145話 ラトゥール洞窟道 (7)
「私の言っている意味が、わかるかね、ダレン?」
ミュイドックの声は、長い待ちわびた末にようやく秘密を打ち明けるような、低く柔らかな響きを帯びていた。そして言葉の終わりには、かすかな震えが滲 んでいた。
「わかってもらえるかね? どれほど恍惚 とした味わいであっても……その時間があまりにも短い。」
ダレンはミュイドックの言葉を聞いても、返す言葉が見つからなかった。冷たくねっとりとした空気が部屋の中をただよい、体をぬるく包み込む酒の温度が、かえって肌をぞくりとさせた。ミュイドックの影がゆっくりと近づき、二人の間の距離をじわじわと狭めていった。
近くへ歩み寄ったミュイドックは、微笑みを浮かべながらゆっくりと言葉を続けた。
「歯とともに舌先を立てて、あの小さな鳥の肉を割き、口の中に含み、その味をゆっくりと噛みしめようとしても……。」
ミュイドックは、一度長く息を吐いた。
「あまりにも早く、その時間が過ぎてしまうのだよ。」
その声には抑えきれない昂 ぶりが滲んでいた。そして言葉が途切れた瞬間、ダレンはミュイドックの体から何か鋭く、不安定な気配が噴き出すのを感じた。
ミュイドックはダレンへとそっと身をかがめながら、抑えきれない歓喜が爆発するかのような息を、我知らず吐き出した。
「は……。はは……。はあ……。」
細切れに漏れ出るミュイドックの吐息 が、ダレンの耳にかすかに届いた。
ミュイドックはまるで自分自身に言い聞かせるように、囁いた。
「だが……次に私が味わうことになる……料理は、そう早くは終わらないはずだよ……。そう……。」
不意に言葉が途切れ、闇の中に小さな虫の足音でさえ聞こえてしまいそうな静寂が、部屋いっぱいに満ちた。
そのような静けさもつかの間、部屋の外から響く大きな叫び声が、その静寂を打ち破った。
「うああああ!」
ダレンの頭の中は、たちまち混乱に陥った。外から聞こえてくる正体不明の叫び声は、何かが起きていることを告げていた。
複数の人間の声は次第に近づいてくるようだった。遠くから響く足音に混じって、誰かの低い怒鳴り声も聞こえてきた。そして金属と金属が打ち合う鋭い音も。
ミュイドックの表情が一瞬、険しく歪んだ。彼は部屋の扉のほうへちらりと目をやり、すぐにまた笑みを浮かべた。
「やれやれ、外がずいぶん騒がしいな……。」
その言葉が終わるや否や、暗い部屋の扉がガタンと音を立てて開いた。冷たい空気が部屋へと流れ込み、アリナが姿を現した。
長い髪を垂らしたまま、黒いガウンをまとった彼女は、そのまま部屋へと踏み込んだ。ダレンには彼女の姿を確かめる術がなかったが、その歩き方から滲み出る強烈な存在感は、ミュイドックと似たような気配を漂わせていた。
「アリナ、あなたらしくもなく、そんなに急いで。何事かね?」
ミュイドックが低く問いかけた。その口調からは、突然の彼女の登場を不快に思う様子もなく、むしろ余裕すら感じられた。
「ミュイドック。」
彼女は落ち着いた、しかし鋭い声で答えた。
「外で騒ぎが起きているんですよ。ひょっとすると、あなたが連れてきたそのムワを追って、誰かがここまでやって来たのかもしれません。」
ミュイドックは小首を傾げながら、ゆっくりとダレンへと歩み寄った。その手がそっとダレンの枕元に置かれた杯を持ち上げた。
「追跡とは……。興味深いな。」
ミュイドックは杯をひと揺らしした後、ゆっくりとダレンのほうへ身をかがめた。
「仲間を救いに来たとでもいうのかね? ふうむ……。確かに尾行の気配など、ただの一度も感じたことはなかったはずなのだが。」
アリナは部屋の中をゆっくりと歩きながら、周囲を見回した。その眼差しは部屋のすべてを見通そうとするかのように鋭く、歩きながら室内を眺め回すその指先が、腰に帯びた剣の柄をさらりとかすめた。
「ふふ~ん。やはり私も外へ出てみなければなりませんね。」
「では……。私もすぐに後を追うとしよう。外の様子が気になってきたのでな。」
彼は立ち上がり、ダレンから離れながら、近くに置かれた酒瓶を手に取って言った。
「ダレン、そろそろ君もこの旅路を受け入れなければいけないのではないかね? 拒む理由などないはずだよ。いや……たとえ拒む理由があったとしても……私が強いることになるがね。ふふふふふふ。」
「うう……。」
ダレンは絶えず、心の中で敵意と恐怖がぶつかり合うのを感じていた。目を覆われ、体を縛られ、何もできない自分が、ミュイドックの言っていた小鳥とどんどん重なっていく――その事実に、じわじわと絶望が広がっていった。
