143話 ラトゥール洞窟道 (5)
ダレンはロカガの餌屋で最後にもう一度注文を確かめ、そっと扉を押して外へ出た。宿に戻ってマウに見せようと持ち帰ることにした虫餌の入った箱は軽く、通りへと向かう足取りも自然と弾んでいた。
そのまま細い路地へと足を向けると、静かな通りには自分の足音がかすかに反響し、ロカガの店の裏手からはほのかに水の流れる音が聞こえてくるばかりだった。
ダレンは長く細い路地を抜けようとしたところで翼を広げ、ふわりと舞い上がった。角を曲がった瞬間、突然現れた人物と体がぶつかり、肩がかすって金属のかすかな音が鳴り響いた。
――チィン――
ダレンは音のした方へ首を向け、身を縮めながら降り立った。地面に落ちたのは、飾り結びのついたケープの留め金だった。石畳の上に落ちた銀色の留め金が、ほのかに光を反射してきらめいた。
ダレンとぶつかってその場に立ち止まった見知らぬ老人は、細めた目でじっとダレンを見つめていた。ケープを留めていた金具がなくなったせいで、老人の腰まで届く黒いケープがはだけていた。
「あっ、本当に申し訳ありません……」
ダレンは頭を下げて謝った。
老人は地面に落ちた留め金を拾い、ケープに付け直しながら、無言のままダレンを見た。あたりには静寂が漂うばかりだったが、ダレンはこの老人から独特の暗い気配を感じ取っていた。老人の眼差しには、見る者を無言のうちに萎縮させるような、重い何かが宿っていた。
そして老人がダレンのそばへ歩み寄ったとき、鼻先にかすかな匂いが触れた。
ありふれた言葉では表しきれない香り。それは普通の香水でも、天然の香油でもなかった。まるで掘り立ての生姜のように、ほんのり刺激的な気を帯びた香りで、古い落ち葉の山から漂うような、くぐもった湿った匂いがそこに混じり合っていた。
ダレンはその瞬間、背筋を冷たいものがすうっと撫でていくのを感じた。老人はしばしダレンの謝罪を噛み締めるように黙っていたが、やがてゆっくりと頷きながら口を開いた。
「かまわんよ。路地では思わぬことが起きるものだ。」
老人の声は低く、ゆったりとしていたが、ダレンへの不快感や苛立ちは微塵も感じられなかった。
ダレンはそんな老人のおおらかな物言いに、おそるおそる胸を撫で下ろしながら尋ねた。
「ありがとうございます。落とされたその……留め金は、大丈夫でしょうか? 私のせいで……」
老人の胸元で光る留め金を見ながら、ダレンが訊いた。
老人はダレンの問いに少し首を傾け、自分のケープの留め金を確かめてから、再びダレンへと視線を戻した。奇妙な微笑みが老人の口元に浮かんだ。
「問題ない。そう高いものでもないのでな。」
老人は右手でケープの留め金に触れながら、ゆっくりと目を閉じ、また開いた。その静かな眼差しの中には、見る者の内奥を突き刺すような鋭さが宿っていた。動くことのない老人の瞳が、ダレンを捉えていた。
老人がゆっくりと近づいてくると、ダレンは言いようのない居心地の悪さを覚え、思わず視線を逸らしたくなった。老人の手が自然な動作でこちらへと伸びてき、ダレンの目を引きつけた。ダレンは内心警戒しながらも、目を離すことができなかった。
「そうですか……」
ダレンは自然な流れで会話を続けた。
「あ、自己紹介が遅れました。私はダレンと申します。」
ダレンの言葉を聞いた老人は、静かに頷いた。
「ダレン……か。よく似合う名だ。ならば私も名を名乗らねばなるまい。私の名はミュイドック。このラトゥール洞窟から遠く離れたイクスターンから来た者だよ。今回は友人に招かれて、しばらくここに滞在しているのだ。」
ダレンは頷きながらミュイドックを見た。その眼差しと言葉の端々から、奇妙なものが伝わってきた。まるでゆっくりと沈んでいく静かな湖の底にいるような、すべての言葉がゆとりを帯び、無頓着なようでいて、しかしミュイドックから漂う気配は決して軽くなかった。
ダレンはミュイドックとの問答が続くにつれ、ほのかな不安感を覚えていた。言葉は穏やかだったが、まるですべてを見通しているかのようなミュイドックの視線が、彼の心を落ち着かなくさせた。何より老人の眼差しは相変わらず、ダレンを見透かそうとするように鋭く光っていた。
