172話 月影の城塞 (2)
朝の陽光が差し込むサアルンの森 は、霞がかった木々の隙間を縫って光が滲み込み 、穏やかで澄んだ静寂を漂わせていた。
遺跡の中心、巨大な岩の前にティルエルダが腰を下ろしていた。彼女は平らで硬い石の上に深い深緑色 のマントを敷き、膝の上に本を広げていた。擦り切れたページの間を羽ペンが軽快に走り、岩に刻まれたヴラントの文章を一字一句書き写していた。
ティルエルダの髪は、木の枝の間から降り注ぐ陽光を受けてやわらかく輝き、時折吹く風に揺れては肩の上へと流れ落ち、ページの上にうっすらと影を落とした。
彼女の瞳は岩に刻まれた螺旋 と曲線の文様を追って鋭く動いた。指先の開いた革手袋をはめた手は羽ペンを握り、紙の上を速く行き来しながら、ペンの先からインクが滑らか に流れ出て文字を形作った。
彼女の姿勢は、学者の集中力をそのまま映し出していた。背筋 をまっすぐに伸ばし、両脚 をきちんと揃えた まま、膝の上の本へと静かに文章を書き写し続けていた。チュニックの革ベルトに吊り下げられた 小さな羊皮紙の袋は、彼女が身を乗り出すたびにかすかに揺れた。
岩には、長い年月の果てに忘れ去られたヴラントの文字が刻まれていた。木の葉 や動物の形を象った 複雑な文様の合間に、かすかな魔法の光が宿っているかのように、陽光を呑み込んで は吐き出すように、ときおり黄金色 に瞬いた 。
ティルエルダはその一つ一つを解読しながら、本の余白に丁寧に書き記していった。彼女のペンは、書き写したヴラントの文章の下に、独特の文字を書き添えていた。
点と線だけで構成された、エルフ語でもダム語でもない、奇妙な文字だった。長さの異なる三種類の線——短い線、中程度の線、そして長い線——に、一個から五個の点が、線の上、下、前、中間、端へと、それぞれ異なる位置に配置されていた。その文字たちは、まるで踊るような形で、次々と紙の上を埋めていった。
遺跡の川辺、巨大な石の器の前に立っていたダルンは、ふと視線を向けてティルエルダを見やった。川の流れをかたどったような文様 の刻まれたその器は、雨水 が半分ほど溜まっており、その表面に陽光が反射して静かな輝きを放っていた。
どんな自分であっても容易には持ち上げられないだろうと思われる巨大な器の大きさに、ダルンは内心で感嘆した。
『大きな器だな……』
彼の巨躯 でさえ、その器の前では小さく見えた。黒鋼 の鎧 が川面 を渡ってきた光を受けて輝き、その鎧に刻まれた爪の文様がくっきりと浮かび上がった。
ダルンの肩に担がれたハルバードの斧刃 は、彼の影とともに長く伸びていた。
ダルンは重い足取りでティルエルダへと近づき、彼女が岩に刻まれた文章を書き写している本を覗き込んだ 。点と線で構成された文字が目に飛び込んでくる。彼はかすかに首を傾げながら 、書き写すことに集中しているティルエルダを驚かせないよう気を遣い、静かな声で尋ねた。
「ティルエルダ様、それはどのような言語なのですか?エルフ語でもダム語でもないようですが……」
ティルエルダはペンをいったん止め、ダルンを見上げて柔らかな微笑みを浮かべた。
「学者の速記ですよ、ダルン様」
彼女はペンを持ち上げ、本の上の点と線を指しながら説明を続けた。
「どんな言語でも、特にエルフ語などは文字そのものは美しいのですが、素早く書くには不向きなんです。そこで学者たちが考え出したのが、この速記なのですよ。音の通りに書き表す言葉ですから、素早く記録して読み返すことができます。今のように複雑な文章を書き写す際、速記で注釈を加えると、ずっと楽になりますから」
ダルンは頷きながら 、彼女の指先を追って本へと目を落とした。短い線の上に点が二つ乗った文字、長い線の端に点が五つ散らばった文字、中程度の線の下に点が一つ打たれた文字……点と線が一定の間隔で続き、ページの上には静かな規則性が積み重なっていった。彼は静かに言った。
「素晴らしいですね。これほど素早く書きながら、これだけ整然と記されているとは」
