174話 ヴラントの楽土
光はますます強くなり、ティルエルダとダルンの目を奪った。洞窟の突き当たりに辿り着いたとき、二人の前に広がった光景は、まるで別の世界へ踏み入れたかのような感覚をもたらした。
「これは一体……」
ティルエルダの言葉は、口から完全に出ることもなく、驚嘆 の中へと溶けていった。
洞窟の狭い通路を抜けると、広大な空間がティルエルダとダルンの前に広がった。
冬の冷たい風が支配する洞窟の外とは打って変わり、ここは春が永遠に宿るかのような楽園だった。
洞窟の天井は高く広く広がっており、その隙間から差し込む陽光が黄金色の鉱石と交わり、空間全体を温かな光で満たしていた。
壁面に沿って密に埋め込まれた金色の鉱石たちは、星のように輝いて周囲をほのかに照らしていた。
洞窟の床には柔らかな苔 と丈の異なる草が緑い絨毯のように敷き詰められ、その上に白・紫・淡い黄色と、様々な種類の花たちが苔の間から顔を覗かせていた。
空間の中央には小さな泉が湧き出ていた。澄んだ水はその場に留まって岩の隙間を満たし、泉の周囲には数本の木々が根を張った様子が見えた。冬にもかかわらず、木々は緑の葉を保っていた。泉から続く水の流れは洞窟の奥へと伸び、その先からは低い水音が途絶えずに続いていた。
「信じられない」
ダルンが低い声で呟いた。
「洞窟の中にこんな場所が存在するとは……」
ティルエルダは一歩一歩、慎重に前へと進んだ。苔が彼女の足の下で柔らかく沈み、また元に戻った。
彼女は大きく見開いた目でゆっくりと周囲を見渡しながら、胸の奥深くまで息を吸い込んだ。
温かな空気と花の香りが鼻先をくすぐり、瞳の中には、信じがたいほどの美しさを前にして込み上げた息づかいが静かに揺れていた。
空間の最奥には、周囲のどの木よりもはるかに大きく巨大な木が根を張っていた。幹は長い歳月をかけて伸びてきた枝の痕跡が絡み合うようにごつごつとねじれており、厚い樹皮には時が刻んだ亀裂が深く刻まれていた。
洞窟の地面の上へと伸び出した木の根は、土と岩を包み込むように四方へと広がり、枝は果てを知らぬほど高くそびえ立ち、洞窟の天井を覆い隠していた。
際限なく伸びた枝々の間には影が絡み合って落ちていた。そしてその枝のあちこちには、独特な形の実がぶら下がっていた。
深い紫色に赤みが滲んだ実だった。表面は荒く、大きさは小さな林檎ほどだった。枝に沿ってまばらにぶら下がり、それぞれがほのかな光沢を帯びていた。
「これは……」
ダルンが息を呑んだ。
「ヴラントの実ですな」
ティルエルダが驚いた目でダルンを見た。
「ええ、そうよ」
彼女が言った。
「でも、どうしてわかったの?そう簡単に手に入るものでもないのに……」
ダルンは慎重にその木へと近づいた。
「ダムの薬師 たちが時折、この実を求めて森の奥深くへと旅立つことがありました。彼らが持ち帰った実を見たことがあります。ですが……」
彼は顔を上げ、巨大な木を見上げた。
「この木は……初めて目にします」
ティルエルダはゆっくりと木に近づいた。
「学者たちの記録によれば、ヴラントの実は長い年月にわたり知られてきましたが、その実のなる木は一度も発見されたことがないとされています」
彼女の声には畏敬 の念が満ちていた。
「今私たちが目にしているものが……長い歳月、誰の目にも触れることのなかったヴラントの木なのかもしれません」
彼女は木の幹にそっと手を当てた。表面は意外にもなめらかだったが、指先の下には微かな震えが伝わってきた。それは生きた命の脈動のように、木の奥深くから呼吸するように続く動きだった。
手を離すことができず、彼女はしばらくそのまま立ち尽くした。
「ヴラントの実には、驚くべき力が宿っています」
ティルエルダが説明した。
「古い文献によれば、この実には強力な解毒の効果があるそうです。毒に侵された者も実ひとつで癒すことができると……また、マナが豊かに宿っており、多くの魔法使いたちがこの実を求める理由でもあるのです」
