179話 乾きの地より来たる侵略者 (4)
ダルンがブボアを見つめ、重い声で言った。
「ブボア、お前は城塞 へ戻れ」
ブボアの大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
「わかりました。お任せください、ダルン隊長」
ダルンがハルバードをしっかりと握りながら説明した。
「俺とティルエルダ様でミノタウルたちを城塞からできる限り遠くへ引きつける。奴らが俺たちを追って深い森の中へ入っていけば、城塞周辺の包囲が薄くなるはずだ。そして……」
ダルンはいったん言葉を止め、城塞の方向を見やった。城塞を取り囲む篝火が依然として赤く燃え盛り、その合間をミノタウルたちの影が絶え間なく動き続けていた。
城塞周辺から次々と響き渡るミノタウルたちの怒声 と武器を打ち鳴らす音が、風に乗って森の奥まではっきりと届いてきた。
「その隙を逃さず城門を開け。兵士たちに伝えろ。日の側(東側)へ、森を抜けてダムまで退け、とな。ミノタウルどもが俺を追っている間に抜け出すんだ」
ブボアは頷いたが、その表情から心配の色は消えなかった。小さな嘴 が震え、首元の白い羽毛が不安げに揺れていた。
「ですが隊長は……どうやって……」
「心配するな。俺は一人じゃない」
ダルンはティルエルダへと目を向けた。依然として彼女の右肩の後ろでヒヤルコがゆっくりと回転しながら、冷たい光を放っていた。
剣の周囲の空気が目に見えて冷たくなっていき、小さな氷の結晶が剣身 のまわりをくるくると漂っていた。
「ところで、ヒヤルコ様のおっしゃることを毎回ティルエルダ様に通訳していただくのも、ご負担ではないかと……」
ティルエルダが微笑みながら頷いた。
「ああ、それなら大丈夫ですよ」
彼女が手を上げてヒヤルコを指し示すと、ヒヤルコから柔らかな青い光が溢れ出した。その光が糸のように細く伸びて、ダルンの額へと触れた。光が触れた瞬間、ダルンの頭にちくりとした感覚が走り、まるで冷たい水が額を伝い流れるような感触があった。
「これで、ヒヤルコの言葉が直接聞こえるようになるはずです」
光がダルンの額に染み込んだとたん、突然、彼の頭の中に声が響き渡った。
「おお! ダルン隊長! 俺はヒヤルコだ! お前にも俺の声が届くようになったな!」
ダルンは驚いて目を見開いた。
ヒヤルコの声は想像していたよりずっと大きく、はっきりとしていた。語り口には力がみなぎっており、かつて思い描いていた精霊 の声とは異なっていたが、硬くも透き通るようなその響きは、ダルンの耳の奥にくっきりと刻み込まれた。
「こ、これは驚いた。精霊様のお声が聞こえるとは……」
ダルンが呟いた。精霊の声が自分の頭の中で直接響き渡るというのは、まだどこか慣れなかった。
「わたしも! わたしにもやってください! わたしも精霊様のお声を聞きたいです!」
ブボアが翼をはたはたとはばたかせながら近寄ってきた。その大きな瞳が期待に輝き、羽毛が興奮で逆立っていた。
ティルエルダは微笑みながら、ブボアにも同じ光を送った。光がブボアの小さな額に触れたとたん、彼もびくりと驚いて後ずさった。反射的に翼が広がり、バランスを取ろうとした。
「うわあ! 本当に聞こえます! こんにちは、ヒヤルコ様!」
ブボアが嬉しそうに挨拶した。その声には、子どものような無邪気さがにじんでいた。
「はっはっはっ! ムワはなかなか礼儀正しいな! 気に入ったぞ!」
ヒヤルコが喜びに満ちた声を上げ、いっそう速く回転した。剣から発せられる唸るような音がさらに大きくなり、周囲の木の葉が霜で白く染まり始めた。
「さて、もう時間がない」
ダルンはしばし口を閉じて息を整えると、低い声で言葉を絞り出した。目つきが鋭く細まり、顎に力がみなぎっていた。
「ブボア、さっさと城塞へ戻れ。兵士たちに俺の命令を伝えるんだ」
「はい、隊長!」
ブボアが翼を広げながら答えた。その翼は月明かりを受けて銀色に輝き、羽毛の一枚一枚が鮮やかに浮かび上がっていた。
「必ずご無事でお戻りください! 私はミノタウルたちの目が完全に引きつけられるまで、この木の上で待機しています!」
ブボアは別れの言葉を残すと、翼を広げて近くの高い木の上へと舞い上がった。彼は枝の上に身を低くしながら、城塞のほうを見張りつつ、息を殺してじっとしていた。緊張に羽毛が膨らんでおり、瞳は絶え間なく動き回り、ミノタウルたちの動きを追い続けた。
ダルンとティルエルダは静かに、ミノタウルたちの野営地 が見渡せる位置へと移動した。
森の縁から見下ろす野営地は、数十もの篝火 で煌々と照らし出されていた。ミノタウルたちが絶え間なく動き回り、何かの準備を進めていた。
