149話 ラトゥール洞窟道 (11)
ニアはダレンをしっかりと背負い、暗い通路を抜け出そうと急いで体を動かした。
頭上から滴り落ちる水の音が、静まり返った空気をさらに重くしていた。息が次第に荒くなっていったが、一刻も早くこの船を出るために、さらに足を速めた。
「もうちょっとだる。」
ニアは背中のダレンに声をかけると、階段へと足を向けた。
階段を上ろうとしたその瞬間、背後から忍び寄る冷たい気配 にニアは思わず振り返った。何も見えなかった。しかし本能はすでに危険を告げていた。
「何か変だる……。」
ニアは急いで階段へと踏み出した。しかし最初の一歩を踏み出した瞬間、背後から突風が叩きつけた。
ダレンの重みもあって体のバランスが崩れ、ニアは階段の手すりへと手を伸ばした。
しかし、その試みは無駄に終わった。
深い紫色に染まった巨大な手が闇の中から飛び出し、ニアの肩を荒々しく掴んだ。その手の力はあまりにも強く、ニアの体はまったく身動きが取れなかった。
「うわっ!」
ニアの悲鳴が上がるが早いか、扉が粉々に砕け散る音が続いた。木の破片が飛び散り、狭い通路をいっぱいに満たした。
得体の知れぬ手に掴まれたニアは、瞬く間に|宙《ちゅう へと持ち上げられた。ダレンが背から落ちそうになったが、ニアは離すまいと手に力を込めた。しかし巨大な手は何のためらいもなく、ニアを階段の上へと放り投げた。
衝撃に飲み込まれたニアは甲板の外へと吹き飛び、床に叩きつけられながら荒く息を吐いた。体を起こそうとした瞬間、まだ肩に残る痛みとともに、自分を掴んでいたあの手の感触と姿が鮮明によみがえった。
手は深い紫色に染まっていた。皮膚の表面は滑らかなようでいて、うねるような筋肉の輪郭が浮き出ており、長く鋭い爪が生えていた。手の甲を走る細い血管と黒みがかった赤い斑点は、自然なものではなく、何か歪 んだ存在であることを示していた。
その手は、トロルやスクレッグのような怪物の手に似ていた。
ニアが甲板の上へと視線を向けると、その手の持ち主が姿を現した。
彼こそがミュイドックだった。灰色の肌に深く刻まれた皺、額と鼻、頬に浮き出たいぼが、その不快な外見をさらに際立たせていた。しかしその不快感とは裏腹に、彼の一挙一動には冷静な空気が漂っていた。
ニアはミュイドックから目を離さないまま後退しながら、甲板の片隅にダレンをそっと横たえた。
「くっ……。一体何者だる……。」
ニアが痛みをこらえて顔を上げると、砕けた扉の隙間からミュイドックの影がゆっくりと姿を現し始めた。その灰色の肌と、手に握られた禍々 しい剣が、闇の中から徐々に輪郭を現していた。
「大切な客人と一緒に、どこへ行こうというのだ?」
ミュイドックは低く荒い声で言った。彼がゆっくりと手を持ち上げると、握られた剣の刃が闇の中からじわりと姿を露わにした。
単なる剣と呼ぶには、その外見はあまりにも凄まじかった。長く厚みのある刀身 を持つ形状ではあったが、その表面はどこか異様にでこぼこしていた。
周囲の光が剣の刃に差し込むたびに、剣の表面がゆらめき、奇妙な波のように広がっていった。
ニアは何かがおかしいと感じた。剣の表面が単に粗い金属でできているのではなく、どこか生きているような気配を帯びていたからだ。
剣の中心に沿って流れ落ちる黒みがかった赤い模様の間には、細い亀裂が刻まれていた。
その亀裂の中で、何かがうごめくような動きが捉えられた。
やがて、それが何であるかが明らかになった。
剣の亀裂の間から小さく赤い瞳がゆっくりと目を開くと、ニアをじっと睨みつけてきたのだ。その瞳は、刀身に嵌 め込まれた宝石などではなかった。
まるで生きた存在のように——いや、本当に生きているのかもしれない複数の目が、斬るべき敵を見つけたかのように、ニアの動きを追いながら忙しなく眼球を動かしていた。
「この剣の力が感じられるか?」
ニアはハーフ・スピアとバックラーを取り出して構えた。肩はまだずきずきと痛んでいたが、こんな状況で引き下がるわけにはいかなかった。
「ダレンをここから連れ出すだる。」
ニアは苦しそうに体を起こしながら言った。
ミュイドックはゆっくりと剣を肩に預け、口元に笑みを浮かべた。
「その言葉を言う資格があるかどうか、すぐに確かめてやろう。」
そして彼は一歩を踏み出した。
「私も若い頃は、なかなかの切れ者の冒険者だったものだよ。」
ミュイドックはわずかに口の端を上げながら言った。その声は荒々しくも、どこか妙に穏やかで、聞く者を緊張させる力があった。
ミュイドックはゆっくりと剣を持ち上げ、剣に嵌まった目々がうごめく様を意図的にニアへと見せつけた。
