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175話 乾きの地より来たる侵略者 (1)

ヴラントが眠る遺跡を後にして洞窟を抜け出たティルエルダとダルンは、やがて以前とはまったく異なる空気の中へと足を踏み入れた。

 

身を温かく包んでいた空気と、常に傍らに漂っていた花と草の香りの記憶はたちまち霧散(むさん) し、彼らを迎えたのは、ゆっくりと日の沈んでいく冬の森の、冷えた気配だった。


「もう日が沈みかけています」


ティルエルダが空を見上げながら言った。


淡いオレンジ色の陽光が枝の間からかすかに差し込み、長い影を落としていた。


思いのほか、時間が経っていた。


「それなら急がなければなりませんな。城塞までは、少し距離がありますから」


ダルンが周囲を見渡しながら言った。


「はい、急ぎましょう」


ティルエルダは頷きながら、懐に大切にしまっておいたヴラントの実をそっと確かめた。アオルンから受け取った実と、文様の刻まれた石の欠片(かけら) は、そのままそこにあった。彼女はそれをポケットの奥深くにしまい直した。


ティルエルダとダルンは森の道に沿って歩いた。ダルンの重い足取りは土の上に深い跡を残し、ティルエルダはその後をすっと軽やかに追った。エルフ特有の、俊敏で静かな歩みだった。


「さっき……ヴラントの木のことを考えていたんです」


ティルエルダが口を開いた。


「ほう? どのようなことを?」


ダルンがティルエルダを見た。黄昏を背にしたダルンの顔には、より深い影が落ちていた。


「ヴラントの実には、面白いことに種がないんですよね」


ティルエルダは考え込むような声で言葉を続けた。


「アオルンたちがこの実を長い年月にわたって森のあちこちに運び続けてきたのに、それでも新しいヴラントの木は森のどこにも育っていない」


ダルンは自分のポケットからアオルンがくれた実をひとつ取り出し、眺めた。深い紫色に赤みを帯びたその実の表面は荒く、手のひらの上でかすかな光を放っていた。


「言われてみれば……そうですな。この実を植えても育たない、ということでしょうか」


ティルエルダは頷いた。


「実に種がないから増えることはできないでしょうね。でも……別の方法があるんじゃないかと。実を使って芽吹かせることのできる特別な方法が、あるんじゃないかって、そんなことを思ったんです」


陽の光がしだいに消えていく森の小径を歩きながら語るティルエルダの声には、学者らしい知的な好奇心が満ちていた。


「実を植えるための特別な儀式が必要なのか、あるいは特定の土地や条件が要るのか……」


ダルンはしばし考え込んでから口を開いた。


「私はあの小さなアオルンが……少し、哀れに思えましたよ」


ティルエルダが彼を見た。


「どういう意味ですか?」


「主が眠ったまま、何百年もの時を過ごしてきたわけですからな……あの小さな子は、主が目覚めることを待ちながら、ずっとヴラントの実を森中に運び続けてきたのでしょう」


ダルンの声には、哀愁の混じった感情が静かに滲んでいた。


「見方によっては、少し……悲しくも見えましたよ。あれだけ長い時間を、たった一人で……」


ティルエルダはしばし言葉を止め、思いに沈んだ。何百年もそうして待ち続けるとは、どのような心地なのだろう。主への忠義か、友を待つ思いか、それとも森を守るための使命感か。


二人は森の道をひたすら辿り続けた。辺りはしだいに暗くなり、空には星が一つ、また一つと瞬き(またたき) ながら姿を現し始めた。


ふいに、ダルンが足を止めた。顎を上げて大きく息を吸い込みながら、空気の中の何かを感じ取ろうとするようだった。


「ティルエルダ様、少し待ってください」


彼は低い声でティルエルダに囁いた。


ダルンはゆっくりと目を閉じ、鼻筋をかすかに震わせながら深く息を吸い込んだ。まるで空気の流れを手繰り(たぐり) 寄せるように、彼の鼻がひくひくと動き、ごくかすかな匂いのひとつひとつを選り分けていた。


