148話 ラトゥール洞窟道 (10)
しばらくして。
倒れていたグロイがうめき声を漏らしながら、ゆっくりと体を起こした。彼の大きな手が傍らに落ちた折れた剣を手探りし、柄を握りしめると、よろめく足取りでアリナへと近づき、彼女の体を掴んで引き起こした。
「アリナ……まだ終わっちゃいないぞ。」
その声は低く荒かったが、怒りと屈辱感が色濃く滲み出ていた。アリナは霞 んだ目でグロイを見つめたが、唇を噛んで頷いた。
「覚えておくがいい……赤いドロコ。」
グロイは眉間 に深いしわを寄せたままニアへと言い放つと、アリナを肩に担ぎ上げた。
折れた武器のせいで巨大な体のバランスはやや崩れていたが、やがて足を踏み出し始めた。
「覚えておけ……今はここで退くとしても、いつか……必ず復讐してやる。」
グロイはゆっくりと背を向け、歩き始めた。その足の下で砕けた刃の破片が音を立て、重い息づかいが闇の中に長く響いた。
遠ざかる二人の後ろ姿を、ニアは無表情な顔で見つめていた。しばらくその背中を眺めていたニアは、静かにハーフ・スピアを腰に収めた。
「ふん。覚えておくだる。」
ニアは淡々と言った。
そんなニアの様子を見て、マウは苦笑いを浮かべながら首を振った。
「クハハ!まあ勝ったんだから良かったさ。次もそうできるかどうかは……知らないけどな。」
ニアは片手で顎を支えながら、遠ざかるグロイの姿をもう一度眺めた。
マウは疲れ果てた息をつきながら、岩にもたれて座っていた。その傍らにはニアが立ち、静かにマウの傷を見つめていた。
「クッ……クッ……。ニア、悪いが……俺はちょっと休まなきゃならなそうだ。」
マウは息を荒げながら、低く掠 れた声で言った。
彼の上半身はあちこちが裂けた衣と血で汚れていた。裂けた皮膚の隙間から筋肉が露 わになっている箇所もあり、肩から腰にかけて走る深い傷は、見るだけでその苦しさがありありと伝わってきた。血はすでに固まって黒ずんだ瘡蓋 を作っていたが、一部ではまだ赤い血がゆっくりと流れ落ちていた。
ニアは膝をついて座り、彼の腕を調べた。裂けた肉と青く腫れた皮膚を確かめていたニアが言った。
「傷が深いだる。」
「あの女……かなり強かったな。昔ペストロナクの山道で出くわした盗賊どもとは、レベルが違ったぜ……。」
マウは苦く笑った。
ニアは頭を垂れた。
「ここで休んでいるだる。一緒に行っても危ないだけだる。」
「それはそうだが……一つだけ頼みがある。」
マウはゆっくりと顔を上げた。疲れ果てた中でも、その眼差しは揺るぎなく真剣で、断固としていた。
「ダレンは俺にとって、たった一人の友だ。必ず連れて帰ってきてくれ。」
「わかっただる。」
ニアの口元がわずかに上がり、マウへと微笑んだ。
「ダレンを頼む、ニア。」
ニアはしばらく沈黙した。マウの真剣な眼差しをじっと見つめてから、静かに頷いた。
「わかっただる。ダレンを連れてくるだる。心配しなくていいだる。」
ニアが立ち上がり、帆船へと足を踏み出そうとしたその瞬間、再び身を翻 してマウへと近づいた。
ニアの手がゆっくりと衣の中へと入ると、古びた瓶を一つ取り出した。瓶の中には薄い赤みがかった液体が収められていた。
「これを飲むだる。痛みを和らげてくれるだる。」
ニアから受け取った赤い液体の入った瓶の蓋を開け、マウは一息に薬を流し込んだ。苦そうに顔をしかめたが、やがて荒れていた息が少しずつ落ち着き始めた。
「おっ……だいぶ楽になった気がするぞ。ありがとうな、ニア!」
