180話 乾きの地より来たる侵略者 (5)
数十枚の氷の刃が、ミノタウルたちへと鋭い軌跡を描きながら突き進んだ。ヒヤルコはなおも空中に浮かんだまま、ひとりで無数のミノタウルたちと対峙 し続けていた。
そのときだった。
ガチャリ、カチャリ。
鋭く研ぎ澄まされた金属装備の音が、闇の中からじわじわと近づいてくる。
ダルンとティルエルダが、ミノタウルたちの野営地 へと向かって駆けてきたのだ。
ダルンの足が硬い土の地面を踏みしめるたびに、小石がはね上がった。
肩に担いだハルバードが、足の運びに合わせて左右に揺れている。
駆けながらも、ダルンの双眸 はすでに自分のハルバードが向かうべき標的を正確に捉えていた――野営地の外縁で斧を手に立つ、一体のミノタウルだ。
そのミノタウルがダルンの接近に気づいたのは、遅すぎた。篝火 の影に隠れていたダルンの姿が突然、炎の光の中へと現れた瞬間、ミノタウルの目が大きく見開かれた。反射的に両手斧を頭上へと振り上げ、振り下ろそうとした。
だがダルンは、すでにその動きを読んでいた。上体を前へと倒し、重心を低く落とす。斧の刃が頭上をひゅっと唸りながら過ぎ去るその瞬間、ダルンのハルバードはすでに大きな弧を描いて薙ぎ払われていた。
「Uwaaaak!」
ハルバードの鋭い刃がミノタウルの左脇腹へと食い込んだ。肉と筋肉が裂け、熱い血しぶきが噴き出した。
ミノタウルは巨大な樹木が倒れるように横へと崩れ落ち、手放した斧が地面に落ちてガシャリと音を立てた。
ダルンは倒れたミノタウルを振り返りもしなかった。すでに脚は次のミノタウルへと向かっており、ハルバードは次の一撃のために構えを整えていた。その息遣いは深く、乱れがなかった。戦いはまだ始まったばかりだ。
ティルエルダは、風が地を撫でるように、音もなく駆けてきた。長く流れる外套 だけが、その背後で波のようにたなびいていた。
その手には、マナの力で顕現 させた氷の剣が握られていた。
剣は透き通った氷で作られていながら、その内側では青い光が輝いていた。刃の周囲からは、小さな氷の結晶が絶えず生まれては消えを繰り返していた。
「氷河の息吹 よ、道を開きたまえ!」
駆けながら精霊の力を引き出す呪文を紡ぐと、ひんやりとした気配が全身を包み込んだ。たちまち彼女を中心として強烈な冷気が広がり、その冷たさは地面を伝うように素早く周囲へと滲みわたっていった。冷気は地を走り、野営地の足元をまたたく間に氷で覆い尽くした。
前方から突進してきたミノタウルが二体、その氷の上に足を踏み入れた。
重い体躯 と走る勢いのせいで、たちまち足が滑りだした。一体目のミノタウルは均衡を失い前のめりに倒れ込み、二体目は後方へとひっくり返って、背中から地面へと叩きつけられた。
「Wuuuuuooooo!」
倒れたミノタウルたちが慌てふためいて叫んだが、ティルエルダはすでにその上を飛び越えていた。空中で一回転し、手に握る氷の剣が月明かりを受けてきらめく。着地と同時に、彼女は野営地の中心へと向かって駆け抜けた。
「Págoi! Págoi pantachou!」(氷だ! 氷が至るところに!)