ダレンはこの奇妙な感覚が何なのかを測りかね、少し視線を逸らしながら言った。
「それでは、ロカガさんの店を訪ねてこられたのですか? あそこは釣り人たちの間でも評判の餌がたくさんありまして。特別な餌をお探しなら、おすすめできる場所ですよ。」
「そう聞いたよ。特に質の良いイモムシを扱っていると。このラトゥール洞窟でなければ手に入らない品があると聞いて、わざわざ足を運んだのだ。」
ミュイドックは相変わらずゆったりとした口調で、ダレンの問いに答えた。
「イモムシでしたら……確かに、ロカガさんの店なら良いものが手に入るはずです。」
ダレンは微笑みながら言った。
会話は続いていたが、二人の間にはどこか微妙な緊張が流れていた。老人の声には、言葉にならない不穏な気配がにじんでいた。ダレンはミュイドックの言葉と眼差しに、知らず知らずのうちに引き込まれていく感覚を覚えていた。
ミュイドックとの短い会話で緊張がいくぶんほぐれてきたような気がしたが、すぐにまた老人の眼差しと不可解な微笑みに、ダレンの胸の内は重くなった。
「イモムシを手に入れるための他のご目的でもおありですか? ナマズ釣りにいらっしゃるようには見えなかったもので。」
ダレンは思わず口にしたが、その問いが出た瞬間、少し踏み込みすぎたかもしれないとも思った。
ミュイドックはその言葉を受け、少し奇妙な笑みを浮かべながら顔を向けた。
「実はな、私は自分が求めるものを、自分の目で直接確かめずにはいられない性分なのだよ。」
彼は口の端を少し上げ、ダレンを見つめながら言葉を続けた。
「例えば、このイモムシが本当に他の場所では手に入らない、ラトゥール特有の一品なのかどうかも、自分の目で確かめたかった。ああ……ナマズ釣りのためにイモムシを買うつもりではないことは、一応言っておこう……」
彼はゆっくりと歩を進めながら、地面に落ちていた小石を足先で転がしてみた。その音は静かな路地にひっそりと響き、ダレンの神経をざわつかせた。
「実を言えば、単に餌を探しに来たというより……もしかしたら、もっと興味深い素材に出会えるかもしれないと思っていたのだよ。このラトゥール洞窟には、他の場所では見つけられない特別な存在を宿しているという噂を耳にしていたのでね。」
ダレンはミュイドックの言葉を聞きながら、老人の眼差しから異質な感覚を受け取った。まるで今、自分こそが彼の言う「特別な存在」になってしまったような、不吉な気がした。
「ラトゥール洞窟には、餌だけでなく、特別な職人や品物もたくさんありますよ。」
ダレンは慎重に頷きながら言った。
「他の路地にも、さまざまな道具を売る店がいくつもあります。何をお探しなのかはよくわかりかねますが……」
そんなダレンの言葉を聞きながら、ミュイドックはゆっくりと歩を進め、もう少しだけダレンのそばへと近づいた。老人の瞳には何かを渇望するような色が浮かんでおり、二人の間に緊張が漂った。
「ダレン……そうだ、お前のように翼でラトゥールを隅々まで見渡すムワであるお前こそ、この地をよく知っているのではないか? 例えば、どこで何を売っているか、どこに良い品があるか……。そういったことをな。」
ミュイドックは静かな声で言った。
ダレンはその言葉に、思わず一歩後退した。心の中で警戒心がじわりと芽生えるのを感じた。
「私なんて……商売のために飛び回っているだけです。たいしたことでもありませんし。それにムワとして生まれた以上、飛ぶほうが楽なものですから。はは……」
ダレンはこれ以上余計なことを話したくないとでも言うように、軽く笑いながらミュイドックの新たな問いに、やや肩の力を抜いた様子で応えていった。しかしミュイドックは話の流れを変えながら、再び自分のさりげない好奇心を覗かせた。
「ではダレン、無花果や葡萄といった果物が手軽に手に入る場所はあるかね? 黍や蜀黍も手に入るなら嬉しいのだが。今日は友人たちと料理をしようと思っているのでね。」
ダレンはミュイドックの問いに軽く頷きながら、微笑んで答えた。
