161話 ダム (4)
しばらくして、イゴールの案内を受けた一行が静かに部屋へと入ってきた。冷たい金属が噛み合う音とともに重厚な扉が閉じられ、部屋の中に深い響きが広がった。
座っていたクラバが席を立ち、軽く手招きして彼らを迎えた。イゴールが手を上げて合図すると、待機していたムワの使用人たちが近づいてきて、一行の外套 を丁重に受け取った。
使用人たちは一行の衣服についた埃 を、具現化した手に持つ小さなブラシで払い落とし、壁際のコート掛けへと丁寧に整えた。
グラベルは部屋を一通り見渡してから、腰を下ろした。ベナールと向かい合って座っていたクラバが、ゆっくりと視線を巡らせ、新たに入ってきた客人たちを見やった。その口元には、ほんのかすかな笑みが浮かんでいた。
「久しぶりじゃないか、マウ。そしてダレン。」
ベナールの声が部屋いっぱいに満ちた。マウは片手を胸に当て、ダレンは翼を広げて挨拶した。
「お久しぶりでございます、ベナール様。」
マウが先に口を開いた。
「ご無沙汰しております。」
ダレンも穏やかに翼を畳みながら言った。
「商いを始めるために、ベナール様のお店で働いていた頃のことが懐かしく思い出されます。おかげさまで馬車を手に入れることができました。あの頃のご恩は、今もずっと忘れておりません。」
ベナールは満足げに頷いた。
「歳月が経っても忘れずに訪ねてきてくれるとは、嬉しい限りだよ。ラトゥを行き来しながら商いをしていると聞いていたが、商売のほうはうまくいっているかね?」
「道は険 しゅうございますが、損を出さず、少しずつ利益を積み重ねております。まだまだ先は長いですが、地道に続けていけばきっとよくなると信じております。」
ダレンは穏やかに翼を畳み、静かに息をつきながらベナールの問いに答えた。
ベナールはその答えに満足したように微笑みながら頷いた。
「そうでなくてはな。商いとは、忍耐と時間が必要なものだよ。」
短い挨拶が終わると、グラベルが一歩前へと進み出た。ベナールの反応を窺いながら、慎重に姿勢を正した。ここまで来ることになった目的を胸に刻みながら、彼は深く腰を折った。
「ベナール様、私はグラベルと申します。」
グラベルは丁重にベナールへと挨拶の言葉を述べた。
「ヴェス・ディナスの書庫にて、アクイルンの大迷宮で発見された遺物に関する記録を調べておりました折、『ネロディアの鏡』についての文書を読む機会を得ました。」
ベナールは手にしていた杯をゆっくりと置き、彼をじっと見つめた。細めた目でグラベルの姿をより詳しく目に収めようとするように、椅子の背にもたれていた身をわずかに前へと傾けた。
グラベルは続けて言葉を紡いだ。
「その記録によれば、この鏡は使用者が最も望むものがある場所を映し出し、その方角を示すと記されておりました。私には、その力がどうしても必要なのです。鏡の力をお借りすることができれば、私にとって最も大切なものを見つけ出すことができます。それゆえ、ベナール様にお願い申し上げます。この鏡をお使いいただける機会を、どうか与えてくださいませんでしょうか。この願いは、単なる好奇心からではございません。ネロディアの鏡は私にとって、どうしても必要なものなのです。その対価が何であれ、喜んでお支払いする覚悟がございます。もし金貨でお値段をつけていただけるのであれば、いかほどお支払いすればよいか、お教えいただければ幸いです。」