*****
アリナが扉を開けて部屋の外へ出ると、ミュイドックもゆっくりとその後に続いた。扉の外へ踏み出した瞬間、二人の眼前に巨大な洞窟の空間が広がった。
洞窟の広大な空間の中央に広がる湖の上には、巨大な帆船が浮かんでいた。それこそがアリナの居処 だった。遠くからでも一目でそれとわかる、大きく目を引く船。そしてその船の上には、暗闇の中でも周囲を明るく照らす光が、洞窟の天井に嵌 め込まれた巨大な水晶から流れ出し、湖の波に静かに映えていた。
湖の上にはアリナの船の他にも数隻の船が浮かんでいたが、ミュイドックとアリナが立つ船が最も大きかった。巨大な帆は暗闇の中でもくっきりと見え、大きな風の吹かない洞窟の中でも、旗がゆっくりとなびき、かすかにはためく音を立てていた。
ミュイドックはアリナとともに甲板の端へと歩いていった。木材が足元できしむ音が耳に届いた。彼は手すりに身をもたせかけ、様々な声が響いてくる下方を見下ろした。
湖の縁、ごつごつとした岩道の合間に、大きな影が見えた。熊のような体格を持つ、巨大な体躯 のマウだった。
遠くからでも、その圧倒的な存在感は際立っていた。彼は対峙 する傭兵たちへ向かって荒々しい声で怒鳴りながら、手を振った。その傍らには、ドロコのニアが短い槍を手に立っており、もう片方の指先でアリナとミュイドックが乗る帆船を指差していた。
二人の周囲には次々と武装した傭兵たちが集まってきた。傭兵たちと向かい合うマウの怒鳴り声は、洞窟の壁に反響して辺りに鳴り響いた。
アリナはゆっくりとうなずいた。
「あなたが連れてきたそのムワを救いに来たようですね。」
その声は鋭かったが、その中にはすでに状況を見極めたかのような余裕が滲んでいた。
ミュイドックは軽く笑い、頭を下げた。
「詫びよう。イクスターンにおいても、尾行の気配など一度たりとも感じたことはなかったのだが……。今回は私が油断したな。」
その言葉は柔らかかったが、その奥には自らの失態への不快感がにじんでいた。
アリナは下方で動く自分の傭兵たちを見つめた。彼らはすでに武装を整え、マウとニアのいる場所へと向かっていた。その口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。
「心配はいりませんよ。あの者たちが上手く片づけてくれますから。いかにあのダウィとドロコの腕が立つとしても、あれほど多くの傭兵を相手にするのは無理でしょう。それに、たった二人じゃないですか? すぐに終わりますよ。私が注ぎ込んだ金貨の価値を、あの者たちがきちんと見せてくれるかどうか、見届けてやればいいだけですよ。」
「あなたがいつも効率よく人を使いこなすのは、よく知っているよ。」
ミュイドックは頷きながら、彼女の言葉を受け流した。
アリナは彼の言葉にも目を向けることなく、続けた。
「それよりも、あの鳥の料理はいつ頃できあがるのですか? あまり時間がかかるようでは、グロイが待ちきれるかどうか、わかりませんよ。」
ミュイドックはしばし考え込んでから、微笑みとともに答えた。
「もうすぐできあがるよ。君とグロイが、待つことの価値を知るほどにな。」
彼の目は、かすかな光の中でも輝いていた。アリナは満足げにうなずいた。
彼女は一歩引いて手すりに立ち、再び下を見下ろした。湖の上を波のように流れる光と影の模様が、彼女の顔に不思議な陰影 を落としていた。
「では、私は行ってきます。あなたはここでゆっくり見物していてください。私はもう少し近くで、あの者たちを見届けてきますから。」
アリナは腰に帯びた剣の柄をかるく叩いてから、素早く甲板の下へと降りていった。ミュイドックは一人残され、再び下方を見つめた。
遠くに動くダウィとドロコ、そして彼らを包囲していく傭兵たちの姿は、盤上 で知略 と洞察を競うルクタ(Lucta)の駒のようだった。
「面白いことになりそうだな。だが、見物はこのあたりにしておくとしよう。部屋に置いてきた我らの大切な小鳥を、一人にしておくわけにはいかないのでな。」
その口元には、変わらず笑みが浮かんでいた。
*****
ダレンは依然として、革紐でしっかりと縛りつけられたままだった。体は酒の気が全身に回ってほぐれていたが、頭の中は複雑に渦巻いていた。部屋の中には、いまだにミュイドックの低く柔らかな声が漂っているような気がした。
『なぜ私は、こんな状況に追い込まれてしまったのだったか……。誰かが……私を助けに来たというのか?』
朦朧 とした意識を立て直そうと息を整えようとした瞬間、部屋の外から聞こえてくる騒々しい音が、さらにはっきりと耳に届いてきた。金属と金属がぶつかり合う音、そして誰かの怒鳴り声が入り混じり、ますます鮮明に響いてくる。
