137話 イオランタ・スモレン
トル。ラトゥール洞窟道と街を囲むように立派に築かれた分厚い城壁と、高くそびえ立つ堅牢な監視塔の姿を見ていると、長年王国辺境を守り続けてきた要塞のように思える。
ノルワン山脈を貫くラトゥール洞窟の前は、夜を照らす光で染まり、洞窟入口前の広い空き地には荷馬車と露店がずらりと並んだ市場が広がっていた。
様々な品物を売る店が目立つ。露店は主に天幕を張ったり、木製の台を立てて客を迎えている。
天幕の間からは香辛料の香りが幾重にも立ち上り、時には焼いた肉の煙と新鮮な草の匂いが混じり合い、通りすがりの人々の足を自然と止めた。
新鮮な果物と野菜、香辛料、工芸品、家具を売る露店が所狭しと並び、荷馬車は露店の間に適度な間隔を空けて停められ、そのまま移動式の店となって客を迎えていた。
威勢の良いダウィ商人の声が客を引きつけるために活気よく響き渡り、遅い時間であることを忘れさせるほど、市場はランタン、魔石灯、松明などで明るく照らされていた。
市場の中央にはいくつかの小さな酒場と茶店があり、訪れた人々がひと息つけるようになっていた。そんな市場の酒場の一つ、広い天幕の下で灰色の毛並みの分厚い手で客の注文した酒と料理を運んでくる大柄なダウィの主人がいる店に、グラベル一行とマウ、ダレンが腰を下ろしていた。
「どうですか、グラベル様? 直接ラトゥール洞窟の入口をご覧になった感想は?」
遠くに見える巨大な洞窟の入口を、精一杯翼を広げた先で指し示しながら、ダレンがグラベルに尋ねた。
「思っていたのは馬車が通れるくらいの適度な大きさの洞窟だったんですが、こんなに大きな洞窟だとは思いませんでした。」
首を巡らせて遠くのラトゥール洞窟道の入口を眺めながら、グラベルが答えた。
「ふふっ! 高さは400キュビト(200m)、直径は300キュビト(150m)もあります。巨人の軍隊が通り抜けられるくらいの大きさですよ! ただ、その大きさが西の端のアクイルンまで続いているわけではありません。もっと狭い道もありますし、幾つにも分岐していますから。」
「なるほど。」
ダレンは聞く者たちの理解を助けるため、山を貫くラトゥール洞窟道を光で形作って見せた。その光は空間に優雅な線を描き、実際の地形の起伏を細やかに浮かび上がらせた。
「明日実際に通ってみれば、もっと驚くことがたくさんあるはずです。でもお三方はラトゥールを通過する際に宿を予約されていませんよね?」
「宿の予約ですか? あ……ええ、別に予約はしていませんが……。」
「ふむ……。まあ、今回が初めてだと言われましたから、そうでしょうね。よろしければ私とマウが予約した宿に一緒に泊まるのはいかがですか? 値段も手頃ですし、部屋も清潔ですよ。」
「料理の味も抜群です。外に出て別の店で食べる必要がないくらいですよ。」
泡がもこもことグラスいっぱいに溢れるビールのジョッキを掲げて一口飲んだあと、マウが口元を拭きながら二人の会話に言葉を加えた。
「それではお願いします。私たち一行は今回ダムまでの旅が初めてなので、知らないことばかりで。」
「ええ。明日入口で傳書蝙蝠を送れば、宿の予約に問題はないでしょう。」
「ありがとうございます。」
「ありがとうだる。」
グラベルが頭を下げてダレンに礼を述べた。そのとき、店主が運んできた大きな皿に盛られた丸くて平たい魚の焼き物に、全員の視線が集まった。
「川で獲れた淡水ポンパノです! 美味しく召し上がってください!」
黄金色にパリッと焼かれたポンパノの身は柔らかくみずみずしく、香ばしく焼けた皮からは透明な脂が流れ出していた。新鮮なハーブが乗せられ、魚の風味を一層引き立て、隣に添えられた焼き野菜との色合いも美しい。
マウが手に持った二本のフォークを器用に操り、魚の身を丁寧にほぐして、テーブルに座る皆の皿にポンパノの身を分けてくれた。
「たくさん食べてください! 明日は長い洞窟道を進まないといけませんからね!」
ダレンの声はマウとニアには聞こえなかったが、その日二人はポンパノを8匹も平らげた。
<イオランタ・スモレン>
イオランタ・スモレン。トルを守るスモレン男爵家の一員として生まれたこの人物は、普通の女性とはまったく違う人生を歩んできた。20歳を少し過ぎたばかりの若い年齢ながら、ノルワン山脈の下にある巨大な迷宮を探検し、ダンジョン開拓者としての名声を高く築き上げた冒険家こそがイオランタ・スモレンだ。