どうかこの切実な思いがベナールに届きますようにと祈りながら、グラベルは深く頭を垂れた。その言葉が終わると、部屋の中に一瞬の静寂が訪れた。
ベナールは彼の顔をじっと見つめた。ここまでやって来て、自分の鏡を貸してほしいという申し出。率直でありながら、切なる思いがにじみ出る態度だった。
しかしベナールはやがて、静かに首を振り、息をついた。
「話はよく聞いたよ。だが残念ながら、君が探しているネロディアの鏡は、今の私の手元にはないのだよ。」
グラベルの瞳が揺れた。
「それは……どういうことでございますか?」
ベナールは静かに杯を指先でもてあそびながら言った。
「数年前、私はその鏡をダムの遥か北方、エルフたちの王への贈り物として送ったのだよ。確か六年前だったか……ずいぶんと時が経ったものだ。」
グラベルは息を呑んだ。予想もしていなかった答えだった。
今すぐにでもエルフたちの地へ旅立つべきかと思いながら、予期せぬ事態に素早く対応して計画を修正しなければと頭を働かせた。ちょうどそのとき、ベナールはより現実的な話を続けた。
「エルフたちの地はダムの北、『木の海』と呼ばれるディネアの樹海 を抜けなければたどり着けない場所でね。その森は広大で険しく、道案内なしに無事に到達することはできないのだよ。」
ベナールは指先でテーブルを叩きながら言葉を続けた。
「おまけに、ディネアの樹海にある森の灯台は、外来者の訪問をそう簡単には許さない。あそこの灯台守 は絶えず変わり続ける樹海の道を観察し記録しながら、安全な経路を案内する役を担っている。あそこで道の案内を受けなければ、案内人がいたとしても道が変わって迷い込んだり、思わぬ危険に巻き込まれる可能性が高い。エルフたちの王国へ到達するためには、必ずこの森の灯台を経由しなければならないのだよ。」
グラベルは一瞬、何かを言おうとして口を閉じた。彼に残された時間は多くなかった。しかし今すぐ出発したとして、果たして道を見つけることができるだろうか?考えが次々と浮かんでは繋がった。計画が狂ってしまった。どうすればいいのか?
そのとき、ベナールは口元にかすかな微笑みを浮かべながら、再び口を開いた。
「だが、まったく方法がないわけでもない。君が望むなら、私がエルフの王への書状 を書いて、君が鏡を使えるよう取り計らってあげよう。」
ベナールの言葉を聞いたグラベルの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当でございますか?!」
「ただし、一つ条件がある。」
ベナールは杯を傾けながら付け加えた。
「これから行われるダムのドゥク=ドゥク・ピオラノ祭を、楽しんでいきなさい。そして、ダムに『青い月』が昇るまで、ここに留まってほしいのだよ。」
グラベルは当惑した表情を隠しきれなかった。
「……青い月とは、三番目の月のことをおっしゃっているのですか?」
「そうだよ。祭りは二つの月が満月になるまで続く。そして三番目の月が昇る前に、私はエルフたちの都まで行けるよう、必要な馬車と道案内を用意しておこう。」
グラベルは深く考えに沈んだ。少なくとも一ヶ月以内には出発できるということだろうか?しかし書庫で見た天文観測者の記録によれば、二つの月が満月になるまでには最大七十日かかることもあった。時間を取られすぎるのではないか?
