189話 ダム攻防戦 (1)
ダムの西城壁の増築現場は、朝から降り続ける冬の雨に濡れそぼっていた。
灰色の空から落ちる冷たい雨粒が、石と木の足場を濡らした。石工 たちの口から白い息が立ちのぼっては、冷気の中へと溶けていった。
ダウィの石工が一人、雨に濡れた石の表面にノミを押し当て、槌 を振り下ろした。
カーン!
鋭い金属音が雨音を貫いて響いた。隣の石工が同じ動作を繰り返す。
カーン! カーン! カーン!
ノミが石を叩く音が、立て続けに弾けた。
「うーっ、くそったれ!こんな雨の中で石まで硬くてたまるか!」
あるダウィの石工が悪態をつきながら、顎の濡れた毛を手で絞った。水滴がぽたぽたと落ちた。
「ぐずぐず言ってないで働け!冬が本格的に来る前に、この区画を仕上げなきゃならんのだぞ!」
建築匠ヴァルゴが雨の中を歩いてきながら怒鳴った。彼の茶色い毛は雨に濡れ、体にぴったりと張り付いていた。
ムワの石工が一人、濡れた翼を畳みながら岩山の脇にしゃがみ込んだ。その嘴 から白い息が漏れていた。
「翼が濡れると、じっとりして気持ち悪くてかなわんのに……ちくしょう、この雨め!」
「不満は後にして、まずあの石を動かせ!」
ヴァルゴの怒鳴り声に、ムワの石工はしぶしぶ立ち上がった。
城壁のあちこちで作業員たちが動き回っていた。太い丸太を組んだ低く幅広の橇 が、巨大な石を乗せたまま泥を引っ掻きながら行き来した。
荷車の車輪が泥にずぶずぶと埋まり込み、ギーキーと軋んだ 。
あるダウィは巨大な石を乗せた橇を押しながら荒い息をつき、肩からは熱気を帯びた湯気を立ちのぼらせていた。
風が西から吹いてきた。鋭く冷たい風が雨を押し込み、石工たちの顔にたたきつけた。
若いダウィの一人が両手に息を吹きかけながら体を震わせた。
「寒さだけならまだ何とか我慢できるけど、雨まで降ってきたら手が完全に凍り付いちまうよ。」
「動けば温まるだろうが!」
ローガンが隣で叫びながら、濡れた石の上にノミを当て槌を振り上げた。カーン! という音とともに石の破片が飛び散った。
その向こう、南壁と西壁が交わる地点に、巨大な石の物見塔が聳えていた 。
物見塔はすでに三層まで完成していた。灰色の石が精巧に積み上げられ、重厚な塔を成していた。各層の壁には、石弓と小型バリスタを放てる幅広の射撃孔 が穿たれていた 。窓の周りの石は滑らかに削られ、雨水がつたい落ちていた。
塔の頂上にはまだ屋根が乗せられていなかったが、四方を見渡せる広い空間が設けられていた。
物見塔の外壁には、モノス採石場から運ばれた黒い結晶の混じった石が並び、雨に濡れて暗く光っていた。塔の基部は分厚く、堅固だった。普通の物見塔の数倍に及ぶ大きさだった。
クラバは物見塔の頂上に立ち、眼下を見下ろしていた。雨水が彼の古びた革衣を濡らしていた。
片手で衣の襟をかき合わせながら、城壁の向こうのサアルンの森を眺めた。口元から白い息が揺れている。
『南の区画はほぼ終わった。あとは西壁の第二区画を仕上げれば……春が来る前に完成させられる。』
彼は首を巡らせ、西壁に沿って視線を移した。まだ積み上げられていない区画が目に入った。石の山がそこに積まれ、作業員たちが雨に打たれながら働いていた。
『あの区画は……どう見ても、あと二日はかかるだろうな。せめてこの雨が上がってくれれば……』
物思いに沈んでいたそのとき、サアルンの森の木々の間から何かが飛んでくるのが見えた。
クラバは目を細めてそちらを凝視した。茶色い斑点のある白い羽のムワだった。翼の動きは乱れていて、力がなかった。雨を突き切るように城壁へと向かっているが、翼は雨に濡れて重そうで、片翼方がだらりと垂れ下がり、均衡を失っていた。
「あれは……」
クラバは急いで石の物見塔の階段を下り始めた。
