187話 ウダバ村 (1)
ナウラート川の南、サアルンの森の縁に佇む ウダバ村に、初冬の冷気がしんと降り積もっていた。川から吹き込む冷たい風が村をかすめるたびに、枝先に残った枯れ葉がかさかさと音を立てて舞い散った。
村の中央にある広い広場では、ダウィの子どもたちが笑い声を上げながら駆け回り、その上をムワたちが低く飛びながら、まだ落ちずにいた枯れ葉をつついて屋根の上へと吹き散らしていた。
村の北端にある鍛冶場から、槌 の音が鳴り響いていた。ダウィの鍛冶師が熱した鉄を打つたびに火花が散り、その傍らではムワの助手が顕現 させた手でふいごを引いていた。青みがかった半透明の手が一定のリズムでふいごを動かすと、炉の炎がいっそう赤く燃え上がった。
村の広場の東、パン屋の作業場から、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
窓越しに見えるダウィのパン屋が、大きな手で生地をこねていた。その肩の上に乗ったムワが、顕現させた手で小麦粉を振りかけていた。
パン屋の前を通りかかったダウィが鼻をひくひくさせて足を止め、ポケットから銅貨を何枚か取り出して数え始めた。
村の東の端、砂利の敷かれた土道の上に、三つの影が長く伸びていた。
灰色の毛を持つダウィのバルドが、重厚な足取りで先頭を歩いていた。普通のダウィより大柄 な彼の歩みに合わせて、肩の荷が軽く揺れた。
バルドが足を進めるたびに吐き出す息が、冬の空気と交じり合って白く立ち上る。
バルドの隣を、赤い毛のダウィのドブルが歩いていた。
ドブルの赤い毛は、ヌルデの紅葉のように深い色合いで、革製のベストを身に着けていた。
背負った大きな鞄が歩みに合わせて左右に揺れ、鞄の脇には鋭く研いだ銛 が革紐でしっかりと括りつけて あった。
ドブルの左肩の上には、白地に茶色の斑点が散った羽を持つムワのフワルが乗り、大きな目を瞬かせ ながら周囲を見回していた。
「今日は枝をたんまり切り出さないとな。今年の冬は去年より寒くなりそうだから」
バルドは足を止めることなく歩きながら言い、踏みしめるたびに砂利がじゃりじゃりと小さな音を立てた。
フワルは小さな爪でドブルの肩をそっとつかんでバランスを取ると、翼を大きく一度羽ばたかせた。そのままふわりと飛び上がり、バルドの右肩へと降り立った。
「でも、森の守り番のアオルンたちが怒らない程度にしないと」
フワルが嘴 を動かすたびに、小さな白い息が漏れた。バルドの肩の上で翼を畳み、身を縮めていたフワルが首を巡らせてドブルを見た。
「わかってるって、フワル。いつだって適度にしか取らないんだから」
ドブルが右手で背負い鞄の紐を直しながら言った。
革紐が肩に食い込むと、ドブルは指を紐の下に差し込んで隙間を作った。鞄の脇に括りつけた銛が、歩みに合わせて上下に揺れた。
「キノコと木の実も採ってこよう。冬の間に食べるものは多いほどいいから。特にキノコは干しておけば長持ちするし」
ドブルが話し終えると、フワルが再び翼を広げて宙へと飛び上がった。二回旋回すると、今度はドブルの頭の上に降り立った。
小さな爪がドブルの赤い頭の毛をそっとつかみ、ドブルは頭の上の重みを感じながら少しだけ頭を少し下げた。
「あ、そうだ。もうすぐドゥク=ドゥク・ピオラノ祭りじゃない?川の方に行くことになったら、高く飛び上がってカヌーク鮭たちが来てるか見てみようか?ちょうどこの時期に来る頃じゃない?」
フワルが頭の上から弾んだ声で言うと、ドブルが顔を上げて見ようとしたが、フワルが頭の上にいるせいでうまく見えなかった。代わりにドブルは手を伸ばして鞄の脇の銛をとんとんと叩いた。
「ナマズも獲ろう。ナマズの焼き物にキノコ炒めがあれば、それなりにいい夕飯になりそうだ」
ドブルが銛を指さしてバルドとフワルに見せた。銛の柄は丈夫なトネリコで作られており、先端には三股に分かれた鋭い鉄がついていた。
「これ見て。ナマズと鰻 も獲れる銛だよ。昨晩一晩かけて刃を研いで手入れしたんだ。これなら滑りやすい鰻も逃がさないはず」
バルドが足を止め、振り向いて銛を確かめた。しばらく大きな手で顎を撫でると、すぐにまた前を向いて歩き始めた。
「鰻は夜に獲る方がよくないか?昼間は泥の中に隠れてるだろうし」
「日が暮れかけの頃で十分だよ。あの時間帯が一番活発に動くんだから」
ドブルが説明する間に、村の小さな家々が一軒また一軒と後ろへ遠ざかっていった。路端で遊んでいたダウィの子どもが手を振って挨拶し、バルドが大きな手を上げて応えた。