ティルエルダは口元にかすかな微笑みを浮かべたまま、再びペンを動かした。彼女の目は相変わらず岩の文章に向けられており、手は絶えず書き続けていた。会話を続けながら、ダルンはふと思い当たったように尋ねた。
「ヴラントたちは、なぜ姿を消してしまったのでしょうか?」
ティルエルダはしばし考え込むようにペンを止めた。彼女の瞳が岩の上の文様をゆっくりとたどった。やがて彼女は静かに口を開いた。
「学者たちの間では、二つの仮説が伝えられていますよ」
彼女は本をそっと閉じながら、話を始めた。
「一つ目は、ヴラントたちがあまりにも長い時を生きてきたため、休息を求めて姿を消したというものです。伝えられるところによれば、ヴラントたちはエルフよりも数十倍もの長い歳月を生きるとされています。私たちにとって数百年は長い時間ですが、彼らにとってはまるで昼寝をするような、ほんの一瞬のことかもしれません」
ダルンは頷きながら、顎を撫でた。
「昼寝か……それほどまでに長く生きるのなら、十分にそういうこともあり得ますね」
ティルエルダは微笑みながら、二つ目の話を語り始めた。
「もう一つの話は、少し暗い内容です。砂の神セルメクは、森の緑を深く嫌っていたといいます。彼は自らの使徒たちに毒を授け、その毒はじわじわと森へと染み渡り始めました。ヴラントたちはその毒が森全体を侵さぬよう、自らそれを吸い込むことを選んだのです。そうして森を守るために、永遠の眠りについたという伝説が伝わっています」
ダルンの深い瞳が川の方へと向いた。彼の声が低く響いた。
「森を守るために、自らを犠牲にした……もしそれが真実なら、ヴラントたちは本当に偉大な存在だったのですね」
ティルエルダは頷きながら、本を再び開いた。
「どちらが真実なのかは、まだわかりません。ただ、この遺跡の文章がその答えを教えてくれるかもしれない」
彼女は再びペンを手に取り、岩の文章を書き写し始めた。
ダルンはしばらく彼女を見つめてから、微笑みを浮かべて言った。
「随分長くお邪魔してしまいましたね。少し周りを見回ってきます」
ダルンはハルバードを肩に担ぎ、ゆっくりと遺跡の外縁へと歩いていった。何気なく周囲を見渡していた彼の視線は、いつしか川の方へと引き寄せられ、気づけば足もその方向へと向いていた。
川辺の石の器が目に入った瞬間、彼の目に奇妙な動きが映った。
巨大な石の器に溜まった水を飲んでいる生き物は、小さなキツネほどの大きさだった。四本の足で立つ姿は獣に似ていたが、その様相は奇妙だった。
眼窩 は深く黒く虚ろ で、口には小さく鋭い歯が覗いていた。尾は短くずんぐりとしており、体全体は細い木の蔓 で覆われていた。数十本の細い蔓が互いに絡み合って生き物の形を成しており、蔓の合間からほのかな光が漏れ出ていた。陽光が蔓に触れるたびにきらめき、光の当たった蔓はうねうねと動いた。
ダルンは好奇心に引き寄せられ、慎重に近づいた。彼の重い足音が地面を揺らすと、生き物が顔を上げた。虚ろな眼窩がダルンへと向けられ、蔓に覆われた体が緊張して背を逆立てた。口が開き、鋭い音が漏れ出た。警戒する身振りだった。
その瞬間、背後から柔らかな足音がかすかにダルンの耳に届いた。
ティルエルダが近づいてきていた。彼女は本を胸に抱えたまま、静かに生き物を見つめた。驚いたことに、生き物はティルエルダには敵意も恐れも見せなかった。むしろゆっくりと近づいていくと、そのまま彼女の胸へと寄り添ってきた。
ティルエルダは膝をつき、生き物を慎重に抱きかかえた。蔓でできた体は柔らかく温かく、彼女の手の温もりに緊張がほぐれていくようだった。ダルンが驚いた表情で言った。
「ティルエルダ様、あの生き物……あなたには全く怖がりませんね」
ティルエルダは微笑みながら、生き物の背を撫でた。
「この子は私たちを傷つけるつもりがないようですよ」
彼女の手が生き物の背に触れたとき、小さな石の欠片 が目に入った。くすんだ黄金色を帯びた石は中を透かして見ることはできなかったが、その表面にはヴラントの文字がかすかに刻まれていた。石はしばし明るい黄金色の光を放つと、やがて静かにその輝きを失った。生き物はティルエルダの腕の中で、すうっと眠りに落ちた。