ムワは胸壁 をかろうじて越え、城壁の上へと辿り着いた。翼をばたつかせて着地しようとしたが、力が尽きたように体が前へと傾いた。ドン! という衝撃とともに、彼は城壁の床に倒れ込んだ。濡れた羽根から水飛沫が散った。
「誰かが倒れたぞ!」
「向こうから誰かが来た!」
石工たちが手を止め、そちらへと駆け寄った。ダウィが二人、倒れたムワのそばに膝をついた。一人がムワの肩を揺さぶった。
「おい!しっかりしろ!大丈夫か!」
「水を持ってこい!」
別の石工が叫んだ。ムワの石工が一人、慌てて水筒を手に駆け寄った。
「ひどく参ってるな……」
「どうしたんだ?何があったんだ?」
石工たちがざわめいた。クラバは階段を素早く下り、石工たちが集まっている場所へと歩き向かった。彼の足音が、雨に濡れた城壁の石の上でぺちゃぺちゃと響いた。
人々が脇によけて道を開けた。クラバは倒れたムワの前にしゃがんだ。ムワの白い羽根は泥と雨水でぐしゃぐしゃになっていた。嘴が開き、荒い息が漏れていた。胸が速く上下している。
「水を少し持ってきてくれ。」
クラバが手を伸ばした。誰かが水筒を渡した。クラバはムワの嘴にわずかに水を流し込んだ。ムワが咳き込んで目を開けた。黄色い瞳が焦点を失ったまま、クラバを見つめた。
「大丈夫だ。ゆっくり息をしろ。」
クラバが穏やかに言った。ムワは何度か息を整えると、口を開いた。
「わ……わたくしはウダバ村から参りましたフワルと申します。」
その声は掠れ、震えていた。
「ウダバ?そんな遠いところからここまで来たのか?」
あるダウィの石工が驚いて問うた。
「ウダバと言えば……ここからかなり遠い村ではないか?」
別の石工が頷きながらつぶやいた。
フワルは唇を震わせながら続けた。
「オーク……オークが……村を……オークが村を……」
その声がどんどん小さくなっていった。目がとろりと閉じ、頭が横へと落ちた。気を失ったのだった。
「早くこの方を中へ!暖めてやらなければ!」
クラバが叫んだ。ダウィの石工が二人、フワルを注意深く抱え上げた。彼らは急いで城壁下の天幕 へと向かった。
クラバは立ち上がり、西のサアルンの森を見つめた。雨脚が彼の視界を遮った。その顔に暗い影が差した。
「オークだと……」
彼が低くつぶやいた。
*****
夕刻になった。
ダムの中心部、兵舎の近くに位置する評議会室の建物の重い扉が開いた。扉がきしみながら開くと、内側の明かりが溢れ出た。
室内は柔らかな橙色の光に包まれていた。壁のあちこちに嵌め込まれた魔石灯から温かな光が広がっていた。魔石灯のひとつひとつは手のひら大の石に刻まれたダムの文字が、ほのかに光を放ちながら周囲を照らしていた。光は一様ではなかった。明るい場所もあれば、濃い影が落ちている場所もあった。
石積みの壁には、各氏族の旗幟 が掛けられていた。最も大きな旗幟には、互いに絡み合う鉤爪の紋章が刻まれていた。茶色い布地に黒い糸で縫い取られた紋章だった。その隣には、赤い布地に白い糸で精巧に縫い取られた太陽の紋章があった。別の旗幟には山と星が描かれていた。青い布地に銀の糸で刺繍 が施されていた。旗幟は壁に掛けられ、下端が重みで垂れ下がっていた。
部屋の中央には、厚い樫の木で作られた円卓が置かれていた。卓の表面は歳月の痕跡でそこかしこが傷つき、えぐられていた。そして円卓の上には大きな地図が広げられていた。厚い樹皮を加工して作られた地図だった。
ダムの城壁は太い線ではっきりと描かれ、建物は小さな四角の記号で示されていた。西にはサアルンの森が描かれ、その向こうには荒野が続いていた。地図のあちこちには村の位置を示す点が打たれており、各点の脇には小さな文字で村の名前が記されていた。
ガルドンは円卓の中央に立ち、地図を見下ろしていた。その巨体が魔石灯の光を遮り、地図の上に大きな影を落としていた。板金鎧 は橙色の光を受けて、暗い金色にきらめいていた。