マウは薬を飲み込みながら、深く息を吸い込んだ。その表情が次第に和らぎ始めた。
「薬が少しずつ効いてきてるから、すぐ動けるようになるさ。すぐに追いかけるよ、ニア。」
マウはゆっくりと体を起こそうと努めた。苦しそうに顔をしかめたが、その手は依然として力強く岩を突いていた。
ニアはマウの顔をしばらく見つめた。そしてすぐに頷き、彼の言葉を受け入れた。
「なら待っているだる。必ず来るだる。」
マウは無理に笑みを浮かべながら、ニアを送り出した。ニアは最後にもう一度だけ振り返ると、駆け出していった。
*****
マウを後にして駆けていったニアの視野に帆船の姿が入ってくると、ニアはしばらく立ち止まり、船を観察した。
黒く染まった帆は風にゆっくりと揺れていた。船体の脇には太い縄と頑丈な木製の足場が絡み合い、その下には重厚な滑車 が木組みに固定されていた。
滑車は長年使われてきたのか、べたついた油で光っており、滑らかに動くかどうかは疑わしかった。ニアは素早く周囲を見渡した。船の警戒は緩そうに見えたが、軽率には動かなかった。
ニアは滑車に繋がれた縄と木製のレバーを確かめた。荒れた縄は複数の縄を固く撚り合わせて作られており、レバーは手の平が触れるとつるりとした感触が伝わってくるほど磨り減っていた。滑車の木枠は長年の使用による摩耗の跡があったが、それでも頑丈そうだった。
ニアはゆっくりとレバーを引き、滑車を動かした。カタカタと音を立てながら縄が上へと巻き上げられ、ニアが立っている狭い木製の足場が動き始めた。上がっていく間、軋 む音が木枠から鳴り響いた。ニアは背に負った自分の剣『180金貨 』を手でもう一度確かめ、気を引き締めた。
滑車の縄がじわじわと巻き上げられていくにつれ、ニアの目にはだんだんと甲板が近づいてきた。
風に揺れる帆が、軋む音とともにゆっくりと視野に入ってきた。滑車がガタンと止まった瞬間、ニアは慎重に木製の足場から甲板へと身を移した。
甲板は静まり返っていた。人の気配はどこにも見当たらなかった。船員が守るべき持ち場には誰一人おらず、縄や道具だけが無秩序に散らばっていた。古びた樽がいくつかあちこちに転がり、片隅には砕けた木片が積み上げられていた。静寂の中、洞窟の中を吹き込む風が甲板を薙 ぎ、がらんとした音を立てた。
ニアは目を細めながら周囲を見渡した。静寂がより一層警戒心を高めていたが、同時にダレンの匂いがかすかに鼻先をかすめていた。
ニアはゆっくりと息を吸い込んだ。生臭い湖の空気の中に、ダレン特有の匂いが混じっていた。血の臭いと甘い火酒 の匂い、そしてわずかな鉄の臭いが入り混じり、ニアの感覚を刺激した。
「あっちだる。」
ニアは自分に囁くように呟きながら、匂いの方向に沿って進んだ。足音はどんどん静かになり、まるで影のように甲板を滑り過ぎていった。匂いはますます強くなり、ついにニアは甲板の一角にある小さな入口を見つけた。その入口は暗い船室へと続く狭い階段に繋がっていた。
ニアは入口へと近づき、慎重に下を覗き込んだ。階段は闇の中へと続いており、その先から火酒の匂いが漂い上がってきた。
船室へ降りていくにつれ、空気はどんどん重く湿っていった。かすかな酒の臭いとともに、腐りかけた木の臭いが鼻を刺した。ニアは周囲を見回しながら進んだ。
「よく見えないだる……。」
ニアはゆっくりと精神を集中させた。
闇の中でも、ニアがイリスから学んだ視野を強化するマナ脈を使うと、狭い通路を照らしていた小さな赤い油灯の灯りがだんだんと大きくなり、暗い通路の細かな様子が浮かび上がってきた。