「どうだ?こんな見た目の剣だが、何かを斬るのには何ら問題はないよ。」
彼はゆっくりと笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「料理でも武器でも、見た目が役に立つかどうかを決めるわけではないのでね。」
そしてミュイドックは手に持った剣を甲板へと叩きつけ、強烈な衝撃波を生み出した。
ニアは素早くハーフ・スピアとバックラーを構えて防御姿勢を取った。ミュイドックの最初の攻撃は、鋭い刀身を振るう単純な動きのように見えたが、その力は甲板を裂くほどの威力を秘めていた。
――ガキィィィン――
ニアはその攻撃を横に躱 しながら、ミュイドックへと素早く踏み込み、ハーフ・スピアの穂先 で反撃を試みた。
ニアの穂先はミュイドックの脇腹を狙ったが、ミュイドックは剣の広い面でニアの攻撃を弾き返しながら笑い声を上げた。
「はっはっ!この程度で私がやられると思ったか?」
ミュイドックはもう一度剣を振るった。怪異な剣の瞳がうごめき、奇妙な光を放つことで、その動きが攻撃の軌跡をさらに不規則なものにした。
ニアはその攻撃をバックラーで受け止めながら、隙を突いて彼の腕を狙ってハーフ・スピアを突いた。
穂先が彼の皮膚に触れた瞬間、短いうめき声が聞こえた。しかしミュイドックはまったくひるまなかった。腕を引きながら剣を一回転させ、ニアの頭を狙った。
ニアは素早く体を低くして、ミュイドックの攻撃をかわした。
ニアの体は滑らかに動き、続けてバックラーを使って反撃の準備を整えた。ミュイドックは目の前のドロコの素早い動きを眺めるように首を傾げながら言った。
「ほう、なかなか素早いな。」
ミュイドックは再び攻撃態勢を取りながら続けた。
「だがこの戦いでは、素早さだけで私に勝てると思うなよ。」
ニアはハーフ・スピアをしっかりと握り締めていた。ミュイドックの剣は脅威だったが、ニアの瞳は揺らがなかった。守りと反撃のバランスを保ちながら、じりじりとミュイドックを追い詰め始めた。
ハーフ・スピアの刃がきらめきながらミュイドックの脇腹をかすめた。ミュイドックが剣を持ち上げた瞬間、ニアは好機を逃さず一気に突進した。攻撃は速く、正確だった。ハーフ・スピアがミュイドックの肩をかすりながら、浅い傷を残した。
ミュイドックは血を流しながら後ずさった。その顔が歪み、苛立ちの滲んだ声が漏れた。
「こんな小さなドロコがこれほど厄介とはな。」
ニアは隙を与えず、ハーフ・スピアを連続して突いた。ミュイドックは力任せに剣を振るってニアの攻撃を弾き続けていたが、じりじりと追い詰められていった。彼の剣は重く沈み、息遣いが荒くなっていった。
『仕留められる。』
ニアはハーフ・スピアの穂先にマナを集中させながら、彼の心臓を狙った。しかしその瞬間、ミュイドックは笑みを浮かべながら懐へと手を伸ばした。
「ふむ!これを使わざるを得んとは。」
彼が取り出したのは、銀の鎖に吊るされた古びたペンダントだった。ペンダントは闇の中でかすかに光りながら、ニアの耳を刺激するような波動を放っていた。ミュイドックはペンダントを握りしめたまま、ひとりごとのように呟いた。
「膿 の君よ、この私に御加護を。あなたの騎士は再び戦う準備が整いました。」
ニアは本能的に後ずさった。ペンダントから伸びた黒みがかった赤い光がミュイドックの体を包んだ。その光は生き物のようにうごめきながら、彼の皮膚の下へと染み込んでいった。
やがてミュイドックの体が変わり始めた。
皮膚が深い紫色へと変色し、あちこちから膿が噴き出した。腕と脚は長く、いびつな形へと変形し、指先には鋭い鉤爪が生え出した。顔は長く伸び、歯がずらりとむき出しになった。その瞳は光を失い、虚ろな穴のように変わり果てた。
「これが、膿の君ニドラスの加護を受けた騎士の姿だ!」
ミュイドックは変わり果てた自身の姿を誇示するように剣を持ち上げた。剣の瞳たちも彼の変化に呼応するかのように、さらに強く光りながら生々しく蠢いた。
ニアは再び手に持ったハーフ・スピアを握り直しながら言った。
「うわ……気持ち悪い変わりようだる。」
ミュイドックは低く笑った。
「どこまで持ちこたえられるか見てやろう。いくら足掻いたところで、小さなドロコごときが太刀打ちできる力ではないのだからな!ははははっ!」
彼は剣を振り下ろした。今度はべとついた膿が飛び散った。ニアは横に転がって躱したが、膿が甲板に触れた瞬間、木が溶け崩れて穴が開いた。
「木が……。気をつけないといけないだる。」
ミュイドックは変化した体に自信を得たように剣を振り回しながらニアへと近づいた。
「ふふふふ。今の私を相手にできると思うか、ドロコよ?」