その顔からは、普段の豪快な笑みが消えていた。顎は固く引き締まり、視線は地図に据えられていた。眉がわずかに寄せられている。分厚い指が地図の上をゆっくりと動き、西の区域を押さえた。
「状況を説明してくれ、リルビュル。」
ガルドンの声が室内に満ちた。普段より低い声だった。重みが込められていた。言葉の末尾がわずかに揺れたが、彼はそれを押し殺した。
円卓の周りには十二の椅子が並んでいた。そのうち八つに、ダウィとムワの軍長 たちが座っていた。あるダウィの軍長は腕を組み、地図を睨んでいた。茶色い毛が緊張で逆立っていた。耳がかすかに震えた。
別のダウィの軍長は両手を卓の上に置いていた。指が卓をとんとんと叩いていた。あるムワの軍長は翼を体に固く引き寄せ、顔を伏せていた。羽毛が緊張でふくらんでいた。別のムワの軍長は嘴を開いては閉じ、また開いては閉じた。全員の目に、重い光があった。
リルビュルが席を立った。灰色の羽毛を持つムワで、嘴の周りには白い羽が混じっていた。卓の端まで歩み寄り、地図の前に立つと、一度翼を広げてすぐに畳んだ。そして視線を落とし、地図の上をゆっくりと辿った。
翼の先端がゆっくりと持ち上がり、虚空 へと向いた。翼の先端から青い光が淡く揺らぎ始めた。
リルビュルの翼が動くと、地図の上の村が記された地点ごとに、小石ほどの小さな炎のような光の形が浮かび上がった。淡い白光の形が地図の上から柔らかく立ち上がり、空中に漂いながら、魔石灯の光と混ざり合って室内を一層明るく照らした。
「オークとミノタウルの軍勢が、ナウラート川の星の側(北側)と地の側(南側)の村々を焼き払いながら、ダムへと向かってきております。」
リルビュルの声は落ち着いていた。しかしその奥底に、緊張がきつく巻きついていた。言葉を続けながら、具現化した手の指で地図の西側を指した。
あるダウィの軍長が席を立ち、前へと身を乗り出した。椅子が後ろに押され、床を削る音がした。
「いつもの小規模な略奪とは違う、ということか?」
その声は粗かった。
別のダウィの軍長が続けた。
「大軍勢と聞いたが。間違いないか?」
リルビュルはゆっくりと頷いた。
「はい。これまで我らが相手にしてきた規模とは、まるで異なります。」
しばし言葉を止め、深く息を吸ってから、ガルドンを見た。
「各村から飛んで参ったムワたちが、直接目撃しております。」
その声がひと声低くなった。
「彼らは、森がオークで覆い尽くされたと言いました。木々の間、暗い森の奥、丘の上、谷の底……どこを見渡してもオークだったと。」
リルビュルの翼が再び動いた。翼の先端が地図の西側をゆっくりとなぞった。青い光が、その動きを追うように流れた。
「果てしなく続く群れだったと言います。あるムワはサアルンの森の上空を飛びながらオークとミノタウルを目撃したと言いました。森全体が動いているように見えたと。木々の間から見えるのは、オークの灰色の皮膚と黒い鎧ばかりだったと。」
室内が静まり返った。誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
「数えることも叶わぬほど、果てしなく押し寄せてくる軍勢だったと。」
リルビュルが付け加えた。
「あるムワは低空を飛びながら、彼らの咆哮 を聞いたと言います。その後、地が揺れたと。幾千、幾万もの足音が重なり合い、まるで雷のように聞こえたと。」
あるムワの軍長が翼を羽ばたかせた。羽毛がざわめく音がした。
「その規模ならば……」
言葉が途切れた。
リルビュルは首を振った。
「これほどの数が、これほど深く陽の側(東側)へ、ダムをめがけて攻め込んできたことは、これまで一度もありませんでした。」