迷宮の奥深くで発見された魔剣ベラの所有者として、異名「スカーレット・ソード」の名でより知られるイオランタは、本家の街であるトルよりも、地下迷宮の入口があるアクイルンでの名声と人気を高く築き上げた冒険家だった。
50体もの骸骨戦士の群れと、不死の肉体を得るために自らをアンデッド化したリッチを討ち倒したスカーレット・ソードの冒険譚は、アクイルンとエステタ王国西部では既に複数の吟遊詩人によって歌が作られるほど有名で、そんなダンジョンの深部を探検する冒険者グループの一員としてアクイルンでほとんどの時間を過ごしていた彼女が、なぜかトルのスモレン男爵家の城塞内、謁見室にいた。
高い天井と壁に描かれた勇敢な騎士の突進を描いた壁画、そして部屋の随所に飾られたスモレン家の人々の肖像画があった。
赤い髪色には似合わないと思っている濃い緑色のドレスを着た自分の肖像画を、イオランタは眺めていた。
「ふん、似合わないドレスだな……。」
絵の中の自分を見てイオランタが鼻を鳴らした。それから金属の擦れる音を立てて組んでいた両腕をほどき、自分が今着ている鎧に目をやる。
堅牢な革に軽い金属プレートを重ねた鎧。胸と肩に金属が当てられ、基本的な防御力を保ちながらも柔軟性を損なわないため、イオランタが長年愛用してきた一品だ。金属プレートはダンジョン深層で発見されたもので、暗い青緑色を帯びていた。
「そういえばこの鎧も濃い緑色……だよね?」
前腕に当てられた金属板を見ながら、同じ色なのに違う服を着た自分の姿を眺め、イオランタは小さく微笑んだ。
「ラビル様はこんな……鎧より、あんなドレスのほうがお好きだろうな?」
短いため息を吐きながら、イオランタは独り言ちた。ほどなくして、部屋のドアをノックする音が響いた。
「イオランタ様、ダウィ商人のマウとムワ商人のダレンが参りました。」
「お? ようやく来たか! 通してくれ。」
さっきまで浮かんでいた微笑みとは打って変わり、目がきらりと輝いた明るい笑顔でイオランタが答えた。
イオランタの声に呼応するように謁見室の扉が開き、マウとダレンが姿を現した。
「お久しぶりです、イオランタ様!」
ダレンが翼を軽く振って挨拶した。
「おう! ああ、お久しぶりだねダレン。マウも! マウ、背が伸びたか? 6キュビト(3m)くらいだったよね?」
両腕を大きく広げて二人を迎えながら、イオランタが近づいて言った。
「6キュビトにはなってませんよ……イオランタ様……。」
「ははは! そうだったか? 品物は? 私が頼んだ品物はちゃんと手に入れた?」
「あ……それが。」
「あ、そうだな。先に座ろうか? 私が急ぎすぎた。さあ、座って。ダウィ用の大きな椅子もあるから、さあさあ。」
イオランタが手で示したのは、謁見室中央に置かれた濃い色のウォールナットテーブルだった。マウとダレンが席に着き、イオランタも向かいに腰を下ろした。
「ふんふん。じゃあ話を続けよう。香水は手に入れた? ムカラに寄らないかもしれないって言ってたじゃないか。」
体を半分浮かせ、テーブルに飛び乗りそうな勢いでイオランタがダレンに聞いた。
「まずは落ち着いてください、イオランタ様……。ムカラの香水は手に入れました。かろうじて二瓶だけですが。」
「二瓶も? よくやったマウ、ダレン! ははっ、かろうじて二瓶だって! なんと二瓶も持ってきてくれたんだぞ! 代金は払うよ、さあ! さあ!」
ダレンの言葉を聞いたイオランタは笑いながら腰のベルトに手をやり、付いていた袋をほどいてテーブルに置いた。
「ふぅ〜、こんなにたくさんはいりませんよ……。ではまず、持ってきた品物を確認してください。」
魔法で形作った手で袋の中の金塊を素早く確かめたダレンが、もう一本の魔法の手を呼び出して背中の袋から、白い布で丁寧に包まれたガラス瓶を二つ取り出し、テーブルに並べた。
「おお……これがあの有名なムカラの香水……。」
ダレンが置いた透明な瓶の中の黄金色の液体からは、テーブル周りを包み込むほどの強烈な香りが立ち上っていた。
茶色の栓でしっかり塞がれ、その上に蜜蝋を溶かして封印されているはずなのに、表現しがたいほど美しい、陶酔するような香りが漂ってきた。