耳の先まで静止させたまま、しばらく身じろぎもしなかった。やがて鼻先がほんのわずかにひくりと動いた瞬間、彼の表情に微妙な変化が走った。


「どうしたんですか?」


ティルエルダが小声で囁いた。


「慣れない匂いがします」


ダルンが静かに答えた。


「見知らぬ匂い……革と血と鉄の匂いが混じり合った……」


彼は肩からハルバードをゆっくりと下ろし、その重みを指先で確かめるように、しっかりと握り直した。


「私についてきてください。静かに」


ダルンはティルエルダを後ろに置いて、慎重に前へと進んだ。


二人は木々の間を慎重に移動し、小さな丘の陰に身を潜めた。ダルンがゆっくりと頭を上げ、前方を窺った(うかがった) 。


「あちらに……」


ダルンが指で前方を指し示した。


ティルエルダも慎重に頭を上げ、彼の指す方向を見た。輪郭がかろうじて見分けられるほど遠く離れた小さな空き地に、三つの巨大な影が見えた。


黄昏(たそがれ) の光の中でも、その影の輪郭はくっきりとしていた。身の丈(みのたけ) は軽く4キュビト(約2メートル)を超え、6キュビトに迫るほど大きく、肩幅は広く、厚い皮の下に見える筋肉はたくましかった。曲がった角が頭の両側から生え、皮膚は赤みがかった茶褐色に近い色をしていた。


「西の地の獣」、「乾いた大地の野獣」と呼ばれる者たち——ミノタウルだった。


ダルンとティルエルダは息を殺したまま木の陰に身を低くし、しだいに視界の中で輪郭をくっきりと結んでいく三体のミノタウルを見つめた。


一体目のミノタウルは大柄で体格がよかった。その身の丈はダルンより優に頭一つ分は高く見え、厚い茶色の毛が全身を覆っていた。屈強な牛の頭には大きな角が両側に伸び、その先は槍のように鋭かった。厚い皮革と鎖で作られた鎧を身に着けており、鎧のあちこちには鋭い鉄棘が付いていて、その巨大な体躯(たいく) をいっそう威圧的に見せていた。右手には巨大な斧が、背には無骨(ぶこつ) に作られた盾が担がれていた。


二体目のミノタウルは一体目より小柄だったが、より俊敏に見えた。相対的に細身の体格ながら、硬い筋肉が体のあちこちに際立っていた。茶色に黒い斑点の混じった毛と鋭い角を持つ彼は、胸と肩にだけ軽い鎧を纏って(まとって) いた。手には鋭い 両刃の斧が握られ、腰には複数の小さな斧がぶら下がっていた。


三体目のミノタウルは他の二体とは異なり、凄まじい体躯を誇っていた。肉と筋肉が入り混じった巨躯(きょく) のミノタウルだった。赤みを帯びた毛がまばらに皮膚を覆い、大きく開いた鼻孔(びこう) から熱い息を吐き出しながら、噛みつくように歪んだ口の端の奥では、厚い顎がしっかりと噛み合わさっていた。片方の角は半ばほど折れており、残った角は威圧的に前方へ向かって曲がっていた。彼はだぼついた革のズボンだけを身に着けていたが、両手には重厚な双刃(そうじん) の斧を握っていた。斧の刃はすでに血で汚れていた。


「Kyphe pā heman?」(今日は戦えるか?)


一体目のミノタウルが低く、荒い声で問うた。


「Khos, Dávī kai Mua en Kístralon eisi.」(ああ、ダウィとムワの奴らの城塞が近くにある)


二体目のミノタウルが答えた。ティルエルダは目を見開き、ダルンを見た。


「あの者たちは何を言っているんですか?」


彼女が囁いた。ダルンはミノタウルたちの会話に耳を傾けながら、低い声で答えた。


「奴らは月影の城塞を探しているようです」


「ミノタウルの言葉をご存知とは……驚きました」


ダルンはティルエルダにちらりと微笑んだ。


「敵の言葉を知ることは、兵を率いる者として必ず身につけるべき素養のひとつです。時間をかけて学ぶだけの価値がありますよ」


二人は引き続き、ミノタウルたちの言葉に耳を澄ませた。三体目のミノタウルの手に握られた斧には、乾いた血の跡が鮮明だった。その鼻孔が大きく開き、深く息を吸い込んだ。目には抑えきれない昂ぶり(たかぶり) が宿っていた。