彼の翼が再び動いた。地図の最も西の端、月の側の果てにある小さな光の形を指した。形がひと際明るく輝いたかと思うと、リルビュルの翼が下へと落ちていくにつれ、光は薄れていった。形はゆっくりと消えていった。まるで蝋燭の炎が消えるように、光が散り散りになって消えた。
「月の側(西側)の果て、ウダバを皮切りに……」
リルビュルが具現化した光の指先が上へと移動した。次の形を指した。その形も同じように薄れ、消えた。
「ウィロウィ村……」
三つ目の形が消えた。光が空中で散った。
「ファルバ……」
四つ目の形。消えた。
「ドウィナ……」
リルビュルの声がさらに低くなった。その目がガルドンをまっすぐに見据えた。
「これらすべての村が、焼かれるか放棄されました。今もオークとミノタウルの軍勢は止まることなく、ダムへと進軍し続けています。」
ガルドンの拳が卓を打ちつけた。ドン! 室内に重い音が響き渡った。卓が揺れた。地図を押さえていた小石が跳ね上がった。魔石灯の光が揺れた。
「月影の城塞からも、知らせはあったか?」
ガルドンの声が弾けた。その中にわずかな震えがあった。顎に力を込め、顔の筋肉が固く張り、眉間がさらに深く刻まれた。続いて大きく息を吸い込むと胸が膨らみ、しばらくしてゆっくりと吐き出した。
月影の城塞。彼の息子ダルンが守備隊長を務める場所。兵の数は多くない。
西のバッドランドのオークとミノタウルを監視するための小さな城塞。ガルドンは言葉にしがたい不安を感じた。だが、それを表には出せなかった。大軍長が動揺すれば、皆が揺れる。
リルビュルはゆっくりと頷いた。
「ええ、月影の城塞からもムワの兵士が飛んで参りました。」
彼はしばし言葉を止め、ガルドンの顔を窺った。
「ミノタウルの群れが城塞を攻撃したと言います。しかしダルン守備隊長と兵士たちがこれを撃退しました。」
ガルドンの目にわずかな光が戻った。肩に入っていた力が少しほぐれた。
「しかし……」
リルビュルが続けた。
「追加の兵力が後続すると見込まれるため、ダルン守備隊長は城塞を捨て、陽の側(東側)近隣の村の住民たちを率いてダムへと戻ってきています。ムワの兵士が一羽、ダルン守備隊長の命を受け、この知らせを伝えるべく飛んで参りました。」
ガルドンはゆっくりと息を吐いた。目が閉じ、また開いた。両手を卓につき、指先で卓の表面を押し込んだ。その力に木がギシリと鳴った。彼は再び頭を上げ、肩を広げて背筋を伸ばした。
『よし。ダルンは無事だな。』
その心は再び落ち着きを取り戻した。彼は地図を見下ろしながら、指で月影の城塞の位置を押さえた。
「オークとミノタウルの正確な規模が分からぬ以上、まずその数をしっかりと把握しなければならぬ。」
ガルドンは顔を上げ、軍長たちを見渡した。
「誰が斥候隊 を率いて出ることができるか?」
円卓の一方に座っていたムワが動いた。翼を大きく広げると、黒と茶色の羽毛が魔石灯 の光にきらめいた。翼が一度力強く打ち下ろされると風が起き、卓の上の地図の端がはためいた。彼は空中へと舞い上がり、円卓の中央へと飛んでいき、鉤爪を卓の表面に近づけた。トン、トン。鋭い鉤爪が木を引っ掻いた。彼は卓の上に降り立った。地図のすぐ脇だった。
その目が細くなり、ガルドンを見た。濃い金色の瞳が魔石灯の光を受けてぎらりと輝いた。
「その斥候であれば、このサルマが直々に参りましょう。ガルドン大軍長。」
サルマの声は滑らかに、はっきりと室内に響き渡った。そして彼の鉤爪が再び卓を引っ掻いた。
魔石灯が揺れ、ほのかな光を流した。その薄暗がりの中で、ガルドンはサルマを見つめた。二人の視線が空中でぶつかった。ガルドンの目には重みが、サルマの目には鋭さがあった。
評議会室の中が静まり返った。
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