「開けてもいいかな?」
香水の瓶を手に取り、ダレンと目を合わせてイオランタが尋ねた。
「もちろん。このムカラ産の二瓶はイオランタ様のものですから。」
「それなら……あの袋からダレン、お前が思う適当な金額を取ってくれ。そこまで信頼してるから。」
顎でテーブルの上の金袋を示してから、イオランタは香水瓶の栓を抜いた。
「ふぅぅぅむ……。」
栓を開けた瞬間、テーブルにいる三人の周りに香水の香りが広がった。
最初の香りは一筋の風がそっと巻きつくように繊細に通り過ぎ、息を吸い込んだ途端、黒い雲の奥から差し込む穏やかな月光が暗い夜を優しく染め上げるようにゆっくりと広がっていった。
もう一度深く息を吸うと、すべての音が止まったかのように、イオランタの周りにはその香りだけが空気を支配していた。香りを嗅いだ瞬間、イオランタは現実の地面から足が離れたかのように感じ、目を閉じて恍惚の海に沈み込んだ。
「イオランタ様?」
「…………」
「イオランタ様? いかがですか? いい香りでしょう?」
「うん! ああ、すごくいい香りだ。気に入った。」
急いで香水瓶の栓を閉めながらイオランタが言った。
「気に入っていただけてよかったです。」
「一体何で作ってるんだ……この香水は……。気が遠くなるほどの香りだったよ。」
再び瓶の中の黄金色の液体を見つめながらイオランタが呟いた。
「私の知る限りでは、オリバナムと沈香木から抽出したウード、それにジャコウネコから取ったシベットが入っていると聞きました。」
「蒸留法? そんな方法で得たバラの葉のオイルも入ると言ってたよね、ダレン。それにムカラ独自の秘密の香料も入ると。」
「あ? ああ、そうでしたね。とにかくそんな材料が使われていると聞きました。」
「猫? いい香りがする猫がいるってことか?」
「ええ……この香水のような良い香りではありませんが、香水の材料としてシベットは欠かせないと、ムカラの香水商人が言っていました。」
「ところでイオランタ様、香水は何に使われるんですか? ダンジョン深層に行くと長く洗えないからとか……?」
まだテーブルに残る香りを鼻をひくひくさせて嗅ぎながら、マウが尋ねた。
「何を想像してるんだよ、マウ!」
「い、いや……冗談です、イオランタ様。今マウがひくひくやったのも、さっきの香水の香りがまだ漂っていて……。」
イオランタが腰の魔剣ベラに手を伸ばしかけると、ダレンが慌てて二つの魔法の手を形作って横に振り、なだめようとした。
「ふん! ダンジョンで出会った人にムカラの香水が有名だって聞いたから、気になって頼んだだけだよ。ただの好奇心さ。」
「あ〜そうですか。また何か気に入った……うぐっ、うぐっ…!」
「ええ、好奇心が満たされたようで何よりです。」
ダレンが素早く魔法の手でマウの口を塞いだ。
「それにしても、二人はダムに戻る途中だろ? せっかく会ったんだから、食事でも一緒にどうだ?」
テーブルに置いた香水瓶を再び白い布で包みながらイオランタが聞いた。
「あ……それが、私たちと一緒にダムまで行く一行がいるんですよ。今から行かないと。」
「そうか? それは残念だな。じゃあまたラトゥに戻る機会があったらアクイルンで会おう。酒と食事はその時に回そうぜ。」
「はい。そうしましょう、イオランタ様。それにしてもイオランタ様はアクイルンに行かないとおっしゃいましたよね? だから今日までここトルに香水を持ってきてほしいと頼まれたんですよね。」
「あ? ああ。久しぶりに兄貴とバラ・グラスに行こうかと思ってさ。トルド伯爵様に一緒に挨拶をしようと……。ん? どうした? 何?」
マウとダレンは、口に出せなかった。「ラビル様の顔を見るために可哀想なスモレン男爵様が利用されているんですよね」という言葉を。
「やはりムカラの香水は……ラビル様に良く見せるためだったんですね」という言葉も出かかったが、ダレンの素早いフォローのおかげで、二人の前で魔剣ベラの赤い刃が現れることはなかった。
「いいえ。では次はアクイルンでお会いしましょう、イオランタ様。」
作中に登場した霊猫香を含め、世界には四大動物性香料と呼ばれる香料が存在するそうですね。麝香、竜涎香、海狸香、そして霊猫香。これらはすべて動物の分泌物や体内で生成される特殊な物質を原料としているというから驚きです