一体のミノタウルは膝をついたまま、大きな砥石 に斧をゆっくりと擦りつけていた。削る音は短く低く途切れ、火明かりに照らされた刃は鈍く光りながら、じわじわと研がれていった。
「あちらを見てください」
ティルエルダが野営地の一角を指差しながら言った。
「奴ら、何か大がかりなものを作っているな」
ダルンが目を細めながら見やった。巨大な木の柱がめちゃくちゃな角度で組み立てられており、表面には樹皮も剥がされないまま、深々と刻まれた斧の跡がそのまま残っていた。
ミノタウルたちはそれらを太く荒い縄でぎゅうぎゅうと縛り上げていたが、結び目はいびつで粗雑なものだったものの、力任せに引っ張って固定されているのがわかった。
不規則に組まれた木材の骨組みのあちこちには鉄製の部品が無理やり打ち込まれており、なかにはねじれて鋭い端が外へと飛び出ているものもあった。
「攻城塔 のようですね」
「それと、あちらも……」
ダルンが別の方向を指差した。野営地の反対側では、また別の一群が巨大な投石機 を組み立てていた。
「本格的に城塞を攻める準備を進めているのか」
「では、手遅れになる前に始めなければ」
ティルエルダが唇をきっと結び、真っ直ぐにダルンを見据えながら言った。その双眸 は微塵 もぶれることなく、ダルンへと向けられていた。
「よっしゃ始めるぞ! ティルエルダ、でかいのを一発くれてやれ!」
ヒヤルコが興奮した声で唸った。
剣身から溢れ出す青い光が閃き、いっそう激しくなった。その瞬間、あたりを一気に冷やす気配が広がった。
ダルンの毛先に白い霜が結び始め、その息がたちまち白い靄 となって空気の中へ溶けていった。
ティルエルダの髪の数筋は冷気に晒されて凍りつき、光を受けて銀色に輝いていた。
ダルンは頷きながらティルエルダを見やった。胸の中には、重い責任感が静かに根を張っていた。この作戦が成功してこそ、月影の城塞の兵士たちは安全に退くことができる。失敗すれば、すべてが崩れ落ちる。
「では、よろしくお願いします、ティルエルダ様」
ティルエルダは深く息を吸い込んだ。ゆっくりと目を閉じ、少しの間、呼吸を整えた。そして再び目を開き、両手をゆっくりとミノタウルたちの野営地へと向けて伸ばした。
その指先から、淡い青い光が滲み出すように立ち上り、空気の中に小さな氷の結晶がきらきらと輝き始めた。
「氷の精霊たちよ、風の中に宿り、静寂の中から目覚めよ。五つの鋭き穂先を研ぎ澄ませ」
ティルエルダの声が、清澄ではっきりと響き渡った。
その言葉に応じるように、周囲の大気が変わり始めた。冷たい風が起こり、枯れ葉を舞い散らせ、木の枝に霜が結び始めた。
「霜花の翼よ、静かなる白の中に姿を現せ。そして、わが意の届く場所を貫け!」
詠唱 が終わった瞬間、ティルエルダの手の前に五本の巨大な氷の槍が姿を現した。
それぞれの槍はダルンの身長ほどの長さがあり、透き通った氷で作られた穂先は月明かりを受けて鋭く輝いた。槍の表面には複雑な霜が作り出した紋様が刻まれており、内側からは青い光が揺らめきながら動いていた。槍の周囲の空気が歪んで、静かな威圧感を醸し出していた。
ティルエルダの周りを漂っていたヒヤルコが向きを変え、ティルエルダの前へと出た。続けてひゅるるると音を立てながら回転し、五本の氷の槍の前で止まった。
「よし! ついてこい、氷の槍たちよ! 俺が道を開いてやる!」
ヒヤルコが喜びに溢れた声で叫んだ。剣身から噴き出す冷気が五本の槍を包み込んだ。槍の表面にいっそう複雑な氷の紋様が刻まれ、内部の青い光がさらに強烈になった。
「放て!」
ティルエルダが右手を前へと押し出すと、五本の氷の槍が一斉に野営地へと向かった。研ぎ澄まされた氷の切っ先が空気を切り裂いて突き進み、通り過ぎた軌跡には淡い霜色の線が長く尾を引いた。
すかさずヒヤルコが冷たい気流に乗って舞い上がった。氷の槍たちの間を縫うように素早く突き抜けると、たちまち先頭に立ち、ミノタウルたちの野営地へと向かって飛んでいった。
「あっはっはっはっはっはっはっ! 最初からいい感じだぞ! 頼むぞミノタウルども、このヒヤルコを失望させるなよ!」
ヒヤルコが笑いながら野営地へと突っ込んでいった。剣身から放たれる光がいっそう明るくなり、周囲の空気が急激に冷えていった。
最初の氷の槍が野営地の中央にある大きな篝火に直撃した。瞬間、轟音と共に氷の破片が四方へと飛び散った。篝火はたちまち消え、その周囲にいたミノタウル五体が鋭い氷の欠片を受けて悲鳴を上げながら倒れた。氷の破片が刺さった箇所からは冷気が滲み出し、傷口を凍らせていった。
「Tí estin toûto?!」(これは何だ?!)
