老人は筆を洗った。水が薄い赤色に濁った。再び絵の具を含ませた。顔の中間色調を塗った。明るい部分と暗い部分の間。境界をなめらかにした。
「下地は終わったよ。少し乾かさないといけない。その上からまた色を重ねていかなくてはな」
老人は筆を置いた。
ジェリンは姿勢を崩した。肩を回した。首を左右に動かした。
「今日……」
ジェリンが静かに言った。
「今は、ホッパーという姓を持つのは私一人になりました」
老人がジェリンを見た。
「今、私の家族は……私一人だけです」
ジェリンの声は低かった。震えてはいなかった。ただ、空ろ だった。
孤独と不安の中で一人残されたJeremy Hofferに、この物語を捧げます




