171話 月影の城塞 (1)
遠く、ダムの西。
最初の陽光が地平線の彼方からゆっくりと滲 み出し、サルンの森の果てしない木々の海の上へ、淡い金色の光を降り注いだ。森を見下ろす緩やかな丘の上に、月影の城塞の姿が浮かびあがる。
城塞の輪郭は、明けゆく空の柔らかな色と対照をなし、くっきりと刻み込まれていた。
大小様々な荒々しい灰色の石で築かれたこの小さな要塞の石の隙間には、水気を含んだ濃い苔 がへばりついており、朝露が染み込んで石の表面を深く輝く灰色に染め上げていた。
特別な名もなく、ダムの言葉で西の城塞——「月影の城塞」と呼ばれるこの要塞の城壁は高くはなかったが、厚く頑丈であり、森の向こう西の荒野、バッドランドのオークとミノタウルを監視するための高い見張り塔も共に設けられていた。
城塞の中央に建てられた見張り塔の円錐形の屋根からは、長年の風雨に耐えきれず朽ちた板張りが、吹き込む風にかすかにきしんでいた。
狭い城門の両脇には鉄製の篝火台 が置かれていたが、夜通し燃え続け消えてしまった火のせいで、その表面は煤 で黒ずんでいた。
周囲の空気は冷たく、湿った落ち葉と水気を含んだ樹皮の匂いで重く満ちていた。見張り塔の上から垂れ込める薄靄 が、気だるげに漂いながら月影の城塞を神秘のヴェールで包んでいた。
目覚め始めた鳥たちのかすかなさえずりと、遠くから届く木の葉のざわめきが聞こえてくる。
木々の上、ひとつの影が動いた。ムワの歩哨 が夜通し森を哨戒 して戻ってくる途中だった。ムワの褐色と灰色が入り混じった羽毛の翼は、音もなく空気を割き、ムワ特有の静かな羽ばたきを見せていた。
ムワの歩哨は木々の梢をすれすれに滑空し、鋭い琥珀色 の目で眼下を見渡すと、城塞へと向きを変え、城壁の向こうへ消えた。
薄靄の漂う城塞の内で、重い木の扉が開くと、霞んだ中庭の向こうから尖った耳を持つエルフの輪郭がゆっくりと浮かびあがった。
彼女は軽やかな足取りで、城塞の外へと続く道を下り始めていた。
その姿は、色あせた灰色の石を荒々しく積み上げた、罅割 れと苔に覆われた古びた城塞と、鮮やかな対をなしていた。
長い金色の髪は、陽光で紡いだ糸のように輝きながら肩の上へと流れ落ち、夜明けを告げるように昇り始めた太陽の淡い光を浴びて、その美しさをより一層際立たせていた。
尖った耳は髪の合間に覗き、エメラルド色の瞳は静かな強さをもってほのかに輝いていた。
彼女は森の外縁へと向かうにふさわしい、実用的でありながら洗練された身なりをしていた。銀色の葉の文様が縁を飾る深い森色のマントは、高く立てられた襟が印象的で、その下には体にぴったりと合った深い紺色のチュニックが覗いていた。
チュニックは硬い革のベルトで腰を締めて固定されており、ベルトには羊皮紙と羽ペンの入った小さな袋が吊り下げられていた。
深い色のズボンを履いており、それは道なき森を長時間歩き回った証として泥のついた、高い茶色のブーツの中へきちんと収められていた。
細い手には指先の開いた手袋がはめられており、片腕には革装丁の本が一冊抱えられていた。本は幾度となく開かれた末にページが擦り切れ、縁が丸まっており、歩みを進めるたびに朝風にマントが翻って、腿に帯びた短剣がちらりと覗いた。
普通の短剣よりも幾分か長いエルフの短剣は、森での旅のための実用的な装備であり、蔓 を払いのけたり樹皮を削いだりと、細々とした作業に存外 重宝する道具だった。
彼女の足が城塞の外壁近くに差しかかったころ、背後から重い扉の開く音が届いた。続いて低く響く声が彼女を呼んだ。
「今日もまた遺跡へ向かわれるのですか、ティルエルダ様」