「Thar vak porchon... ghlýki haímatos...」(さっき仕留めたイノシシ……あの血の味が……)


血の味が口に上がった瞬間、三体すべての息が荒くなった。


三体目のミノタウルが自分の斧に付いた血を舐め、笑った。


「Haíma dynátōs poiei Nókaron...」(血はノカルを強くする……)


一体目のミノタウルも鼻孔を膨らませながら言った。


「Kyphe! Hēgemon Rák Thun phylēs hēmās nikēsei!」(今日こそ!ラク・トゥン族の大戦士が率いる我らは、必ず勝利する!)


三体目のミノタウルが手に持った斧を振り回しながら叫んだ。


「Tēlei tous Mua!」(ムワの奴らを殺せ!)


一体目のミノタウルが笑った。


「Trýpson tas kephalás tōn Dávī!」(ダウィの奴らの頭を割るのも面白い!)


二体目のミノタウルが続けた。


「Pýrthe Kístralon, kai epibáinōmen Dámou!」(城を燃やして、ダムへ向かおう!)


三体目のミノタウルがよだれを垂らしながら言った。


「Sklēptei tōn mikrōn kōmōn, meta prós Dámou pólin...」(小さな村々を略奪し、ダムの都市へ進撃する……)


瞬間、勢いよく弾けていたミノタウルたちの笑い声が、まるで誰かが手で塞いだかのようにぷつりと途切れた。何かを感じ取ったように、三体すべてが目を大きく見開き、周囲を見渡しながら声を上げるのをしばし止めた。


「Nouthe... estin osmē xenē...」(ところで……何かの匂いが……)


三体目のミノタウルが突然あたりを見回し始めた。


「Ti theōreis?!」(何があるというんだ?!)


二体目のミノタウルが問うた。


「Pneuma... Dávī... osmē...」(風に……ダウィの……匂い……)


三体目のミノタウルが鼻をひくひくさせながら言った。


「まずい! 奴らに感づかれたようです」


ダルンが緊張した声で言った。


「Osmē eláphou ouk estin?」(鹿の匂いではないのか?)


一体目のミノタウルが笑いながら言った。


「Zētēsōmen! Eite Dávī eite ou!」(探せ!ダウィの奴だろうとそうでなかろうと!)


三体目のミノタウルが鼻筋をくしゃりとしかめながら言った。


その言葉に、他の二体も声を上げて笑った。彼らの笑い声はこだまとなって森の中に響き渡った。


「Hopou eisin, heurēsoimen autous! Anaménete!」(どこにいようと、我らが見つけ出してやる!待っていろ!)


一体目のミノタウルが叫んだ。


言葉が終わるや否や、三体のミノタウルは互いに頷き合い、全身の筋肉を張り詰めさせると、ダルンとティルエルダが身を潜めていた方向へと駆け出した。


ダルンはティルエルダを見た。


「ティルエルダ様、私があの者たちを相手にします。下がっていてください」


ティルエルダは驚いた目でダルンを見た。


「でも……三体ものミノタウルを、お一人では相手にできません!」


ダルンはハルバードをしっかりと握り、微笑んだ。その顔には、余裕のある笑みが浮かんでいた。


「ご心配なく。ミノタウル三体程度なら、自信がありますよ」


彼は肩の鎧の紐を締め直しながら続けた。


「物音を立てずに片づけるのは難しいでしょうが……消しておいた方がいいですからね」


ティルエルダは何か言おうとして、止まった。ダルンの目に、その決意が揺るぎないものであることが読み取れた。


「お気をつけて」


立ち上がろうとするダルンに向けて、彼女が言った。


ダルンは頷いてから、ハルバードを握り立ち上がった。その巨大な体躯が黄昏の光の中で、堂々とそびえ立った。


「では、少し行ってまいります」


ダルンの言葉が終わるより先に、彼はすでにミノタウルたちへと向かって駆け出していた。

ミノタウル語って、発音しにくいですね

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