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183話 乾きの地より来たる侵略者 (8)

死によって完成する呪術(じゅじゅつ) だった。


木の仮面をつけた存在は、はじめからその死を対価として、強力な呪術をミノタウルの指揮官へと刻み込んでいたのだ。


ミノタウルの指揮官の姿が、変わりつつあった。


肩と腕は以前より遥かに太くなり、背筋には盛り上がった血管が生き物のように浮き出していた。暗い赤の紋様が皮膚に鮮明に刻まれ、呪術の痕跡をあらわにしていた。


眼は血管が弾けそうなほどに充血し、息遣いは荒く、口からは熱い白い息が噴き出されていた。


踏み出すたびに固い地面が大きく抉(えぐ) れ、弾き飛ばされた石の破片が四方へと飛び散った


指揮官の全身から、制御しきれない力が絶えず漏れ出していた。


「こ、これは……」


ティルエルダが驚愕(きょうがく) して後ずさった。指揮官から放たれる気配が、以前とはまるで違っていた。


ミノタウルの指揮官が斧を手に、ダルンへと突進した。動きは目に見えて速くなっており、巨大な蹄が地を蹴るたびに、重く鈍い衝撃音が響いた。


指揮官は荒い息を吐きながらダルンを追い続けたが、深まる一方の森の闇の中で、ダルンの影はいつしか姿を消していた。


しばらく追い続けた指揮官は、やがて足を止め、長く息を吐いた。


「Pepheugen... Dávīskos!(ダウィの野郎が……逃げたか!)」


怒りに満ちた眼で森の奥を睨みつけながら、鼻先から荒い息を吐き出していた指揮官は、地面を一度強く踏みしだいてから、ゆっくりと身を翻し、再び歩き出した。




*****



森の奥深く、濃い闇が降りたその場所には、今やティルエルダとヒヤルコだけが残されていた。


ダルンはミノタウルの指揮官をさらに奥へと誘い込んで姿を消し、残る一団との戦いは、しばしの間、ふたりに委ねられた形となっていた。


次々と押し寄せるミノタウルたちとの戦闘は続き、茂みを搔き分けて現れる彼らの蹄の音は、ますます荒々しくなっていた。


ヒヤルコの氷の刃は、絶え間なく迫るミノタウルたちを斬り裂き続けた。鋭い氷の軌跡が夜の空気の中に蒼(あお) い弧を描き、一撃を受けたミノタウルたちが凍りついた傷を抱えて次々と崩れ落ちた。


だがその数が、あまりにも多かった。


休む間もなく押し寄せてくるミノタウルとの戦いの中で、ヒヤルコの力は少しずつ限界を見せ始めていた。


氷で形成された|剣身《けんしん には、小さな亀裂が生じ始め、鋭かった刃先の端から先に欠けていった。


砕けた破片が地面に落ちて砕け、散った氷の粉が空中にかすかに舞い上がった。


ヒヤルコを構成していた透明な氷の表面は次第に曇り、刃の縁からは氷の砕ける音とともに破片がひとつずつこぼれ落ち、その形は目に見えて崩れていった。


「ヒヤルコ様! もうこれ以上は無理です!」


ティルエルダが焦りを滲(にじ) ませて叫んだ。


精霊との契約を通じてティルエルダに伝わる感覚は、明確だった。ヒヤルコの形を保っていた力が、失われようとしていた。


「……そうだな、ティルエルダ。お前が危なくなったときのために、力を残しておかないとな」


ヒヤルコが、力なく響いた。


ヒヤルコの剣身がひときわ深く光を放ったかと思うと、同時に氷の剣の形が崩れ落ち始めた。まず剣先が砕けるように散り、続いて剣身全体が割れ、砕け散った。ひとつひとつ剥がれ落ちた破片は、やがて周囲の空気の中で光を帯び始めた。


「さっきあの大将ウシを仕留め損ねたのは、ちょっと悔しいけどな……まあ、しょうがない」


ヒヤルコの意志がティルエルダへと伝わり、それとともにヒヤルコは自らの形を解いた。


砕けた破片は空中に舞い散りながら弧を描き、光を帯びたまま渦のように回転して、ひとつの蒼い球へと凝縮していった。


蒼い球体はティルエルダの胸の前でしばらく漂ってから、静かに彼女の体の中へと溶け込んでいった。


少しの間、呼吸を整えていたティルエルダは、やがて静かに目を開いた。


手に握った氷の剣が、徐々に蒼い気配に包まれ始めた。


剣身に沿って蒼い魔力が細く流れたかと思うと、刃全体が澄んだ光を帯び始めた。


霜のような気配が剣先から立ち昇り、周囲の空気を凍てつかせた。


ティルエルダは静かに呼吸を整えながら、指先に残った魔力をひとつひとつ集中させた。剣を握る手に力が込もり、刃の先端が正面の闇へと真っ直ぐ向けられた。


額には汗が滲んでいたが、その瞳は揺るぎなく前を見据えていた。わずかな震えも、ためらいもなかった。


彼女はゆっくりと一歩を踏み出した。


凍りついた草の葉の上に、彼女の影がしずかに落ちた。




*****


サアルンの森の戦いは続いていた。


闇の中での戦いは、ミノタウルたちにとっても決して有利ではなかった。その巨大な体は重く組まれた鉄の鎧で覆われ、手にはそれぞれ、幅広の戦斧から両刃の手斧、槍先のように尖った斧まで、さまざまな武器が握られていた。


だが森は、彼らの威容(いよう) を受け入れなかった。


分厚いミノタウルの鎧は伸び出した枝に引っかかり、不規則に突き出した木の根が、その足を絡め取った。


月明かりでさえ、高く伸びた木々の密な枝に遮られ、ミノタウルたちの眼前に広がる森は今や、影すら輪郭を失い、完全な闇に飲み込まれていった。


息を潜めた藪と蔓(つる) が足先にしつこく絡みつき、踏み出すたびに折れる枯れ枝の音さえ、ミノタウルたちの方向感覚を狂わせた。


その重さと武装が、ここでは逆に足枷(あしかせ) となっていた。


ダルンはこの状況を最大限に活かした。


身を隠すに足る大きな木の陰から現れてはミノタウルの足をハルバードで突いて倒し、すぐさま別の木の陰へと身を隠した。


倒れたミノタウルが起き上がろうともがく隙に、ダルンは別の方向から現れてその首へと刃を振り下ろした。


ティルエルダは身を低くしたまま、太い木の陰に隠れていた。


右手に持った氷の剣を掲げ、剣先に魔力を集中させた。


瞬間、剣身全体が蒼く瞬いて振動し、鋭い刃先から氷の矢がゆっくりと形を成して現れた。


鋭い氷の結晶が渦を巻いて集まり、硬い氷の矢として凝固した。


矢は音もなく闇を裂いて飛んでいった。


茂みの向こうで、ミノタウルのひとりが喉を押さえたまま崩れ落ちた。


ティルエルダはすぐさま剣を構え直し、二本目の矢を作り出した。


三本、四本。矢は次々と飛んでいき、敵を撃ち貫いた。


そのうちの一本が、ミノタウルの肩に深々と突き刺さった。


直後、短い「パキン」という音とともに矢が炸裂(さくれつ) し、氷の破片が四方へと飛び散った。


木の陰へと移ろうとしていたティルエルダは、突然近づいてくる足音を耳にした。


すぐそこまで迫ったミノタウルのひとりが、茂みを押し分けて姿を現した。


ティルエルダは迷わなかった。


向かってくるミノタウルへと身を翻し、氷の剣を荒々しく横に薙(な) ぎ払った。刃の先端がミノタウルの脇腹を裂いて深く食い込んだ。


血が凍りつきながら飛び散り、鎧を纏った重い体のミノタウルは短い息を喘がせたまま倒れた。


彼女は剣を引き抜きながら素早く構え直した。


剣身には薄く氷が張り付き、表面を霜が流れていた。


再び剣先に魔力を集中させると、蒼い光が刃を伝い、また一本の氷の矢が形を成した。


森の闇の中で、ミノタウルたちは次第に数を減らしていった。


その骸(むくろ) が森のあちこちに散らばっていた。木の陰から突然現れたダルンのハルバードをかわしきれなかったミノタウル、闇の中から飛んでくるティルエルダの氷の矢に倒されたミノタウルが、次々と増えていった。


部下たちの骸を目の当たりにした指揮官が、激しく怒った。闇の中で一方的に打たれ続けるわけにはいかなかった。

「Pýrthe to dásos! Phā́na pánta kýkloi!(森を燃やせ! 周囲をすべて照らせ!)」


指揮官の命令に従い、ミノタウルたちが松明を木に向けて投げ始めた。乾いた枝が瞬く間に燃え上がり、赤い炎が噴き出した。炎が木から木へと燃え広がり、森の闇を押し退けていった。