そのとき、扉の外で何かが動くような振動が、人の気配とともに感じられた。部屋の天井が微かに揺れた。埃 がダレンの覆われた目とくちばしへと降りかかり、鼻の中を乾いた土の匂いで満たし、むずがゆさをもたらした。
『またミュイドックが戻ってきたのか?』
「ダレン、この騒ぎが君を救いに来た仲間のおかげかどうかは、もうすぐわかることだよ。だがその前に、私は言いたいことを言い終えたいのだよ。」
ミュイドックの声は落ち着いていたが、その中には相手への奇妙な圧迫感が混じっていた。
ダレンはミュイドックがゆっくりと近づく様子を、耳をあちこちに傾けながら追うほかなかった。その足音は柔らかく遅かったが、部屋いっぱいに満ちた静寂の中では、奇妙なほどくっきりと響いた。ミュイドックは手にした酒瓶をゆっくりと揺らしながら、光を反射する液体をじっと覗き込んだ。
「ダレン……。」
ミュイドックが静かに言った。
「今君が感じているその恐怖は、ごく自然な感情だよ。誰でも自分の理解できないものの前では、恐れを抱くものだ。」
ダレンはごくりと唾を飲み込んだ。大きく飲み込んでも、喉はまたじわじわと渇き始め、ぬるく温もった酒の香りが柔らかく漂い上がって空気を満たす。そしてその空気は煙のように静かに広がり、肺の奥深くへと染み込んでいく……。しかし縛られた体は、依然としてわずかも動かなかった。
「しかし、恐怖だけでは十分ではない。」
ミュイドックがゆっくりと続けた。その声は重みある響きとともに、部屋に満ちた酒の香りの中へと溶け込んでいった。
「君はこれから、新たな世界へ向かう私と私の仲間たちにとって、最も特別な贈り物になる予定だからな……。どうか今日から始まる準備の過程を拒まないでくれ。たとえば……近隣で最上質のものを取り寄せた無花果 や葡萄 を、もったいなくも吐き出してしまうような真似は、してほしくないのだよ。」
ミュイドックは酒瓶をテーブルの上に置いた。その所作でさえも、あまりにもゆっくりと行われた。彼が動くたびに、その影が長い腕のように壁へと伸びていった。
「……自分に何が起きるかも知れない状態で、どうやって覚悟ができるというのですか。」
ダレンは思わず低い声で呟いた。その言葉は、まるで自分自身に問いかけているようだった。
ミュイドックはその言葉に微笑んだ。しかしその笑みは、奇妙で得体の知れない何かを孕んでいた。
彼はゆっくりと身をかがめ、ダレンの顔にほとんど触れるほどの距離まで近づいた。
「選択肢は二つだけだよ、ダレン。受け入れるか、拒むか。だが、あらかじめ忠告しておこう……。」
その声は囁きへと低まった。
「拒むことは、苦痛という過程を増やすだけに過ぎないのだよ。」
ダレンはその言葉を聞き、全身が凍りついた。息をするのさえ苦しいほど体を覆う恐怖は、じわじわと濃くなっていった。
ミュイドックは満足げに頷いてから離れ、テーブルの上の酒瓶から少しの液体を注いで杯を満たした。彼は杯を持ち上げ、くるくると軽く回しながら言った。
「ダレン、君も知ってのとおり、人生で最も大きな悦びと満足をもたらすものには、常に代償 が伴うものだよ。私たちの人生における恍惚とは、その瞬間が短いからこそ一層甘いのだという言葉を、聞いたことがあるかね?」
その言葉が終わりきる前に、部屋の外の遠くから再び響き渡る音がダレンの耳に届いた。金属同士がぶつかる鋭い音、そしてそれに続く叫び声が、どこか近づいてきた。
ダレンの頭の中は、ぐるぐると混乱した。
『外で起きているあれは、いったい何なのか? 私に関係があるのか? それとも……本当にミュイドックの言ったとおり、マウが来てくれたとでも言うのか?』
だが、深く考える間もなく、ミュイドックの言葉がその混乱を断ち切った。
「あの音は気にするな。」
ミュイドックは杯を持ち上げてひと口飲んでから、ゆっくりと言葉を続けた。
「この部屋の中で重要なのは、君と私だけなのだからな。」
ミュイドックは杯を置くと、再びダレンへと歩み寄った。今度はその動きが、以前よりも素早く、鋭く感じられた。
ミュイドックは手を伸ばし、ダレンの顔のすぐそばで止めた。その指先はダレンの顎を指していた。
「恐れるな、ダレン。恐怖は体を硬くするだけなのだからな。」
ダレンはその言葉に、何も返せなかった。ただ頭の中で、ミュイドックがついに自分の想像し得る最も恐ろしいことをしでかすだろうという不吉な予感が、じわじわと膨れ上がるばかりだった。
ルクタ(Lucta)は、駒の配置や規則は現代のチェスとは異なるものの、読みと駆け引きを競う点でそれに近い盤上遊戯である