「フッフ……。冬が深まると鰻はしばらく食べられないから、その前にたっぷり楽しんでおきたいんだよな」
「そうだな。また食べようと思ったら春近くになってからだもんな」
フワルがドブルの頭から飛び上がり、何度か羽ばたいてバルドの肩に降り立った。翼を羽ばたかせてバランスを取る間に、いくつかの羽根が風に舞い上がり、ゆっくりと地へ落ちた。
「あ、そういえば聞いた?ダムの金持ちムワたちはウサギ十匹に引かせた馬車に乗って移動してるって」
フワルが物珍しそうに声を弾ませて言った。ドブルがくすりと笑いながら手を払った。
「ダウィを引かせようと思ったらウサギが百匹は必要だな。いや、もっとか?」
「じゃあムールムック一頭?」
バルドが付け加えると、三人は一斉に笑い出した。ドブルの笑い声が一番大きく響き、フワルは嘴を開けてくるくると鳴いた。
笑い声が収まる頃には、村の最後の家が一行の視界から完全に消えていた。
前方には、サアルンの森の巨大な木々が立ち並んでいた。針葉樹の尖った梢 が空を突き刺すように高くそびえ、木々の間に見える陰がいっそう濃くなっていた。
フワルが首を伸ばして森の方を眺めてから、翼を一度大きく畳んでまた広げ、尋ねた。
「今度の祭りが開かれるダムに行く?カヌーク鮭獲りを見物して、焼き鮭も食べて……」
ドブルが深くため息をついて首を横に振った。肩がしょんぼりと落ちた。
「遠すぎるよ。ここからダムまで行ったら何日もかかるし。それに冬にそんな遠い道のりを……」
「冬越しの準備で忙しいし。もうすぐ雪も降るだろうから」
バルドが腕を大きく振って歩みを速めた。
「祭りは祭り、俺たちは生き延びないとな。薪も集めて、食料も蓄えて……。今年の冬はやけに長くなりそうな気がする」
フワルが翼を体にぴったりとつけながら、残念そうにぼそりと呟いた。声が小さくて、かろうじて聞こえた。
「カヌーク鮭の焼いたの、一度食べてみたいんだけどな……。香辛料たっぷりかけて焼いたやつ……」
「俺も食べたいよ。でも、しょうがないじゃないか」
ドブルが慰めるように言った。三人の足が村の境界を越えた。村と森を分ける古い木の道標 が斜めに傾いて立っており、サアルンの森の入口からは冷たい風が吹き込んで枝同士がぶつかり合い、音を立てた。森の奥へと続く細い道が、くねくねと伸びていた。
*****
森の中の空き地、平らな岩の傍らにバルドの荷が置かれていた。
中には乾いた枝がきっちりと積み重なっていた。太い枝と細い枝が適度に混じり合い、一部は皮が剥がれて淡い木目が露わになっていた。
荷の脇に置かれた革袋は口が開いており、中にはふっくらした茶色いキノコがいくつか見えた。傘の上には白い斑点がぽつぽつと散り、軸はずんぐりとした形のキノコだった。袋の中からは土の匂いとキノコ特有の香りが入り混じって漂っていた。
ドブルの肩に乗ったフワルが左の翼を持ち上げた。顕現させたマナの手が空中に現れた。青みを帯びた半透明の手がゆっくりと開くと、遠くにあるナラの木の根元を指し示した。巨大なナラの木の根の部分には苔 が厚く茂り、その隙間からキノコが何本か頭を覗かせていた。
「ドブル、あそこ。あの木の根元の脇にもキノコがあるよ。結構大きいね」
ドブルが頷き、フワルの手が示す場所へ歩いていった。足元の枯れ葉がかさかさと鳴り、乾いた枝が折れる音がした。
ドブルが膝をついて、キノコを丁寧に引き抜き始めた。土のついたキノコの軸を手で払い落とした。
「これで足りるかな?もっと探した方がいい?」
フワルが首を傾げてしばし考えてから答えた。
「もう少し集められると嬉しいけど、一旦これくらいで大丈夫だと思う。でもドブル、少し休んでから暗くなりすぎる前に川の方へそろそろ行こう」
ドブルがキノコを袋に入れながら立ち上がった。膝についた土を払って、腰を伸ばしながら背筋を反らせた。
「そうだな。でも、もう少し日が傾かないと鰻がうまく獲れないんじゃないか?」
フワルが羽繕い しながら翼を畳んで広げながら言った。
「そうかもしれないけど。鰻は暗いのが好きだから。でも……」
「まあ、これ以上寒くなったら次の春が来るまで獲りにくくなるか。今のうちに獲っておかないと。いっぱい食べておきたいし」
ドブルが手の甲で額の汗を拭いながら言った。冬であるにもかかわらず、動き続けて仕事をしていたせいで体から熱気が立ち上っていた。赤い毛が汗で濡れて、いっそう濃い色に見えた。
