150話 ラトゥール洞窟道 (12)
ニアは腰に帯びた両手剣、『180金貨』をゆっくりと抜き放った。
バレイル鋼で打たれた剣身には、鍛冶師 ラムバディルが刻み込んだ「小赤龍」の文字が鈍く光っていた。
ニアは頭を上げ、ミュイドックをじっと睨みつけた。ペンダントの力によって変貌したミュイドックの姿は、以前にも増して凄まじく、おぞましいものになっていた。
全身は深い紫色に染まり、皮膚は獣の角のように硬く変質していた。
首から肩にかけて垂れ下がる膿 の塊は黒みがかった赤い光を帯びながら、じわじわと床へと滴り落ちていった。その背中からは、巨大な棘 のような突起がいくつも突き出ていた。
筋肉は異常なほど膨れ上がり、腕と脚には幾重にも折り重なった捻れた皮膚の層が固まって貼りついており、まるで鎧のような形をなしていた。
その手は、もはや人間のものではなかった。石のように粗い表面からは鋭い鉤爪 が生え、動くたびに皮膚の下で何かがうごめく気配が透けて見えた。
「ようやくまともな武器を抜いたか。」
ミュイドックが嘲りを含んだ声で言った。
「だがその程度では足りんだろうな、ドロコよ。」
ニアは答える代わりに、両手で剣を握り、低く構えた。
ミュイドックの圧倒的な威圧感に息が詰まりそうになったが、ニアは顔を上げてミュイドックを真っ向から睨み返した。
「行くだる!」
ニアが大きく叫びながらミュイドックへと突進した。重い剣身が空気を断ち切り、ミュイドックの脇腹を狙う。しかし剣が彼の硬化した皮膚に触れた瞬間、鋭い金属音が鳴り響いた。
――カァンッ!――
剣身はその表面を滑るように弾き返され、ミュイドックは余裕の笑みを浮かべながらニアの攻撃をかわした。
「その剣でこの鎧が斬れると思ったか?」
ニアは攻撃の手を止めなかった。
体を捻り、下から上へと剣を斬り上げてミュイドックの胸を狙う。しかし今度もニアの剣は彼の硬化した皮膚に阻まれ、傷一つ刻むことができなかった。ミュイドックは片手で剣を弾き返すと、反撃とばかりに鉤爪の光る巨大な手を振り出した。
「無駄だ!そんな剣では私は斬れん!」
ミュイドックの手が空気を切り裂いて迫る瞬間、ニアは体を低くして躱し、横へと転がった。
「はあっ……はあっ……。」
ニアは荒く息を吐きながら、再び構え直した。
ミュイドックの硬化した体は、まるで何らかの魔法の鎧のようだった。ただ硬いだけではなく、剣身が触れた瞬間に微かな波動が走り、衝撃を吸い取るように見えた。
ミュイドックはゆったりと剣を持ち上げながら言った。
「膿の君主ニドラスの加護とはこういうものだ。いくらあがいても、私の体に傷一つ刻むことはできない。」
ニアは再びマナを集中させ、両手で剣をしっかりと握り直すと、もう一度ミュイドックへと突進した。
今度は彼の膝を狙い、速く鋭い斬撃を試みた。しかし剣身が触れた瞬間、ミュイドックの脚もまた硬い表面を露わにして、強烈な金属音を響かせた。
――カンッ!――
『180金貨』の刃が弾かれ、ニアの体勢が一瞬崩れた。
ミュイドックはその隙を見逃さなかった。巨大な手を伸ばして掴みかかろうとしたが、ニアは紙一重で後ろへ退いた。
「ふふふふふふ。どうだ?もう限界だろう?」
ミュイドックは笑い声を上げながら、剣を大きく振るった。剣先から飛び散った黒みがかった赤い膿が甲板に落ちると、焦げるような臭いとともに黒く抉れた跡が広がっていった。
「ニドラス様の力を宿した、この私の指先から滲 み出る膿が……ゆっくりと、お前を喰らっていくだろう。」
ミュイドックはさらに攻撃の体勢を取りながら、剣を高く振り上げた。周囲の空気を歪めるほどの強烈な気が、剣から迸 り出た。
ニアは重い息を吐きながら、再び体を低く落とした。単純な力でミュイドックに対抗するのは不可能だと悟っていた。
ニアは荒く息をしながら、柄 に巻かれた革紐がきしむほど強く『180金貨』を握りしめた。
『これで……必ずやり遂げないといけないだる。失敗は許されないだる……。』
ニアの視線は、甲板の片隅に倒れているダレンへと向いた。その瞬間、何かを決意したように、ニアは大きく息を吸い込んだ。
「ダレエエエエン!」
ニアの声は、船体が震えるほど大きく響き渡った。
「う……うぅ……はい……。」
ダレンが力なく頭を持ち上げながら応えた。
ニアは甲板の端へと歩み寄りながら叫んだ。
「ダレン!あの下、船の近くの岩場にマウがいるだる!そこまで行けばいいだる!そこなら安全だる!」