ダルンが興味深そうに頷いた。
「それだけではありません」
ティルエルダが続けた。
「実が地に落ちてゆっくりと土へ染み込むと、周囲の病んだ木々も次第に生気を取り戻すと言われています。だから、ヴラントの実は『森の命』と呼ばれているのです。今のサアルンの森がこれほど鬱蒼 として息づいているのも、この実のおかげなのかもしれません」
そのとき、アオルンがティルエルダとダルンの傍へと近づいてきた。蔓 でできた彼の体は苔の上をするりと滑るように動いた。虚ろな眼窩 からは青い光がより強く輝いていた。
アオルンはティルエルダの前で止まると、鼻先で木を指し示した。そして木のほうへと向かい、素早く低い枝に登った。枝の間を軽やかに滑るように動き、小さなヴラントの実をひとつ丁寧に取って再び下りてきた。
アオルンはティルエルダの前に立ち、その実を差し出した。実は彼の蔓の手の上でほのかな光を放っていた。
「わ……私に、くれるの?」
ティルエルダが尋ねた。
アオルンが頷くように体を揺らした。
ティルエルダは慎重にその実を受け取った。手に触れた瞬間、実から温かな気が広がっていくのを感じた。
「おい、俺の分は?」
ダルンが冗談めかしてアオルンに尋ねた。
アオルンはダルンのほうへと体を向けた。ティルエルダは、アオルンが体を大きく膨らませて息を吸い込んだあと、ふっとため息をつくような仕草をするのを見た。
蔓でできた肩がわずかに落ち、虚ろな眼窩の光がしばらく暗くなったかと思うと、また元の明るさに戻った。
アオルンは向きを変え、再び木へと向かった。今度はやや高い枝に登り、実をひとつ取ってきた。しかし今回は実をダルンに手渡す代わりに、口の役割を果たす蔓の隙間に咥えてダルンの前へと近づいた。
ダルンの前に立ったアオルンはしばし躊躇った かと思うと、突然「ぷっ」という音とともに実をダルンの足元に吐き出した。その様子にティルエルダは笑いを堪えることができなかった。
「なんだ、なんか釈然としないな……」
とダルンが言ったが、その声にも笑いが滲んでいた。彼はかがんで実を拾い上げた。
「礼を言うべきなのかどうか……」
ダルンはしばらく実を眺めてから、決心したように一口かじった。彼の顔がしばらく歪んだかと思うと、やがて驚いた表情へと変わった。
「む!?少し酸っぱいが……」
ダルンがヴラントの実を噛みながら言った。
「深い甘みがある」
ティルエルダも好奇心から自分の実を少し味わってみた。
口に入れた途端、強烈な酸味が舌を刺激したが、すぐにその後を追うように深く豊かな甘みが口の中へと広がった。そしてその甘みとともに、微妙な気が体の奥へと染み渡っていくのを感じた。
「おそらく……」
ティルエルダが実を見つめながら言った。
「森のあちこちにこの実を運んでいたのは、この子たちだったのでしょうね」
彼女はアオルンを見やった。アオルンは今やティルエルダの傍へと寄り添い、彼女の足元にうずくまっていた。蔓でできた体が、まるで猫のように彼女の足に寄り添っていた。
「そういえば」
ダルンが周囲を見回しながら言った。
「この空間には他の生き物がいませんね。こいつだけいるのか?」
ティルエルダは顔を上げ、もう一度空間を見渡した。そのとき、ヴラントの木の傍にある何かへと彼女の視線が留まった。最初は木の一部だと思ったが、よく見るとそれは木とは少し異なる形をしていた。
「ダルン様、あそこを見てください」
ティルエルダが指で木の脇を差した。
洞窟の壁面に寄りかかっているのは、一見古木のように見えたが、よく見るとそれはただの古木ではなく、木の形をした何者かのように見えた。
その体は木の樹皮と同じ質感で、頭からはまるで髭のように細い根が長く伸び出ていた。目は閉じられており、顔は幾百年もの古木の樹皮のように皺が刻まれていたが、その中に顔の形がかすかに残っていた。