エルフは足を止め、振り返って自分の名を呼んだ者を見やると、かすかな微笑みを浮かべた。
「ええ、ダルン様」
澄んだ、旋律のような声で彼女は答えた。温もりの滲む声だった。
「昨日書き写しきれなかった文章が、まだ残っておりますもので」
ダルンはティルエルダへと歩み寄った。
月影の城塞の守備隊長にしてダウィである彼は、ティルエルダの上に影を落とすほどの巨躯 と幅広い肩、屈強な体つきで、ダウィ特有の膂力 と威圧感をそのまま体現していた。
ダルンの毛並みは深く濃い黒だった。降り注ぐ陽光にあっても、その黒みが薄れることはない。毛並みは清潔に手入れされていたが、冷たい朝の空気のせいでうっすらと霜が降りていた。
ダルンは重厚な鎧を身につけていた。黒鋼で鋳造された鎧の表面には、互いに絡み合う爪の文様が精巧に刻まれており、それは彼の家門 であるバヒーカリ家を象徴する紋様だった。
肩には縁のすり切れた深紅 のマントが羽織られており、長年の使用によって所々が擦り減っていた。
その大きな手にはハルバードが握られており、ダムの職人たちが生み出した、見る者を圧倒する外観の武器だった。柄は太く鉄帯で頑丈に補強されており、頭部には人間やエルフが満足に扱い切れないほど大きな斧刃 がついていた。
刃の縁は鋭い光沢を帯び、先端には穂先が突き出し、後ろには曲線状の突起が飛び出していた。斬り、突き、刺し貫く、三つの役割を一手に担う多用途の武器だった。ハルバードは彼の巨大な体格に合わせて作られていたため、他の種族ならその重さに潰されてしまうだろうが、彼の手の中では完璧な均衡を保ちながら握られていた。
「お供いたします」
ダルンが穏やかな口調で言いながら、ハルバードを肩の上に担ぎ直し、ティルエルダの後を追って歩き始めた。
ティルエルダは手を振り、微笑んだ。
「お気遣いなく、ダルン様。私一人でも大丈夫ですよ」
しかしダルンの表情は揺るがなかった。やがて二人は城塞を後にし、森へと続く細い小道を並んで歩いていた。
道の両脇には天へ向かって高くそびえる杉の木が並び、空気には湿った土の匂いが満ちていた。
ダルンの重い足取りが地を踏むたびに、落ち葉のざわめく音が立った。
対してティルエルダは、エルフ特有の優雅な動きで歩み、彼女のブーツは地面にほとんど跡を残さなかった。
二人の足音は、速さも、音も異なっていたが、不思議なほどに乱れることがなかった。
ダルンはハルバードを肩に担ぎながら歩いた。巨大な斧刃が道の上に長い影を落とした。
黒い毛並みの奥の濃い瞳は周囲の木々を絶えず見渡し、歴戦の戦士の警戒心を示していた。その傍らでティルエルダは革装丁の本を胸にしっかりと抱き寄せ、古びた表紙を指先でそっとなぞっていた。
彼女はしばらく目を閉じ、大きく息を吸い込んで森の空気を味わいながら、歩みを進めていた。
二人の静かな旅は、木々の上から届く柔らかな音によってふと中断された。ムワが広く翼を広げて滑空し、二人の前の低い枝の上へと軽やかに降り立った。夜通し森を監視していた月影の城塞の歩哨、ブボアだった。
ブボアの羽毛は長い夜の疲れで乱れており、大きく丸い目は薄明かりの中でやわらかく輝いていた。彼は嘴 を軽く鳴らし、首を傾けながら二人を見やった。
「城塞へ戻る途中、お二人のお姿が見えましたので」
ブボアが低い声で言った。疲れの滲む声だった。
「ご挨拶をと思いまして。シラ・ルメン・ティエルボ……ティルエルダ様」
ブボアの言葉を聞いたティルエルダの顔が明るくなり、手を上げて挨拶した。
「シラ・ルメン・ティエルボ、ブボア様」
彼女がエルフ語特有の旋律を帯びた抑揚で言った。
ブボアは胸を張り、羽毛をふくらませた。誇らしげな様子だった。