彼は剣を大きく薙ぎ払った。ニアは瞬時にバックラーを持ち上げて防御姿勢を取った。剣がバックラーに当たった瞬間、凄まじい衝撃がニアの腕を駆け抜けた。バックラーが大きく揺れ、ニアの体が後ろへと弾き飛ばされた。
ニアは吹き飛びながら甲板の上を転がって止まったが、腕と肩がずきずきと疼いていた。
「なかなかやるじゃないか。しかしどこまで持ちこたえられるかな?」
ミュイドックは剣を甲板へと叩きつけた。強烈な力が甲板を砕き、木の破片が四方へと飛び散った。破片のいくつかがニアをかすめ、ニアは素早く横へ転がりながらダレンへと飛んでくる木の破片を弾いた。
「ふふふ……少し強く叩きすぎたか?船体ごと壊れてしまいそうだな。この力を使うのはずいぶんと久しぶりでな。」
ミュイドックの低く荒い笑い声が響き渡った。彼は再び剣を横へと薙ぎ払った。甲板の一部が裂け、ニアの足元が揺れた。ニアは踏ん張りながら、遠ざかるミュイドックを睨みつけた。
「動きが雑だる……。力は強いが、隙がある、だる。」
ニアは慎重に体を低くしながら、ハーフ・スピアを握り直した。
ミュイドックはニアの意図を見抜いたかのように笑いながら言った。
「私の隙を探ろうとしているようだが、お前が思うほど簡単ではないぞ。」
彼は今度は剣を頭上へと持ち上げると、上から下へと強く叩きつけた。
――ズガァッ――
ニアは素早く横へ転がって攻撃を躱したが、剣の当たった箇所で甲板が大きく割れた。木が裂けて深い亀裂が走り、風がその隙間を縫って吹き荒れた。
「動きは速いな。だがそれにも限界があるだろうが!」
ミュイドックは再び剣を横へと大きく薙ぎ払った。このときニアは、剣の長く重い軌跡を躱して狭い空間へと移動しながら、ミュイドックの背後を狙った。
その瞬間、ミュイドックはニアへと頭を向けた。
「背後を狙うとは——そう簡単にはやられてやらんぞ。」
彼は片手で剣を振り回しながら後ろを塞いだ。剣先が甲板を削って火花を散らし、ニアは急いで体を低くしてかろうじて躱した。剣はニアの頭のすぐ上をかすりながら通り過ぎた。
「どれだけ素早くても、ニドラス様の力の前では何の意味もない!」
ミュイドックが叫びながら剣を振り下ろそうとした瞬間、ニアはその動きを見切り、一気に前へと突進した。
マナを纏わせたハーフ・スピアで彼の喉を狙って突こうとした。しかしミュイドックは素早く反応し、剣を下ろしてニアの攻撃を弾き返した。その衝撃でニアの腕が揺れ、ハーフ・スピアがしばし方向を失った。
「疲れてきたか?そんなに早くへばられては困るな!」
ミュイドックは剣を横へと回して再び大きく薙ぎ払った。剣が空気を割る音が荒々しく鳴り響き、ニアは力を振り絞ってバックラーを持ち上げてその衝撃を受けた。しかし今度は完全には防ぎきれなかった。
ニアの体が強く弾かれて甲板の端まで追い込まれた。かろうじて踏み止まったが、腕に残った衝撃はまだ震えていた。
「ははははっ!」
ミュイドックは剣を持ち上げながら、最後の一撃を放とうとするようだった。しかしニアは後ろへ引かなかった。再びハーフ・スピアをしっかりと握りながら姿勢を整えた。
「マナを……もっと……集中させないといけないだる!」
ミュイドックが剣を振り回しながら前へ出てきた瞬間、ニアは好機を逃すまいとすぐさま突っ込んだ。ニアの穂先はまっすぐにミュイドックの胸を狙って迫った。しかし穂先が届く寸前、ミュイドックの巨大な手がニアへと素早く動いた。
その手はすでに異常なまでに大きくなっていた。普通の手の何倍もあろうかという大きさで、深い紫色を帯びた皮膚は石のように硬そうだった。指の一本一本が恐ろしいほど長く伸び、その先端では鋭い爪が光っていた。
――ガンッ――
巨大な手のひらがハーフ・スピアの刃をがっちりと掴むと、鋭い金属の悲鳴が響いた。まるで鋼鉄ではなく柔らかな木でもあるかのように、ミュイドックの手に包まれたニアの武器がじわじわと歪みながら、軋 む音を立てた。
「ははははっ!」
ミュイドックの指先から怪異な黒みがかった赤い液体が流れ始めた。その液体はハーフ・スピアを伝って広がりながら金属の表面を蝕 んでいった。みるみるうちにハーフ・スピアはでこぼこした錆 の塊のように変わり始め、ニアはハーフ・スピアを握っていた手を離さざるを得なかった。
「さて、腰に差したあの長い剣を抜くつもりか?」
ミュイドックは笑い声を上げながら、巨大化して変わり果てた手を前へと突き出した。ニアは息を整えながら、新たな策を練ろうとするかのように彼の動きを見据えていた。
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