ちょうどその時、空き地の北側の茂みが大きく揺れた。小さな鳥が一羽、驚いてぱっと飛び立ち、やがて茂みをかき分けてバルドが現れた。
両腕には一抱えの乾いた枝が抱えられていた。太いものと細いものが均等に混じっており、一部には松脂 がついてべたついていた。皮が剥がれた部分は白く露わになっており、いくつかの枝にはまだ乾き切っていない苔が付いていた。
「木はこれくらいあれば十分そうだけど、どう思う?」
バルドが尋ねるとドブルが頷いた。
「十分じゃないか。あとは括るだけだな」
バルドは膝を曲げ、枝を慎重に荷の上に重ねた。まず太い枝を下に配置し、その上へ徐々に細い枝を積み上げた。枝同士が互い違いになるよう積み重ね、スペースを最大限に使った。
枝の整理を終えると、腰に着けた革紐を解き、荷をしっかりと縛り始めた。結び目を作るたびにバルドの太い指が手際よく動き、紐がぴんと張った。
作業を終えたバルドが立ち上がり、腰をとんとんと叩いた。ドブルが革のベストの内側のポケットに手を入れると、大きな干し肉を取り出した。ダウィの手のひらよりも大きかった。濃い茶色の干し肉の表面には油が滲み出て おり、胡椒 と塩がたっぷりとまぶされていた。
―ぐいっ―
ドブルが干し肉を一度引き裂いた。固い干し肉が裂ける音が、静かな森の中に響いた。
―ぐっ―
もう一度引き裂いた。裂けた一切れを持ち上げ、フワルに差し出した。
「フワル、受け取って」
フワルが顕現させたマナの手で干し肉を受け取った。青い光の手が干し肉を掴み、フワルの嘴の近くへと運んだ。フワルが嘴で干し肉をついばみ始めた。
「バルド、お前も」
ドブルがポケットからもう一枚干し肉を取り出した。今度のものは少し厚めで、香辛料がより多くまぶされていた。
バルドは干し肉を受け取り、大きくかじった。歯が干し肉を引き裂く音が短く響いた。
「う〜む!これ誰が作ったんだ?なかなかうまいな」
バルドが尋ねると、ドブルがにっと笑って答えた。
「うちのお袋が作ったんだよ。特別な調味料を使うんだ」
三人は倒木を探して並んで腰を下ろした。木は苔に覆われていたが、座るには十分なほど硬かった。ドブルが干し肉を噛みながら遠い空を見上げた。雲の隙間から日差しが斜めに差し込んでおり、もうすぐ日が落ちそうだった。
「ダムに行きたいなぁ……」
ドブルが長くため息をつきながら呟いた。フワルも翼をだらりと垂らしながら同調した。羽根が力なく下を向いていた。
「行けるものなら……。祭りを見物して、おいしいものを食べて……」
バルドが干し肉を飲み込んでから顎を撫でた。毛についたかけらを払い落とし、口を開いた。
「キノコでもたんまり採ってダムに行ってみるか?鮭と合いそうなものだけ、どっさり採ってさ」
「お、それいいな?」
ドブルが目を輝かせて立ち上がった。革袋を持ち上げて重さを確かめてみた。
「今採ったものだけじゃ足りないな。もっとないと。あと二袋か三袋は満杯にしないと売り物になる量にならない」
「なら俺が上から探してみる」
フワルが翼を広げながら立ち上がった。小さな足で木を蹴って飛び上がると、翼が空気を切って羽ばたいた。
「キノコ、どこにたくさんあるかな!」
フワルがドブルの頭上へと高く飛び始めた。最初は低く飛んでいたが、少しずつ高度を上げていった。
高く上がりながら、森全体を見下ろそうとした瞬間だった。遠くにナウラート川の銀色の流れが見え始め、フワルが翼を大きく広げて旋回しようとしたその時。
―ごすっ!―
鈍い音が森の静寂を破った。石ころが一つ、正確にフワルの脇腹を直撃した。衝撃でフワルの体が空中でくるりと回った。翼が好き勝手に羽ばたいたが、バランスを取れなかった。
「ひゃあっ!」
フワルの悲鳴が響き渡った。そのまま地面へと落下し始めた。翼が力なく広がったまま風を切って落ちた。
枝々がフワルの落ちる体を掠めながら過ぎ、やがて落ち葉が厚く積もった地面に、どさっという音とともに落ちた。フワルの体が落ち葉の中に埋もれ、片方の翼が折れた格好で広がっていた。
「フワル!」
ドブルとバルドが同時に叫び、倒れたフワルへと駆け寄った。
ドブルがフワルに近づいて膝をついた。折れた翼と震える息遣い、開いた嘴の間から漏れる荒い呼吸を見つめながら、彼はフワルの状態をそっと確かめた。
「誰がこんなことを……」
その時、遠くから嗄れた 声が聞こえた。
「Oghk! Kaa!」
荒い息遣いとともに、茂みの向こうで何かが動く気配がした。
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