「うーん……無花果と葡萄でしたら、ラトゥールの市場にあるデウシ農場の品を取り扱う店で手に入るはずです。黍や蜀黍といった穀物も、おそらくそちらで扱っているでしょう。」
「ほう、デウシたちがここで農場まで営んでいるのか?」
ミュイドックは興味深そうにダレンを見た。
しばし沈黙が流れた。そのとき、路地の入り口の方から誰かの足音が聞こえてきた。
ダレンは反射的に顔を向けたが、すぐに足音は消え、水滴の落ちる音だけが静かにこだましていた。
再び顔を戻すと、ミュイドックの視線は少しもぶれることなく、依然としてダレンへと向けられていた。
「ええ、デウシたちは主に洞窟の外で農場を営み、さまざまな作物を育てているんです。」
ダレンはごく自然に続く問いの中で、この程度の会話であればもうすぐ終わるだろうと思っていた。洞窟の外の農場についてもう少し話すくらいの気持ちで、そこそこ落ち着いていた。
ミュイドックはそこでようやく頷き、ダレンの言葉を聞きながら、静かな眼差しで彼を見つめた。
「では一つだけ聞かせてくれ。果実酒を大量に扱っている場所も、このラトゥールの中にあるだろうか?」
ミュイドックの問いが続く中、ダレンは変わらず穏やかな微笑みを浮かべながら答えた。
「はい。ラトゥールでは、たいていドワーフたちが蒸留所を営んでいます。バリックに詰めたお酒も、ドワーフたちの蒸留所で長い時間をかけて熟成させるんですよ。香りが深くて風味も豊かなので、外からも買いに来る方が多いんです。それと、デウシの醸造所も有名ですから、そちらでも果実酒が手に入るはずです。」
「ドワーフたちの熟成の腕前というのは……ふむ、興味深いな。リンゴの蒸留酒も当然あることだろう……。五樽ほど買えば十分か。」
ミュイドックはしばしダレンから目を離し、路地の奥の暗がりをゆっくりと見渡しながら、思案に沈んでいる様子だった。
ダレンは老人の視線を追うように一歩引きながら、そろそろ別れの挨拶を告げようとした。
「もし機会がありましたら、デウシの醸造所やドワーフの蒸留所に立ち寄ってみてください。お酒がお好きなら、きっと後悔はされないと思いますよ。場所を探すのもそれほど難しくはありませんし。こちらのラトゥールには大きな蒸留所がたくさんありますから。それに蒸留所のほとんどは、デウシの農場から原料となる作物を仕入れていますので、そちらで聞いてみれば、お探しのものを見つけるのも難しくないはずです。」
「そうしよう、ダレン。おかげで今日はずいぶんと特別な時間を過ごせそうだ。思ったよりずっと手間が省けた。」
ミュイドックは満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷いた。
その声が次第に低くなり、まるで静かな波がダレンの意識をじわりと覆っていくようだった。
ダレンはそのとき初めて、全身にのしかかるような奇妙な重さを感じた。
ミュイドックの声が空気の中へと沈み込み、自分をゆっくりと包み込んでいくように感じられ、少しずつ瞼が落ちてくるようだった。老人の声がゆっくりと、深く響きながら頭の中へ染み込んでいく感覚だった。
ミュイドックの声が遠のいていくと思えば、また近づいてきて耳のそばをぐるぐると漂った。老人の姿も揺らいでいくように、ダレンの視界の中でぼんやりとにじんでいった。まるで迫り来る闇に飲み込まれていくような心地だった。
『おかしい……。目が……。一体どうなっているんだ……』
ダレンは、徐々にかすんでいく視界の中で、ミュイドックの姿を少しでも鮮明に捉えようと懸命だった。しかしすでに彼の意識は、じわじわと遠のいていた。
頭が重くなり、最後に視界の中に残ったのは、ミュイドックの冷たい微笑みだった。ダレンの全身をじわりと締め付けるような、ミュイドックのかすかな笑い声が聞こえた。ダレンは最後の力を振り絞って体を震わせたが、やがて意識はかすれ、そのまま深い闇の中へと沈んでいった。
闇の縁で、何かがゆっくりと微笑む影が、揺らめいていた。
ご一読いただき、ありがとうございました。