ティルエルダは石の欠片を見つめながら、囁いた 。
「この石……不思議な光を放っていますね……表面に……」
ティルエルダは腕に抱いた生き物を見つめた。細い蔓が幾重にも絡み合った体は、まるで息吹 を宿しているかのように、彼女の指先でかすかに動いていた。そしてその生き物の背中、柔らかな蔓の隙間に嵌め込まれていた石の欠片に、彼女の目が止まった。
くすんだ黄金色を帯びた石は、誰かの息吹を宿したかのような温もりを持っていた。
ティルエルダは慎重にその石を拾い上げた。石の表面には小さく、かすかな、しかし確かなヴラントの文字が刻まれていた。彼女は目を細め、静かに読み解いた。
「……ヴラントの言葉で……」
指先が文字の曲線をゆっくりとたどった。
「『友』、あるいは『仲間』……そう読めますね」
彼女の瞳が穏やかに生き物へと向けられた。かつて警戒を帯びていたこの小さな存在は、今や彼女の腕の中で静かに息を整えていた。まるで遠い昔から彼女を待ち続けていたかのように、まるで彼女の腕の中が馴染み深い とでも言うように。
しばらく沈黙の後、ティルエルダはまるで囁くように言葉を続けた。
「もしかすると……この子こそが、森の番人と呼ばれていたアオルンではないでしょうか」
ダルンは驚いたように目を見開いた。
「ヴラントたちと常に共にあったという……?」
ティルエルダは頷きながら言葉を続けた。
「アオルンの姿を見た者はいないと伝えられています。ただ、ときおり森の深い場所にヴラントの実を運んでくるという話があるのですよ。そして実を守り、主人に代わって森の世話をしているという言い伝えが……この子の体、そしてこの石の欠片に刻まれた文字こそが、その証かもしれません」
ティルエルダは慎重に石の欠片を生き物の背へと戻した。すると眠っていた生き物が身を震わせ、ゆっくりと目を開いた。虚ろだった眼窩が再びティルエルダへと向けられ、その中をほんの一瞬、かすかな光がよぎった。
アオルンは彼女の腕からするりと降りると、蔓でできた体を一度大きく振るわせた後、遺跡の外へ向かって駆け出した。
その姿は、まるで風に乗るように軽やかで素早かった。ダルンが驚いて一歩前へ踏み出し、ティルエルダも自然とその後ろ姿を目で追った。
遺跡の境界あたりに差しかかったところで、アオルンは立ち止まった。そして体を半分ほど振り返らせ、前足を地面に二度、とんとんと打ちつけた。
短くずんぐりとした尾をわずかに振ってから、再び体を転じ、もう一度振り返った。頭をかすかに傾け、小さく蔓をさわさわと揺らしながらティルエルダを見つめるその様子は、まるで……
「……ついてこい、ということかしら」
ティルエルダの静かな問いかけが、空気の中へとしみわたった。
アオルンはもう一度首を巡らせた。そして静かに、しかし確固とした歩みで、森の奥のどこかへと向かって進み始めた。
ティルエルダは目に意志の光を宿しながら振り返り、ダルンを見やった。彼は短く頷いた。
彼女は慎重に本を閉じて手に持ち、アオルンをひと目見やった。
「ついていきましょう」
ダルンはしばし躊躇いながら アオルンを見つめた。その小さな存在から漂う奇妙な気配はまだ完全には馴染めなかったし、蔓でできた体は獣とも異なる違和感を放っていた。彼は無意識にハルバードの柄 を一度握りしめてから、ゆっくりと手を放した。
「ふむ……本当に大丈夫でしょうか……あれについていっても……」
ティルエルダは短く息を整えてから言った。
「大丈夫ですよ。この子が私たちを傷つけようとしていたなら、とっくにそうしていたはずですから」
ダルンは重くゆっくりと頷いた。彼はハルバードを背に固定し、腰の革紐をしっかりと締め直しながら、後に続く準備を整えた。
鎧がじゃらりと金属音を立てて響き、彼の足先が落ち葉を踏みしめながら森の地面を踏み込んでいった。
ティルエルダはアオルンを追って、静かに森の中へと足を踏み出した。ダルンも深く息をついてから、彼女の後に続いた。
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