ダレンはニアの言葉を受け、ゆっくりと頷くと、静かに翼を広げた。
「わかりました、ニア……。どうかご無事で!」
ダレンが飛び立ち始めた。羽ばたきはぎこちなく、風に何度も押し流されながら揺れたが、彼は一切迷うことなく前へと進んでいった。
「どこへ行こうというのだ、ダレン!」
ミュイドックの低い声が甲板に響いた。彼はゆっくりと甲板の端へと歩み寄りながら、異様に捻れた手を伸ばした。ミュイドックの手は蛇のように長く伸び、空気を裂きながらダレンへと素早く迫っていった。
ニアは、それを予期していたかのようにすぐさま動いた。
「その化け物手は私が止めるだる!」
ニアはミュイドックの手を弾き返すと、その手を足場にするようにして軽やかに高く空へと跳び上がった。
そして宙に舞い上がりながら、グラベルとのある日のことを思い出していた——
『 少し前、穏やかなある日のこと。
柔らかな陽光が、森の中の空き地を明るく照らしていた。風はほどよく涼しく、木々の葉の間から聞こえてくる鳥のさえずりが、一層の平穏を添えていた。
グラベルは空き地の真ん中に腰を下ろし、剣を磨いていた。その手つきは滑らかで静かで、剣身の上を銀色の光が揺れていた。
ニアはその傍 らに座り、草の上で片手に小さな紙を握っていた。紙には太い文字でマナ脈の名前が書き並べてあったが、ニアの顔はひどく苦々しそうに歪んでいた。
「うーん……うーむ……マナ脈の名前、難しすぎるだる。紙に書いて見ても、全然覚えられないだる……。」
ニアは口を尖らせながら、紙をぱらぱらとめくった。
グラベルは顔を上げてニアを見ると、静かに微笑んだ。
「ははっ……マナの修練というのは大変なものだよ。私もいまだにいくつかのマナ脈の名前は混乱することがある。でも慣れれば大丈夫さ。焦らなくていい。」
グラベルは磨いていた剣をそっと置き、ニアへと笑顔を向けながら言った。
「それでもニア、お前が一生懸命やってきたことはわかってるよ。そろそろお前のレベルに合った新しいスキルを一つ教えてやらないといけないな。」
ニアの耳がぴんと立った。たちまち表情が明るくなり、キラキラとした目でグラベルを見上げた。
「本当だるか、カルカ?新しい技だって!早く!早く教えてほしいだる!」
いつの間にか紙はニアの手から消え、両手が膝の上でぎゅっと重ねられていた。
グラベルはそんなニアを見ながら、意味深な笑みを浮かべた。
「ただし、このスキルはむやみに乱用してはいけない。それから……」
彼は顔を空へと向けながら言葉を続けた。
「実はね、お前以外にはたった一人にしか教えていないスキルなんだ。」
ニアの目がさらに大きく開いた。
「それは誰だるか?」
ニアの声には、好奇心と期待が溢れんばかりに滲んでいた。
グラベルの表情が、一瞬どこか遠くを見るように翳 った。
「ドロロ様だよ。」
彼は剣身を手でそっとなでながら続けた。
「前にも話したよね?私がいた世界で龍刀帝と呼ばれていたドロロ様のことを。あの方も、このスキルをとても気に入って、よくお使いになっていたんだ。」
ニアの瞳がぱっと輝いた。
「龍刀帝!ドロロ!ドロコに似ているドロロ様!ドロロ様が絶賛した技なら、本当にすごいやつじゃないだるか?その技を教えてくれるだるか?早く教えてほしいだる、カルカ!」
ニアは体を前のめりにして、両手をぶんぶんと振った。子どものように浮き立ったニアの様子に、グラベルは片手を上げて制しながら笑った。
「ははははっ、そんなに急かさなくても教えるから落ち着きなさい。ただ、一つだけ肝に銘じておくことがある。」
その声はいつの間にか、真剣なものになっていた。
「このスキルはマナの消耗が激しい。それが唯一の欠点だ。しかしその分、強力だよ。適切な場面で使えば、いつかお前も手こずっていた相手を一気に制することができるようになるだろう。おそらく今のお前なら、一度くらいは……」
ニアは口をしっかりと引き結び、こくりと頷きながら両の拳をぎゅっと握りしめた。
「うおおおお……教えてほしいだる!その技!」
ニアの瞳には、決意と情熱が満ち満ちていた。』
そして再び今、ミュイドックとの戦いの中で——。
甲板の上に立つミュイドックの姿を見下ろしながら、ニアは空中で力強く叫んだ。
「トクトゥラの石の棍棒だる! Toktura kulob na dutse!」
その瞬間、周囲の空気が重くなり、甲板の上と洞窟の天井から小さな石の破片が静かに浮かび上がり始めた。
風が石の破片を包み込みながら、ニアの剣身へと集中していった。