ミノタウルたちが恐怖に染まった声で叫んだ。何体かは氷の刃を躱そう と横へと転がったが、ティルエルダの剣はそれよりも速かった。氷の剣が掠めた 箇所には深い傷が刻まれ、その周囲へと冷気が広がり、傷口と血をそのまま凍りつかせた。
一体のミノタウルが胸に突き刺さった氷の破片を掴もうとした瞬間、破片は肉を裂きながらさらに深く食い込んでいった。断末魔 の叫びが上がり、その重い体が大きくよろめいて後退した。
ちょうどそのとき、ヒヤルコがそのミノタウルへと飛びかかった。精霊剣の切っ先 がミノタウルの肩へと深々と突き刺さり、ヒヤルコはそのまま剣身 をねじった。
―― ゴリゴリッ、メキメキッ ――
「カハハハハ! まだ足りねえぞ!」
ヒヤルコの響く声と共に、ミノタウルの体内に食い込んでいた氷の欠片が爆発した。最初に小さな亀裂音が走り、続いて轟音 が辺りに響き渡った。
ミノタウルの肩が粉砕され、氷の破片が四方へと飛び散った。破壊された肉体を伝うように冷気が波のように広がっていき、流れていた血さえもまたたく間に赤い氷へと固まった。
「Gaaaagh!」
ミノタウルは苦悶 の声を上げながら膝をついた。その目には、信じられないという表情が色濃く滲んでいた。肩全体が凍りついて動かせなくなり、冷気が喉元を這い上がってくる。
「Tí téchne estin?!」(これは何の魔法だ?!)
遠くで見ていた別のミノタウルが、恐怖に染まった声で叫んだ。両手で巨大な両刃の斧を握りしめたまま、ヒヤルコへと突進してくる。踏み込む足が大地を鳴らし、斧の刃が空中に閃いた。
しかしヒヤルコは、その突進を見てむしろ喜んだ。その場でヒュルルルルンと唸りながら回転を始めた。
一回転、二回転――剣が回るたびに冷たい風が起こった。ミノタウルが斧を振り下ろそうとした刹那 、ヒヤルコはその斧を横へと弾いて、軌道をずらした。
斧はヒヤルコの傍ら を掠めるように過ぎ去り、地面を叩いた。その瞬間にはもう、ヒヤルコはミノタウルの反対側へと回り込んでいた。そのままミノタウルの脇腹を掠めながら走り抜ける。
「遅すぎんだよ! ミノタウル! そんなんじゃ俺を満足させられねえ!」
ヒヤルコの声には、明らかな失望が混じっていた。
刃の過ぎ去った跡から、氷が細蛇 のように伸びてミノタウルの体を這い上がっていった。ミノタウルの動きが少しずつ凝り固まっていく。最初に足首が固まり、次いで膝、そして腰へと氷が広がっていった。
ミノタウルは恐怖に引きつった顔で自らの体を見つめた。動こうとしたが、すでに下半身は完全に凍りついていた。口からは白い息が漏れ始めた。
ヒヤルコはそのミノタウルへと向けて短く唸り声を上げた。鋭く旋回しながら空気を切り裂くと、ミノタウルの首へと一直線に飛び込んだ。今度は剣身から長く鋭い氷の棘 が生え出し、それが喉を貫いた瞬間、再び冷気の爆発が周囲を覆い尽くした。
ミノタウルは声も出さずに地面へと崩れ落ちた。全身が氷に覆われ、もはや動くことはなかった。
ちょうどそのとき、野営地の向こうから角笛 の音が響き渡った。
Booooooooo! Booooooooo!
聞き慣れない角笛の音が、森を横切って鳴り渡った。太く重い振動が木の幹を伝って広がり、葉という葉がざわざわと震えた。森のあちこちで眠っていた鳥たちが驚いて羽ばたき、木の上へと散り散りに飛び去っていった。
ミノタウルたちは一瞬、動きを止めて耳をそばだてた。その表情には、畏怖 と服従の色が同時に浮かんでいた。まるで長い間待ち続けていた合図をついに聞いたかのように。
「Stratēgós!」(指揮官だ!)
「Stratēge!」(指揮官!)