「Kai án panta pýrthe to dásos... sēlō tha se labō!(森をすべて燃やし尽くしてでも、捕まえてやる!)」


指揮官が口元を歪めながら叫んだ。


ミノタウルたちが森の至るところで次々と松明を投げ込むと、炎は瞬く間に広がった。葉が燃える、パチパチという音とともに煙が立ち昇った。

「いけません! この森を……森を燃やすなんて!」


ティルエルダは声を詰まらせて叫んだ。眼前で噴き上がる炎が、老木の幹を飲み込んでいく。濃い煙の向こうから、焦げた赤黒い木の皮が崩れる音が聞こえてきた。


指先が震えた。彼女は唇を噛んで手を振り上げた。


「冬の霜よ、冷たき息吹でこの火を飲み込め!」


ティルエルダの手から放たれた氷の息吹が炎の中へと食い込み、瞬く間にいくつもの火の層を消し飛ばした。


しかしティルエルダに息をつく暇はなかった。


一方で消えた火は、別の場所で新たに燃え広がった。風が運んだ火の粉が枯れた草に落ち、そこからまた炎が広がった。太い枝の上で炎が激しく燃え上がり、巨大なコナラの内皮がメリメリと音を立てて裂け、炎を抱え込んだ。


火は森の窪みという窪みに流れ込んだ。ひとつの炎が消えれば、また別の炎が甦った。ティルエルダの視界の端で、木が倒れる音が聞こえた。空が赤く揺らめき、煙が目の前を埋め尽くした。


炎はますます大きく燃え盛った。木々が燃えながら崩れ落ちる音が四方から聞こえてきた。煙が濃くなり、息がしにくくなった。飛び散る火の粉が作り出す赤い光が、森を赤く染め上げた。


森全体が明るく照らし出された。闇の中に潜んでいたダルンとティルエルダの姿が、あらわになった。


ミノタウルたちが一斉に彼らへと飛びかかった。


ダルンが炎の合間から飛び出し、ハルバードを大きく薙ぎ払った。だがその肩は重く落ちていた。息遣いがますます荒くなり、兜の内側に汗が流れ落ちた。その動きが、以前より鈍くなっていた。


「……切りがないな」


ダルンが大きく息を吐き出してから呟いた。その視界には、赤い炎の光に照らされたミノタウルたちの巨大な影が、絶えず揺れ動いていた。


ティルエルダは両手を伸ばして再び魔法を発動しようとした。指先が震えていた。つい先ほどまで手に握っていた氷の剣も、すでに消えてなくなっていた。


残ったマナでは、氷の剣を維持する力すら残っていなかった。ティルエルダの額を、小さな汗の粒が伝い落ちていた。


「もう……これ以上は、持ちません……」


ティルエルダが息を切らしながら、数歩後ずさった。


そんなティルエルダにダルンが短く声をかけた。


「ティルエルダ様! 少し下がっていてください!」


彼女が顔を上げた。


「火が広がるのを止めなければ。火は……私が、なんとかします」


そう言ってから、ティルエルダは木の残骸の間を縫うように方向を変え、炎が広がっている方へと身を向けた。


ちょうどそのとき、燃え盛る木々の間からミノタウルの指揮官が現れた。その赤い眼が炎の光に照らされ、いっそう鮮明に輝いていた。巨大な両刃の斧を肩に担いでゆっくりとダルンへと歩み寄ってきた。


「Nyn télos soi didōmi……(今、終わらせてやる……)」


指揮官の低く荒い声が、燃え盛る森に響き渡った。


ダルンがハルバードを両手でしっかりと握り、指揮官と向き合った。兜の下から鋭い眼光が煌めいた。疲弊してはいたが、その構えは依然として揺らがなかった。


燃え盛る森を背に、ふたりは互いを見据えて対峙(たいじ) した。周囲ではミノタウルたちが円を作って取り囲み、炎は燃え続けていた。赤い炎の光がふたりの武器に反射して、きらめいた。風が吹き、炎がさらに高く舞い上がった。炎の隙間から灰と煙が絡み合って舞い散っていた。


ミノタウルの指揮官が巨大な両刃の斧を頭上に振りかざし、ダルンへと突進した。その蹄(ひづめ) が燃える地面を蹴り上げると、舞い上がった土埃(つちぼこり) が赤い炎と入り混じって渦を巻いた。