二人はゆっくりとその存在へと近づいた。近づくほどに、それがただの木ではないことが明らかになってきた。深い眠りに沈んだように微動だにしなかったが、その周囲にはかすかな生命の気が漂っていた。
「これは……」
ティルエルダが畏敬の念のこもった声で言った。
「ヴラントなのだと思います」
「あのヴラントのことですか?」
ダルンが驚いた声で尋ねた。
ティルエルダは頷いた。
「記録によれば、ヴラントたちは長い年月、木々の傍を離れることなく、木をこよなく愛して似たいと願っていた森の牧者 たちでした。おそらくその姿は……まさに今私たちが目にしているこのような姿だったのでしょう」
彼女は慎重に手を伸ばし、眠れるヴラントの腕と思われる部分に触れてみた。木の感触がしたが、その中からはごくかすかな温もりが感じられた。
「太古の昔よりこのサアルンの森とベルラントの森の木々を守り、共にあり続けてきた存在たちだと言われています」
ティルエルダが続けた。
「羊と牧者は互いに似ていくものだという言葉がありますね。ヴラントたちもまた、自らが守る木々に似て、ついには古木の姿を持つようになったと言われています」
ダルンは驚嘆の目でヴラントを見つめた。
「では……このヴラントは今、眠っているのですか?」
「おそらくは」
ティルエルダが答えた。
「あるいは、長い歳月にわたる休眠状態に入っているのかもしれません。このような存在たちは、私たちとは異なる時の流れの中に生きていると言われていますから」
ティルエルダはヴラントの顔をじっくりと見つめた。その顔には幾百年もの歳月が年輪のように深く刻まれており、髭のように伸びた細根の間からは、動くことのない静かな表情が覗いていた。長い時を経て辿り着いた、遥か遠い静寂 の中に沈む姿だった。
しばらくヴラントを見つめ続けていたティルエルダは、ふと時間がずいぶん経っていることに気づいた。
「時間が遅くなってしまいましたね」
彼女が言った。
「そろそろ戻らなければなりません。私たちが見つけたこの場所は……本当に信じがたいところです」
ダルンも頷いた。
「そうですな。しかし、誰にも知らせてはならないでしょう。このような場所が知られれば……」
彼は言葉を止めたが、その意味は二人とも十分に理解していた。
ティルエルダとダルンが立ち去る準備をしている間、アオルンが再びティルエルダへと近づいてきた。口には何かが咥えられており、小さくつやつやとした石の欠片だった。アオルンは静かにティルエルダの前へと近づき、その石を床に置くと、鼻先でそっと押して彼女のほうへと差し出した。
「持っていけということ?」
ティルエルダが尋ねた。
アオルンが体を上下に揺らし、頷くような仕草をした。ティルエルダはその石の欠片を拾い上げた。それはただの石ではなく、表面にヴラントの文様 が刻まれた特別な石だった。
アオルンは再びヴラントの木へと戻り、実をいくつか取ってきた。そしてティルエルダとダルンの前にその実を並べた。
「ありがとう、アオルン」
ティルエルダが微笑みながら言った。
「この素晴らしい場所を見せてくれて、こんなに大切な贈り物まで」
二人は最後にもう一度洞窟の中の空間を見渡してから、来た道を辿り、静かに足を向けた。後ろではアオルンがその場に残り、ダルンとティルエルダの後ろ姿をじっと見守っていた。
洞窟を出て、再び冬の冷たい空気を迎えながら、ティルエルダは自分たちが今しがた経験したことが夢のようだという思いがした。しかし彼女の手に握られたヴラントの実と、ヴラントの文様が刻まれた石の欠片は、それが現実だったことを証明していた。
森はあいかわらず静かで、木々の間を吹き抜ける風の音だけが二人の耳をかすめた。しかし今やティルエルダとダルンは知っていた。このサアルンの森の奥深くに、ヴラントが長い眠りについている静かな安らぎの場――小さな楽園が、たしかに存在しているということを。
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