その叫びは、一つの命令のように響いた。
凍りついたように止まっていたミノタウルたちが、一斉に動き出した。あちこちに散って戦っていたミノタウルたちが、何の合図もなしに方向を変える。
それぞれの場所から野営地の中央へと走り込み、蹄 が大地を蹴って重く響いた。
巨大な体躯たちが一つの塊のように動き始めると、周囲の空気までもが重く圧し潰されていくようだった。その目には、散り散りになった個々の混乱ではなく、誰かの呼びかけに応える明確な意志が宿っていた。
野営地の中心部に、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
その大きさは、普通のダウィの二倍はあろうかと思われた。
大きく広がる影が篝火の光の中へと踏み込んだとき、その正体が明らかになった。
ミノタウルの指揮官だった。
その身の丈はダルンよりも明らかに高く、重厚な肩と鎧の上に突き出た角が、踏み出す足と共に周囲に圧力を放っていた。
一歩を踏み出すたびに地面が低く唸り、その存在だけで空気が重く沈み込んだ。
まず目に飛び込んできたのは、巨大なミノタウルを包む黒い鉄の鎧だった。
それは、ただの防具ではなかった。無数の戦いの記憶を刻み込んだ鎧だった。胸当てには深くえぐれた斧傷があり、その周囲には金属がひしゃげた跡が残っていた。腹部には槍に刺されたような穴があり、金属板で継ぎ当てて修理されていたが、それでも痕跡は消えていなかった。
腕の部分には炎に焦がされた黒い染みがあちこちに散っていた。その染みはまるで地図の島々のように不規則に分布しており、それぞれが激しかった戦闘の一瞬を語っていた。肩の部分には鋸歯状 の傷跡があり、おそらく何らかの猛獣の爪痕に違いなかった。
頭には金属製の兜 が被せられていた。黒い鉄で作られた兜の表面には、複雑な紋様が刻まれていた。何よりも印象的なのは、兜の両脇に取り付けられた二本の巨大な角だった。猛獣の角を金属で覆ったかのようなそれは、先端が鋭く研ぎ澄まされた刃のように仕上げられていた。角の表面には螺旋状の溝が深く刻まれていた。
だが、本当に視線を引いたのは、別にあった。
ミノタウルの指揮官の左肩の上に、小さく奇妙な形をした何者かが腰を下ろしていたのだ。
背丈は2キュビト(約1メートル)にも満たないほど小さく、手足は短く干からびた皮のようにすっかり痩せ細っていた。
体はほとんど動かさず、固定した姿勢のまま正面を見据えていた。
その顔には、木を削って作った奇妙な仮面が被せられていた。黒い木で作られた仮面の表面には、刃物で引っ掻いたような紋様が絡み合っており、両目の穴からは赤い光がちらちらと瞬いていた。光は一定ではなく、明るくなったかと思えば弱まり、また明るくなるを繰り返していた。
その存在の手には、木の欠片を編んで作った奇妙な首飾りが握られていた。
小さな欠片一つ一つに文字が刻まれており、欠片が揺れるたびにカタカタという乾いた音が続いた。
均一でないその音は、一定の間隔で途切れることなく、絶えず聞こえ続けた。
「Ti symbainei edō?!」(ここで何が起きている?!)
指揮官の声が野営地全体へと広がった。太く深みのある声であり、その中には強い威圧感が込められていた。
右手には、ダルンのハルバードよりも大きな両刃の斧が握られていた。斧の柄 はその身の丈ほどの長さがあり、刃の表面には見知らぬ文字が荒々しく刻まれていた。
左手には、巨大な鉄の盾 が持たれていた。盾はほぼその体全体を覆えるほど大きく、中央には牛の頭を模した浮き彫りが刻まれていた。牛の目の部分には小さな赤い宝石が嵌め込まれており、火の光を受けると赤い輝きがはっと閃いた。
ちょうどそのとき、指揮官の肩の上に座っていた仮面の存在が動いた。首飾りから木の欠片を一つ慎重に外し、手のひらの上に乗せた。その木の欠片は、手のひらの上で小刻みに震えており、表面からは微細な緑色の光がじわじわと滲み出していた。
その存在は木の欠片をぎゅっと握りしめ、何とも聞き取れない言葉をぶつぶつと呟いた。その声は、風が木の葉の間を通り抜けるようだった。
「Krrr... ukash... mor'dan...」
その瞬間、木の欠片が手の中でがさりと音を立てて砕けた。砕けた破片が指の間からこぼれ落ち、それが地面に触れた途端に、跡形もなく消えてしまった。
冷たく沈み込んでいた野営地の空気の中に、不穏 な熱気が滲み込んできた。
ヒヤルコが凍らせて消し止めたはずの篝火が、一つ、また一つと再び燃え上がり始めたのだ。まず小さな火種が芽吹き、それがじわじわと大きくなったかと思うと、やがて赤い炎がごうごうと燃え盛った。完全に氷で覆われていた篝火さえも、氷を突き破って炎が噴き上がった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます




