177話 乾きの地より来たる侵略者 (3)
ダルンとティルエルダが振り返ると、闇の中から小柄なムワが姿を現した。
梟 に似た大きな瞳が月明かりを受けて黄金色に輝き、茶色と灰色の羽毛に覆われた顔には、ありありと緊張の色が浮かんでいた。小さな嘴 が素早く開閉しながら息を整え、首元の白い羽毛が小刻みに震えていた。
「ブボア!」
ダルンが低い声で斥候兵 の名を呼んだ。その巨体から発せられる声は、意図的に抑えていても、なお重く響き渡った。
「ご無事で何よりです、隊長」
ブボアが安堵の息を吐きながら近づいてきた。その小柄な体には、斥候らしい軽量な茶色の革鎧が着込まれており、胸部と肩の部分にはムワ特有の羽飾りが施されていた。
背中には翼兵が使用する小型ながらも精巧な投擲槍 の入った筒が吊り下げられており、腰には複数の小袋が下げられていた。
足元には爪が露出するよう特別に作られた靴が履かれており、木に登る際や岩をつかむ際に爪を活用できるよう工夫されていた。
「ここで話すには近すぎる」
ダルンが城塞 の方向をちらりと見やりながら言った。ミノタウルたちの篝火 の光が、森の縁 までほのかに照らし出していた。
「もう少し森の奥へ入ろう」
三人は静かに森の深みへと移動した。ダルンが先を歩いて道を切り開き、その後をティルエルダが続いた。
ブボアは最後尾で周囲を警戒しながら歩いた。
三者三様の足音が響いた。
ダルンの重い足取りは枯れ葉を深々と踏みしめて「ザクザク」と音を立て、ティルエルダの軽やかな足取りはほとんど音をたてなかった。ブボアはつま先立ちで慎重に歩みを進め、枝や小石を丹念によけながら進んだ。
大きな樫 の木の陰に身を隠してから、ダルンはハルバードを木に立てかけ、口を開いた。
「俺が城塞を離れていた間に、何があった?」
ブボアはしばし息を整えてから、大きな瞳をぱちぱちとしばたたかせながら説明を始めた。
「最初はミノタウルの数はそれほど多くありませんでした。五十ほどのミノタウルが城塞へ向かってくるのをラムパが発見し、すぐさま翼を広げて城塞へ戻り、状況を報告したのです」
ブボアが片方の翼を広げて見せながら言った。その翼は幅広く丸みを帯び、先端に向かうにつれて柔らかく分かれた羽毛が幾重にも重なって並んでいた。
「奴らが城塞の前に到着したときは、どんな状況だった?」
「粗雑に作られた木の梯子と、縄につながれた鉄製の鈎爪 を用意して、城壁をよじ登ろうとしてきました。梯子はいい加減に作られていて、しっかりしたものもありましたが、釘の打ちも甘くてぎしぎしときしむものも多かった。鈎爪はほとんど錆びた鉄で作られていましたが、刃先は鋭い方でした」
ブボアの大きな瞳が月光を受けてきらりと光った。
「ですが城塞の兵士たちも黙っていませんでした。城壁の上から長槍で梯子をよじ登るミノタウルたちを突いて落とし、大型の長弓で矢を浴びせたのです。あの大きな矢がミノタウルの分厚い皮をも貫いていました」
「奴らの損害はどれほどだった?」
「ミノタウルが五体、矢に射られて即死。三体が槍に刺されて負傷しました。そのうち一体は城壁から落ちた際に首の骨を折って死にました」
「こちらの損害は?」
「軽傷を除き、全員無事です」
ブボアはしばし言葉を止め、城塞の方向を見やった。その表情には緊張の色が滲んでいた。
「その後、奴らは城塞から少し退いて から焚き火を起こし始めました。最初は二、三か所だったのが、次第に増えていって……。まるで何かの合図を送っているようでした」
「合図?」
ダルンの眉間に皺が寄った。
「そこからが本当の問題でした」
ブボアの声がさらに低くなった。
「森のあちこちから、三、四体、あるいは四、五体ずつ、小さな群れのミノタウルが次々と押し寄せてきたのです。星の側(北側)の森からも、地の側(南側)の谷からも、はるか遠くの月の側(西側)の川の対岸からまでも」
ティルエルダが驚いた顔で口を開いた。
「それほど多くのミノタウルが……」
「普段なら多くて二十ほどが、森の外縁まで下りてきて森の獣を狩り、すぐに月の側へ戻っていくはずです。でも今回は違いました」
ブボアが頷いた。
「最初の一時間は十体ずつやってきたと思ったら、次には二十体ずつ、そのまた次には三十体ずつ……際限なく増え続けていきました。日が完全に沈んでからは、ほとんど絶え間なくミノタウルたちが到着し続けていました」
「今のあの有様になるまで、ずっとか?」
ダルンが城塞の方向を見据えながら問うた。幾十もの篝火が赤々と燃え上がり、その合間をミノタウルたちの影が絶えず行き来していた。
「そうです。目に見えるだけでも四百は超えます。闇に潜む奴らまで含めれば五百。ひょっとすればそれ以上かもしれません」
ブボアの声が揺れた。
「急を要する状況でしたので、隊長のご許可なしに判断を下しました。ルマとラムパを日の側(東側)の小さな村へ向かわせたのです。今の状況を知らせ、住民たちを避難させるために」
ダルンの表情がわずかに引き締まったが、彼は頷いた。
「ああ、よくやった。そういう判断はその場でするものだ。それに、お前は斥候隊の副隊長なんだから、そうする権限がある」
「ありがとうございます、ダルン隊長」
ブボアがほっとした表情を浮かべた。
「私もさらに遠方の川沿いに点在する村々へ出発しようとしていたところでした。川の対岸の三つの村と、谷を越えた先の二つの村にも知らせなければなりませんから。そこへ隊長とティルエルダ様のお姿が見えたので……」
ブボアが言葉を止め、身を震わせた。その羽毛が、風にそよぐのとはまた違う震え方をした。
「城塞を抜け出す際に、野営地の外縁を監視していた奴らに気づかれてしまいました。飛び立った途端、網と槍が雨あられと飛んできて。一枚の網が翼に絡みつき、あやうく地面へ落ちそうになりました」
ブボアが右の翼をそっと持ち上げて見せた。翼の先端部分に傷があった。
「槍が一本、かすっていきました。もう少し近かったら……」
「無事で何よりだ、ブボア」
ダルンがブボアの傷を確かめながら言った。
ダルンの大きな手がブボアの小さな肩をそっと叩いた。重みのある手つきだったが、その中には、修羅場をくぐり抜けてきた部下への深い信頼が込められていた。
ブボアは照れくさそうに羽毛をひとしきり整えてから、頭を下げた。
「本当に危ないところでした。ミノタウルの奴らが、我々翼兵の動きを読んでいるようでした」
ダルンはしばし考えに沈んだまま、ハルバードの柄 を握る手に力を込めた。そしてやがて、ゆっくりと顔を上げた視線が城塞へと向かった。
数百もの篝火が赤々と燃え上がり、その合間を動くミノタウルたちの影が絶え間なく揺れ踊っていた。時折聞こえてくる彼らの怒声や斧を振るう音が、夜の空気を切り裂いて届いてきた。
「ミノタウルが……多すぎる」
ダルンが低く呟いた。その声には、深い苦慮がにじんでいた。
「城塞を捨てるしかない。これ以上持ちこたえるのは無意味だ。城門を開いて、兵士たちはミノタウルの包囲を突き破って日の側(東側)へ退こう。ダムまで撤退するのがいい」
ブボアの顔に驚きの色が走った。
「しかし隊長、月影の城塞は……」
「城塞なら、また築き直せばいい。兵士たちの命は、石ころと引き換えにできるものじゃない」
ダルンが言い切った。
「では隊長は……」
「だからダルン様はご自身が囮 となって、ミノタウルたちを城塞から遠ざけようとなさっているんですよね?」
ティルエルダが静かに、しかし確信を帯びた声で言った。
ダルンが顔を向けて彼女を見た。月明かりがティルエルダの銀色の髪を照らし、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「はい。私が一人でできる限り多くのミノタウルを引き連れ、深い森の奥へ誘い込みます。そうすれば城塞周辺の敵が分散して、その隙に城塞の兵士たちが脱出できるはずですから」
「危険すぎます、隊長」
ブボアが心配そうな声で言った。
「では、私も手伝います」
ティルエルダが一歩前へ踏み出しながら言った。
「なりません」
ダルンが即座に首を振った。
「危なすぎる」
「私がエルフだからですか?」
ティルエルダがかすかに微笑んだ。
「それとも、私が戦いとは縁遠い学者だからですか?」
「そういうわけでは——」
ダルンが言葉を続けようとしたが、ティルエルダが手を上げて制した。
「でも、仕方がないんです」
彼女の声がわずかに変わった。何かを決意したかのような口調だった。
「もう私は、力を貸さなければならない……そういうことになっているんです」
彼女が言い終えると、ティルエルダの背後から明るい光が湧き上がった。青い輝きが闇を裂くように現れ、その光の中から一振り の剣が姿を現した。
「これは……何だ?」
ダルンの目が見開かれた。その口がぽかんと開き、驚きの色が顔全体に広がった。ブボアもまた、はっと驚いて半歩後ずさった。その羽毛が一瞬ぶわりと膨らみ、大きな瞳がさらに大きく見開かれて剣を見つめた。
ティルエルダの周囲を漂う剣は、ごく普通のロングソードほどの長さだったが、その姿は決して平凡ではなかった。透き通るような青い氷で作られた剣身は内側から冷たい光を放ち、剣の内部では青い輝きが一定の速さで動いていた。光の筋は剣身に沿って上下にゆっくりと流れ、内側の氷の紋の間を伝うように動いていた。
剣の表面には、まるで冬の窓に咲き誇る霜の花のように、繊細で複雑な文様 が刻まれていた。その文様は静止することなく、剣身に沿ってゆっくりと動きながら変化し続けていた。小さな雪の結晶の形が現れては消え、あるいは氷の結晶のように鋭く精緻 な文様が剣全体を覆い尽くすこともあった。
剣はティルエルダの手に握られているのではなく、彼女の右肩の後ろでゆっくりと回転しながら宙に浮かんでいた。その回転の速さは一定でなく、時にゆっくりと、時には少し速く回りながら、まるで生き物のように動いていた。
剣身から放たれた光が周囲の木の葉を霜で覆い、その光が届いた場所の空気が目に見えて冷たさを増し始めた。冷気が四方に広がっていくにつれ、空気の中に小さな氷の結晶がきらきらと輝きだした。ティルエルダの足元にあった小さな草の葉が瞬く間に白く凍りつき、ガラスの欠片のようにはらはらと砕け落ちた。そして結晶たちは宙でかすかな光を放ちながら、ゆっくりと下へと散っていった。
剣の柄には銀色の糸が精巧に巻きつけられていた。糸は表面が滑らかで、柔らかに動くように見え、その間からは細い光の筋がきらりと走り抜けることがあった。柄の末端には透明な宝石がはめ込まれており、その内側では穏やかな光が止まることなく動き続けていた。
「OoooOoOoOoo……」
剣からうなるような音が聞こえてきた。風の音とも違い、誰かが口を閉じたまま鼻歌を歌うような音とも違う。その場で回転する剣の刃が空気をかき乱す音と混じり合って、耳をくすぐるような奇妙な響きだった。
「こ、これは……」
ブボアが震える声で呟いた。
「この子の名前はヒヤルコです」