斧の刃が空気を裂いてダルンの頭へと振り下ろされた。


ダルンがハルバードを頭上に横に掲げて受け止めた。


——ガキィン——


金属と金属がぶつかり合う音が、燃え盛る森に鳴り響いた。


衝撃でダルンの腕が下へと押し込まれた。指揮官の力が以前の数倍になっていた。


ダルンは口の中でギリリと音がするほど顎を噛み締め、ハルバードを押し上げた。


「ぐうっ……!」


その後、ダルンが一歩後ろへと引きながらハルバードを横へ払い、同時にミノタウルの指揮官が反対側の刃でダルンの脇腹へと振るった。


ダルンが体を後ろへ反らせた瞬間、斧の刃が彼の鎧の前面をかすめるように通り過ぎた。金属が削れるような鋭い音とともに、鎧の表面に深く傷が刻まれた 。


指揮官が再び両手で斧を握り直して真上から振り下ろすと、ダルンはハルバードを斜めに掲げてその一撃を受け止めた。


斧の刃がハルバードの刃と穂先の間に食い込み、短い火花が散った。


互いの武器が噛み合ったまま、ふたりは対峙した。


ミノタウルの指揮官の前腕がぴんと張り、黒い血管が浮き出した。


ダルンの足先が土の上でずるりと滑った。


ダルンは片膝が折れかけるのを強引に踏ん張り、肘が後ろへ曲がりそうな圧力をこらえた。


巨大な斧をなんとか受け止めるダルンの鼻先に、ミノタウルの指揮官の熱く荒い息が吹きかかった。


「くっ……」


ダルンは短く息を吐きながら耐えた。兜の内側を汗が伝い落ちた。


ダルンのハルバードを押し潰すミノタウルの指揮官の力が、ますます強まっていった。


「はあ……はあ……はあ……」


ダルンが吐き出す熱い息が、冷たい空気と混じり合って白い靄となって立ち昇った。


「Krrrraaaaa!」


ミノタウルの指揮官の喉の奥から響いてくる低く長い唸りが、空気を重くした。


ダルンはさらに力を込めてハルバードを押し上げ、指揮官の斧が少しずつ上へと押し返された。その瞬間を逃さず、素早くハルバードを引き抜いて指揮官の胸へと突き込んだ。


穂先が指揮官の鉄の鎧に当たり、火花が散った。鎧に傷は残ったが貫通はせず、指揮官はその隙を見逃さずにダルンの肩へと斧を薙ぎ払った。


ダルンが体を横へ向けて間一髪で避けたが、斧の刃は肩の鎧をかすめて通り過ぎ、金属の破片を散らした。


ふたりは互いを睨みつけながら、しばし距離を置いて対峙した。炎の光を受けた指揮官の赤い眼がいっそう鮮明に輝き、その鼻からは熱い息が漏れていた。


「Tō̱ neō̱ kyríō mou, dṓron dosō tēn kephalēn tou Dávī.(我が新たなる主に、ダウィの首を贈ろう。)」


指揮官が低く荒い声で言った。その声に混じる緑の気配が、空気を濁らせた。


ミノタウルの指揮官が巨大な両刃の斧を片手で持ち上げ、頭上に振りかざした。


「Tēthane! Dávī!(死ね! ダウィ!)」


ミノタウルの指揮官が叫びながら斧を振りかざし、ダルンの頭上へと振り下ろした。斧の刃が空気を裂き、まっすぐ落ちてきた。


ダルンがハルバードの穂先を持ち上げ、指揮官の顎の下へと突き出した。


斧の刃がダルンの頭に届く、その寸前だった。


その瞬間、ハルバードの穂先もまた、ミノタウルの指揮官の首へとほぼ届いていた。


そのときだった。


「フルルルルルルルルルルム……」


森の奥深くから、深く響きのある声が聞こえてきた。


その声は大地の下から湧き上がるように、低く重かった。戦場のすべての音を圧倒し、空気を震わせた。


巨大な響きに、森のミノタウルたちがすべて動きを止めた。


指揮官の斧が、ダルンの頭のすぐ上で止まった。ダルンの穂先もまた、指揮官の顎の下でそのまま止まった。


迫っていたミノタウルたちも皆、足を止めて、その声の聞こえた方角へと目を向けた。


「フルルルルルルルルルルム……」


その声が再び、森全体を揺さぶった。燃え盛る木々でさえ、その振動に揺れた。


指揮官の赤い眼が、声の聞こえた方角へと向いた。


すべてが静止したまま、彼らは森の奥深くから響き渡るその巨大な唸りを聞いていた。

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