――フウウン……フウウウ――
石の破片がみるみる速度を上げながら集まり、『180金貨』を包み込み始めた。
石が触れた瞬間、まるで溶け込むようにして剣と一体となり、続けてさらに大きな岩石が周囲から分離されて飛来した。
甲板下の船体の破片、近くの岩場の欠片まで、虚空を裂いて剣身へと吸い寄せられていった。
――ドンッ!ズガァン!クワァン!――
石の破片が巨大な塊となって合わさり、ニアの体をはるかに超える、重々しい石の棍棒が形作られた。
棍棒は剣身の切っ先を中心に長い螺旋を描き、洞窟の天井に頭が届きそうなほどの大きさで、まるで巨人が振るうような、途方もなく大きな石の棍棒だった。
それはただの石の塊ではなかった。表面には砕けて欠けた鍾乳石 の破片が幾重にも積み重なり、光を受けると金色と黒が交差して、ぞっとするような気配を帯びていた。
ニアはトクトゥラの棍棒を両手でしっかりと掴んだ。ニアの手から強烈なマナが迸り、棍棒全体を包む光が激しく揺れ動いた。
「これで終わりにするだる!」
ミュイドックの目にも、初めて驚きと狼狽 の色が浮かんだ。
「これは……一体何だ?」
ニアは荒く息をしながら、もう一度棍棒を握り直した。
「ニドラ……ニドラスの力も、この棍棒には通じないだる!」
ニアの全身から放たれたマナが、トクトゥラの石の棍棒をさらに巨大で重いものへと変えていった。棍棒はもはや船の甲板全体を覆い尽くすほどの大きさとなり、ニアは荒く息をしながら両手でそれをしっかりと握り続けていた。
「うあああああああっ!」
ニアの叫びとともに、棍棒が頭上へと高々と振り上げられた。周囲の空気さえも揺らすような重さが、辺りに満ちていた。
ミュイドックは初めて目の前の光景に動揺したような表情を浮かべ、両腕を前に突き出した。これまでどんな攻撃も弾き返してきた硬化した皮膚と鋼鉄のような体も、この棍棒の威力だけは尋常ではないと、本能的に感じ取っていた。
「私がこれを防ぎきれないとでも思っているのか!」
ミュイドックは吠えながら両腕を交差させて棍棒を受け止めようとした。しかし棍棒が彼の腕に叩きつけられた瞬間、圧倒的な力が彼の体全体を押しつぶした。
――クワクワクワァァン!――
棍棒がミュイドックの腕と激突した地点から、巨大な衝撃波が生じた。その力はミュイドックの体を後ろへと押し流しながら甲板を粉々に砕いた。木と金属で構成された船体は瞬く間に崩れ始め、船全体が不安定に歪んで激しい破壊音が鳴り響いた。
「うあああああっ!」
ミュイドックは棍棒の圧倒的な重みと力に耐えきれず、甲板の下深くへと叩き込まれた。しかしそれさえも終わりではなかった。棍棒が押し込み続ける力によって船体がじわじわと沈み込みながら、裂け始めていった。
――クワァン! ガァアア!――
巨大な石の棍棒はミュイドックへと向けて、止まることなく打ち下ろされ続けた。
甲板が激しく揺れ、中心部から巨大な亀裂が走り始めた。均裂は容赦なく船の中心を走り、船尾と船首へと瞬く間に広がっていった。
衝撃の中心では木が砕ける音と、ひしゃげる轟音が立て続けに炸裂し、船体の底にまで圧力が及んで、船はどんどんと崩壊していった。
みるみるうちに船体が左右に引き裂かれ、真っ二つに割れた帆船の残骸が力なく沈み始めた。
ミュイドックは石の棍棒の下で持ちこたえようとしたが、すべてが崩れ落ちる中で、その姿もまた完全に飲み込まれていった。
ニアは棍棒を打ち下ろしながら、全身のマナを絞り尽くしていた。
ニアの体はすでに限界を超えており、強烈な光とともに棍棒は少しずつ小さな石の破片となって崩れ、消えていった。
「はあ……はあ……。」
ニアは膝をついて、荒く息を吐いた。トクトゥラの石の棍棒は、その強大な力と引き換えに、ニアのマナを完全に使い果たしてしまう危うさを持った技だった。しかしその結果は明らかだった。船は完全に破壊され、ミュイドックの姿は帆船の残骸の中にどこにも見えなかった。
「か……っ……ったんだる……。」
ニアはかすかに笑みを浮かべながら、頭を上げて空を見上げた。
遠くからマウとダレンの声が、ニアの耳に届いてきた。
「ニア!ご無事ですか!」
「ニア……ここにいるだる……!」
ニアは力なく手を上げて振りながら、二人の声に応えた。
体は完全に使い果たされていたが、勝利の余韻 は、ニアの胸の奥深くにしっかりと刻まれていた。
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