通路の壁には古びた油灯から灯された小さな炎が揺れており、その下にはひびの入った酒樽が散乱していた。いくつかの樽は半分ほど空になっており、他の樽からは液体が漏れ出てべたついた染みを残していた。
匂いはさらに強くなった。古い水苔と酒の臭いが入り混じった、刺すような臭いだった。ニアは足音を殺しながら通路の奥へと進んだ。ニアの手は自然とハーフ・スピアへと伸びた。
不快な臭いをこらえながら通路を歩いていったニアは、開いた扉の奥にさらに別の鉄格子が塞いでいる部屋の前で立ち止まった。
鉄格子の中には酒樽がいくつか積み上げられており、その奥の遠くには大きな木桶の中に入っている誰かの姿が見えた。
ダレンだった。
彼の体は桶の中の液体に半分浸かってぐったりと垂れ下がり、いくつも絡まった縄で縛られていた。そしていくつかの縄の端は鎖にしっかりと固定され、鎖の先は壁に打ち込まれた鉄の環に繋がれていた。ダレンの顔は黒い布で覆われており、目と鼻を刺激する火酒の香りが部屋中に充満して、目がひりひりした。
天井から水滴が滴る音が聞こえ、床にはいくつかの酒樽が転がっていた。
ニアが近くへと歩み寄った。鉄格子は幸いにも鍵がかかっておらず、きいっという音とともに簡単に開いた。
「ダレン。」
ニアは低い声で彼を呼んだ。
すると、生ぬるい火酒の入った桶の中で縮こまっていた小さな体が、微かに反応した。ニアの声を聞いたダレンは、体をわずかに捩じって声のした方向へと顔を上げた。
「ニア……?ここへはどうやって来たんですか?」
その声は力なかったが、ニアだと気づいたような震えが感じられた。
「マウと一緒に来ただる。匂いを辿ってここまで来ただる。」
ニアは頷きながら言った。
ニアはダレンのいる桶の傍へと近づき、彼を取り出すために手を伸ばし、両手でダレンの体を慎重に持ち上げた。
濡れてはいたが、ダレンの体にはムワ族特有の軽さが感じられた。ぐったりと垂れ下がった彼の翼は、力なく揺れた。
ニアは彼を桶の外へと取り出し、平らな床に慎重に寝かせた。鎖と縄が絡まって、彼の動きを完全に制限していた。
「これを断ち切らないといけないだる。」
ニアは小さく呟きながら、彼の足首を縛っている鎖を調べた。
ニアは特別な道具を使うことなく、ハーフ・スピアの穂先 にマナを集めた。
するとハーフ・スピアの穂先から微かに輝くマナが伸び出し、縄と鎖を瞬く間に断ち切った。
縄が解けると、ダレンの体が自由になった。
「今度は目隠しも外してあげるだる。」
ニアは最後に彼の目を覆っていた布を外した。充血したダレンの瞳がゆっくりと露わになった。彼は霞んだ目でニアを見つめながら、細い声で言った。
「本当に……ありがとうございます、ニア。」
ニアは軽く頷いた。ダレンの小さな体を軽々と背負って立ち上がると、素早い身のこなしで船室を抜け出す準備を整えた。
「さあ、ここから出るだる。これ以上危なくなる前に。」
ダレンはニアの背に負われたまま、かすかに頷いた。
ダレンを背負ったニアは、狭い通路を抜けて外へ出るために、どんどん足を速めた。船室を出る道にはいつどんな危険が潜んでいるかわからなかったが、ニアは躊躇うことなく前へと進んだ。
ニアの背に負われたダレンは、その小さな体から伝わるかすかな温もりに縋 りながら、ゆっくりと目を閉じた。
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