ティルエルダが宙に浮かぶ剣を指差しながら言った。その声は、普段よりも少し自信に満ちていた。
「戦いを好む、氷の精霊です」
「精霊……剣だと?」
ダルンが信じがたいといった様子で呟いた。その大きな手が、無意識に自分のハルバードの柄へと触れた。
「どうしてそのような……」
「ずっと昔に、精霊と契約を交わしたんです」
ティルエルダが簡潔に答えた。
「それは——」
ティルエルダがしばし言葉を止め、遠くを見やった。
そのとき突然、剣から漏れるうなり声がひときわ大きくなった。
「OoooOoOoOooOOOOooo! OoOoOoOooOOO!」
ヒヤルコがさらに速く回転し始めた。剣身から放たれる冷気が増し、周囲の空気がみるみる冷たくなっていった。
「あ、ヒヤルコが……」
ティルエルダが困惑した表情で宙に浮かぶ剣を見やった。その頬がほんのり赤くなった。
「何を言っているんだ?」
ダルンが好奇心をにじませた顔で尋ねた。
「それが……ヒヤルコが、早くあのミノタウルたちを……」
ティルエルダが言葉を止め、唇を噛んだ。剣から発せられる声がいっそう激しくなった。
「OOOoooOOOooo! OoOoOOOOoooOO!」
「何だって?」
ブボアが大きな瞳をぱちぱちさせながら聞いた。
ティルエルダの顔がさらに赤く染まった。彼女が躊躇い ながら口を開いた。
普段は落ち着いていた彼女の声が今は、ヒヤルコの粗野な語彙を和らげる言葉を探しながら、いたたまれなさそうに揺れていた。
「@#%!〜してやって、&(@$)! にしてから、%^&#@!! してやりたいって……言っています」
しばしの沈黙が流れた。
ダルンの大きな口がさらに大きく開き、ブボアは羽毛が一瞬ぞわりと逆立ちながら半歩後退した。
「せ、精霊が……そんな言葉を?」
ブボアが小さな声で呟いた。
「ヒヤルコは……氷の精霊にしては、かなり好戦的で」
ティルエルダが気まずそうに笑いながら説明した。
「それに口が……少々荒いんです」
「OoOoOoOooOOO!」
ヒヤルコがもう一度大きな声を上げた。今度は、同意するとでも言うようなうなり声だった。
「今もまだ何か言っているようだが……」
ダルンが不思議そうに眺めながら言った。
「今は……『早く行って戦おう』と言っています」
ティルエルダが溜め息をつきながら答えた。
「ヒヤルコは戦いがとても好きで、私との契約の条件の一つが——」
彼女がいったん言葉を止め、ヒヤルコを見やった。剣がいっそう速く回転しながら、急かすような音を立てた。
「私が戦いを避けないこと、だったんです。ヒヤルコが私を守る代わりに、戦える機会があるときは逃げないように……だから、もう力を貸さなければならないとお伝えしたのはそういう意味です」
「そんな条件が……」
ダルンが驚いた様子で呟いた。
「OoOoOOOOooo!」
ヒヤルコがまた声を上げた。今度は満足げな響きだった。
「今は何だって?」
ブボアが尋ねた。
「『とても良い契約だった』と……言っています」
ティルエルダがぎこちなく微笑んだ。
ダルンがハルバードを再び手に取りながら口を開いた。
「わかった。意志を曲げさせるのは難しそうだな。ただし、俺の背中から離れてはなりませんよ、ティルエルダ様」
「もちろんです」
ティルエルダが頷きながら答えた。
「OoOoOoOoo!」
ヒヤルコが喜ぶような声を上げ、いっそう速く回転した。
「まずは今——」
ダルンが城塞の方向を見据えた。依然として無数の篝火が燃え上がり、ミノタウルたちの動きが続いていた。
今話もお読みいただき、本当にありがとうございました。次回も楽しんでいただければ幸いです