一体のミノタウルが驚いて叫んだ。その巨大な手に氷の欠片が突き刺さり、周囲がじわじわと凍りついていった。
二本目と三本目の槍は連続して野営地に張り巡らされた天幕を貫通し、爆発した。革で作られた天幕が引き裂かれながら崩れ落ち、中にいたミノタウルたちが驚いて飛び出してきた。だが、そのうちの何体はすでに氷の破片を受けて倒れており、生き残ったミノタウルたちも全身が白い霜に覆われていた。
四本目の氷の槍は武器が山と積まれた場所へと真っ直ぐに落ちた。斧と槍が氷の破片に混じって、がしゃんがしゃんと金属音を響かせながら四方へと弾け飛んだ。
冷たい魔力の宿る氷が武器の山を直撃すると、木の柄は折れ砕け、斧の刃は凍りついたまま亀裂が入り、粉々に砕け散った。槍の穂先もまた折れ飛び、裂けた金属の破片が地面に散らばって冷気を発し続けた。割れた柄と砕けた刃の上に薄い霜が立ち上り、周囲の空気は歪むようにひっそりと揺れていた。
五本目の槍は野営地の端に立っていたミノタウルを貫いた。氷の槍の穂先がミノタウルの体へと深々と食い込み、ミノタウルは短く息を呑んだまま後ろへと倒れ込んだ。槍はその体を完全に貫いて地面へと突き刺さり、続く爆発と共に氷の破片が四方へと飛び散った。爆発の衝撃で体が弾き飛ばされ、腰が折れるようにして、その巨躯 が崩れるように横倒しになった。周囲の地面には氷と血が混じった破片が散乱し、その残骸 の周りには冷気が広がり霜が立ち上った。冷気を受けた草の葉は音もなく白く凍りつき、はらはらと砕けた。
その瞬間、野営地の真ん中から突然、風が起きた。
赤い炎を燃え盛らせていた最も大きな篝火の上へ、ヒヤルコが高く舞い上がった。剣身は素早く回転しながら数十もの氷の破片を引き寄せ、その登場と共に篝火は息を止めたかのように光を失い、「ぱきぱき」と音を立てながらそのまま凍りついた。
炎の消えた跡に、青黒い氷の光だけが残った。
野営地の中央の空気が凍りつき、ごきごきと氷の張る音が広がっていく中、ヒヤルコはその中心に浮かんでいた。冷たい光を纏った剣身は、まるで天から降り注いだ氷の星のように野営地の上を見下ろしていた。
「わっはっはっはっはっはっ! なんと完璧な舞台か!」
ヒヤルコが歓喜に満ちた声で叫んだ。
ヒヤルコの剣身が唸りながら回転すると、周囲の木の葉が氷のように砕けて宙へと舞い散った。
そして剣の周りに集まった氷の破片が小さな氷の刃へと変わり、周囲のミノタウルたちへと向かって飛んでいった。刃がミノタウルたちの腕と脚を切り裂いて通り過ぎると、斬られた傷口からたちまち氷が広がっていった。
「さあ、本格的に始めようか!」
ヒヤルコが空中でぐるぐると回りながら叫んだ。その剣身から強烈な冷気が噴き出し、周囲二十キュビト(約十メートル)の範囲が瞬く間に氷の世界へと変わった。地面が凍りつき、空気中の水分が氷の結晶となってきらきらと輝きながら降り注いだ。
「これこそが氷の精霊の力だ!」
ヒヤルコが大きく旋回しながら剣身を左右に振ると、周囲に漂っていた氷の結晶が一斉に刃へと変わり、四方へと飛び散った。数十もの氷の刃がミノタウルたちへと向かい、鋭い軌跡を描きながら突き進んでいった。
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