「シラ・ルメン・ティエルボ~!」
ブボアはもう一度ティルエルダのエルフ語を真似るように、少し不器用だが心のこもった発音で繰り返した。
「えへん!どうです、私のエルフ語の腕前は!」
ティルエルダは柔らかく笑い、エメラルド色の瞳が楽しさに輝いた。
「素晴らしいですよ、ブボア様。毎日上達なさっています」
ブボアは嘴をかちりと鳴らしながら、翼をわずかに動かした。
「ふむ、ティルエルダ様のダム語の腕前に比べれば、まだまだですよ。私のエルフ語はとても及びません」
ダルンが頷き、その深い声が遠い雷鳴のように響いた。
「おっしゃる通りですよ、ティルエルダ様。ひと季節も経たぬうちにダム語を完全に習得されるとは。それは本当に並外れたことです」
ティルエルダの頬がわずかに赤らみ、金色の髪の一筋を尖った耳の後ろへとそっと掻き上げた。
「お二人ともお褒めが過ぎますよ」
嬉しそうな声で彼女は言った。何かを学ぶ能力を褒められることは、学者である彼女にとって何より耳に心地よい言葉だった。
ブボアが翼をいっぱいに広げると、羽毛が木の葉の合間から差し込む陽光を受けてきらめいた。
「さて、太陽が完全に昇り切る前に城塞へ戻らなければなりません。今夜の見張り番に備えて少し休んでおかないといけませんので」
ブボアはダルンとティルエルダに向かって頭を下げた。
「先日行かれた遺跡の方へ向かわれるのでしょう? 夜明け前に雨が降りましたので、近くが滑りやすくなっています。お気をつけて」
「わかった。ゆっくり休んでおけ、ブボア」
ダルンは翼を広げて高く舞い上がっていくブボアを見送りながら答えた。
「お気をつけてお帰りなさい」
ティルエルダが手を振りながら付け加えた。ブボアは音もなく翼を打ちながら城塞へと飛び去った。やがてその姿は靄の中へあっという間に消えた。
ダルンとティルエルダは森の道を歩き続けた。森が目覚めていく音が二人を包んでいた。
時はさらに過ぎ、太陽がより高く昇り、金色の光の筋が木々の間を貫いて地面へと降り注いだ。
ティルエルダはダルンをちらりと見やり、彼の手に握られた巨大なハルバードに目をやった。彼の存在が与える静かな安堵感を胸に、二人はサルンの森の奥深くへと進んでいった。
城塞はどんどんと遠ざかり、二人の目に映らなくなった。
しばらくすると、森がより一層静まりかえり、木々のまばらになる地点に小さな川が姿を現した。その川辺には大小様々な岩が半円形に配置されており、岩の表面には苔の合間に、角張った線と曲線が入り混じった文字が刻まれていた。
遺跡は、大地を貫いて天へと突き出た巨大な石柱のように見えた。いくつかの岩はダルンの背丈を軽く超えるほどの大きさだった。
岩には螺旋、曲線、そして木の葉や動物を象った紋様が刻まれており、古い魔法の痕跡が残っているかのごとく、ほのかな光を帯びているところもあった。
川の水は岩の間をゆっくりと流れ、その音が静かな歌のように耳に届いた。
ティルエルダは大きく深呼吸をしてから、慎重に遺跡の内へと足を踏み入れた。ダルンはいつものように静かにその後に続いた。
岩々の間へと進み入った二人は、何か神聖な空間に踏み込んだかのような感覚を覚えた。周囲の鳥の声が遠のき、時間そのものがゆっくりと流れているようだった。
「ここが、森の牧者 と呼ばれたヴラントたちの、安らぎの地であったのでしょうか……」
ティルエルダはほとんど囁くように言った。エメラルド色の瞳が輝く文字の間を彷徨いながら、陽光を受けて光を放つ文章の刻まれた岩の一つへと、ゆっくりと近づいていった。
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