だがすぐに、ベナールが静かに付け加えた。
「もちろん、私の提案を聞かずに立ち去るというなら止めはしない。しかし何の備えもなく行くというのは、果たして賢い選択だろうか?道案内もなく、エルフたちへの書状もなく、やみくもに木の海へ踏み込むのは無謀というものだよ。」
グラベルは苦悩に沈んだ。今すぐ出発するか、それともベナールの条件を受け入れて時間をかけて準備をするか。この条件を提示したベナールの意図も気になった。単に祭りを楽しんでいってほしいということなのか?それとも別の理由があるのか?まったく想定していなかった事態、そして予想外のベナールの提案に、グラベルの頭の中はいよいよ複雑になっていった。
しばらく逡巡 していたグラベルは、やがてゆっくりと口を開いた。
「……少し、考える時間をいただけますか。」
ベナールはゆっくりと頷きながら、杯を持ち上げた。
「では、十分に考えるがいい。その時間は、決して無駄にはならないだろうよ。」
ベナールは杯を置き、椅子の背にもたれた。ゆっくりと手を上げると、イゴールが静かに近づいてきた。彼は簡潔な仕草でイゴールに指示を下すと、再びグラベルを見やった。
「さて、客人たちにワインの一杯だけではあまりに物足りないだろうから、食事でもしながらゆっくり考えてみなさい。」
しばしの時が流れ、ニアが鼻をくんくんさせながら言った。
「おいしそうな匂いがするだる!」
その言葉が終わるが早いか、イゴールと他の使用人たちが長い食卓へと料理とパンを運び始めた。ムワの使用人たちは慣れた手つきで料理を手際よく並べていき、やがて芳 しい香りが部屋いっぱいに広がった。
イゴールは一歩前へと進み出て、翼をたたみ、恭しく言った。
「客人様方のためにご用意いたしました料理をご説明申し上げます。」
彼はまず、濃い茶色を帯びた皿を指し示した。
「こちらは鹿肉とキノコをニンニクとともに炒めた一品でございます。新鮮な鹿肉を厚く切り、森で採れたキノコとニンニクを合わせて炒め、旨 みを引き立てております。肉の肉汁とキノコの香りが溶け合い、深い風味をお楽しみいただけることと存じます。」
料理の下にわずかに溜まった脂が艶 やかに光り、かすかなニンニクの香りが食卓を包み込んだ。
イゴールはすぐに二番目の料理へと説明を移した。平たい小麦粉の生地の上に肉と野菜が盛られた一品は、縁からこんがりと焼き上げられており、その上には半熟の卵がやわらかく収まっていた。
「こちらの料理は、薄く伸ばした小麦粉の生地の上に、挽き肉とトマト、唐辛子、玉ねぎをよく調味して乗せ、その上に卵を割り入れてオーブンで香ばしく焼き上げたものでございます。一口噛めば、香ばしい生地と豊かな味付けが見事に調和し、卵のやわらかさが加わって、口いっぱいに深い風味が広がることでしょう。」
グラベルはふと、その料理に目を向けた。金色がかったパリッとした生地と、つやつやと溶け込んだ卵の様子が、食欲をそそった。
最後に、イゴールは車輪のついたトロリーを指し示した。トロリーの上には大きな皿が置かれており、黄金色の揚げ物が食欲をそそるように盛られていた。カリッと揚げられた魚の身は、しっかりとした衣の中に、しっとりとした白身をそっと隠しており、その周りには赤い川海老が添えられていた。
イゴールは皿をゆっくりと回しながら説明した。
「こちらは、この地の養魚場で育てました最も大きな鯉 、スタバス鯉を丸ごと揚げた一品でございます。香ばしい油でカリッと揚げてあり、外はサクサクとしておりますが、身は柔らかくしっとりとしております。川海老を添えてソースにつけてお召し上がりいただければ、一層風味が引き立つことでしょう。」
ニアの目が大きく見開かれた。
「わっ!おいしそうだる!」
ニアは食卓の上へわずかに身を乗り出し、きらきらとした目で料理を眺めた。グラベルはいまだ深い思案の中にあったが、ニアの様子についくすりと笑みを漏らした。
しかし彼は、まだ悩みから抜け出せずにいた。ベナールの提案を受け入れるべきか?時間をかけて準備するのが正しいのか?それとも今すぐ旅立つべきなのか?
『最大七十日かかることもある……。その時間を、無駄にしていいのだろうか?』
彼はなんとなく杯を手に取り、軽くワインで唇 を湿らせながら思考を整理しようとした。そのとき、ニアが顔を上げて彼を見やった。
「カルカ、早く食べてみるだる。悩みも大事だけど、お腹を満たすのも大事だる。」
グラベルはニアの言葉に苦笑いを浮かべ、ふっと息をついた。そして手を伸ばし、鹿肉の料理を取った。芳しいキノコとニンニクが溶け合い、柔らかな肉の旨みが舌先をやさしく包み込んだ。
まだ悩みは終わっていなかった。しかし少なくとも今は、この一食を楽しんでも構わないだろうと思えた。
そして彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだな。まず食べよう。それからでも、遅くはないだろう。」
今日も楽しく読んでいただけたなら嬉しいです




