116話 グランドトーナメント (15)
「この木の桶を見てみろ。真っ赤に染まってるぞ。それに傾いたテーブルの端にあったんだから、きっと……血を受け止めてた役目の木桶だったんだろうな。だからこのテーブルは、人魚の解体台みたいなもんだぜ。」
「じゃあ……この香りは?」
「さっきアマード船長が言ってたの、覚えてるか? 人魚の血からは甘くて気持ちいい香りがするから、大陸中の調香師たちが欲しがる最高の原料だってさ。」
席から立ち上がったデナスが、香りの正体とこの部屋の用途を推理し終えた自分に満足げな表情を浮かべた。
「じゃあ早く別の場所へ行こうよ、デナス。」
「そうだな? 待てよ……。血が染みたこの木桶、持って帰って売れるんじゃねえか?」
デナスはテーブルの下の木桶を拾い上げ、テーブルの上に置いた。
「考えてみろよ、ディベルテ。半分閉まったドアなのに、通りかかった俺たちが気づくくらい強い香りがこの部屋から漂ってたんだぜ。」
「うん……。」
「つまりこの木桶も持って帰ってみりゃ、金になるかもしれねえ。斧があれば割って重ねて運べば楽だけど……ここに斧なんかあるわけねえし、とりあえずそのまま持って、他の部屋も探してみようぜ! 運が良けりゃ金になりそうなもんが見つかりそうな気がするんだよな!」
デナスは松明をあちこちに振り回しながら部屋の中を照らした。
「ほら、ディベルテ。お前も探してくれよ。」
「え……うん、探してみるね。」
チャラチャラと割れたガラスの破片を払う音と、湿気を吸った木のドアがきしむ鈍い音が響いた。
「この部屋は……何のための部屋なんだろう?」
小さくて狭いドアを開け、ディベルテが顔を突き出して、人魚の解体台がある部屋とつながる小さな部屋の中を照らしてみた。
狭くて長い部屋の内部には、大きさの違う鉄の鉤が床と壁に立てかけられていた。そして歯の欠けた鋸、小さな鑿と槌、用途すら想像できない形の道具たちまで。
普通ならただの道具置き場に見えたはずだった。でもデナスの言葉通り、ここはセイレーンたちの血を抜いていた部屋の隣だ。となれば、目の前の道具たちは、フォー・フルーに捕らえられた人魚たちのために使われたものに違いない。ディベルテは残酷な道具たちが人魚たちに苦痛を与える光景を想像し、心が重くざわついた。
「これ全部……人魚たちに使われたものなんだ……。」
ディベルテは慎重に足を進め、松明を壁に当てながら部屋の奥へと向かった。
―ガタン―
「ん? 何だ?」
突然吹き込んだ強い風に松明が揺れ、視線が上に向いたせいで足元を見落としていたディベルテの足が、何かを蹴飛ばした。壁にぶつかって音を立てたのだ。先ほど吹いた風が部屋の奥の割れた壁の隙間から来ていたのを確認し、再び松明を低く下げて床を照らした。
「鞘だ……。それにこの跡は……? 人の手のひらの形?」
床に落ちていた剣、そして床を黒ずんだ赤に染めた手のひらの跡。床を引きずられたように、手のひらの跡から伸びる五本の長い線が部屋の奥に向かっていた。
「あの隙間から引きずり出されたのか? 部屋じゃなくて、なんであんな隙間に……。」
何かに引きずり出された手のひらの主が残した激しい抵抗の痕跡は、床に突き刺さった血まみれの爪を見て、さらにその仮説が確信に変わった。そして床に落ちた鞘にディベルテの視線が移る。
「お! 宝石だ。すごい高そうな剣じゃん? デナス! デナス~! ここに高そうなの見つけたよ!」
鞘に埋め込まれたキラキラ光る宝石。埃に覆われて美しい輝きは分かりにくかったが、何個もの宝石で飾られた剣だと分かった。
ディベルテは鞘の前に膝をつき、両手で持ち上げた。
「……」
剣の柄を握り、鞘から剣を抜いた瞬間、ディベルテの動きが止まった。
剣の刃に宿っていた怨念が……。行き場を失った復讐心が、恨みが……。数えきれないほどのセイレーンの苦痛の叫びが、ディベルテに伝わってきた。
グリード・ハープーン・レマートの剣に斬られて泣き叫ぶ人魚たちの声が、絶え間なくディベルテの耳に響いた。
悲嘆。絶望。顔を上げて見上げてもその高さの果てが見えないほどの悲しみが、ディベルテに向かって崩れ落ち、覆いかぶさってきた。
「ほら見て、ディベルテ。俺も部屋の隅でこの透明なガラス瓶を見つけたんだけど、人魚の涙じゃ……ね……? ん? ディベルテ? どうしたんだよ?」
自分の言葉に何の返事もせず、背中だけを見せているディベルテに、普段とは違う異変を感じ取ったデナスがゆっくり近づいていった。
デナスの血が床に飛び散った。
きしむ足音。
嬉しそうに挨拶をしていたリグルドの悲鳴が聞こえた。
レサードの笑い声が消えた。
一人、また一人。フォー・フルー号で聞こえる苦痛の叫び。
アマード船長の頭が。アマード船長の足が。アマード船長の腕が切り落とされる。
きしむ音が速くなる。木の甲板を走る足音。
肉を裂く残酷な音。骨が折れる音。血が滴る音。恐ろしい音が聞こえる。
ヴィーオサの血がフォー・フルーの中に溢れている。
ヴィーオサの血が流れ、フォー・フルーを染めている。
ディベルテの失われた記憶。血の波に洗われて消えた、あの日の記憶。
番外編:波に失われた記憶 ―完―
<番外編:偽りの沼スミレ>
猫の鳴き声が聞こえる。
四角く区切られた倉庫が並ぶ、ヴェス・ディナスの倉庫地区。
それぞれ違う商人連合、大型工房、裕福な貴族たちによって建てられたため、様々な建築様式が混在していて、完全な統一感から生まれる美しさはないが、区画を四角く横切る広い道路と区画の同じ大きさは、多様な倉庫の外観と調和して、ヴェス・ディナスという大都市でしか見られない景観を作り出していた。
そんな数ある倉庫の中でも、区画一つを丸ごと占めるほど周囲の建物に比べて何倍も大きな、バナス家門の紋章が刻まれた巨大な大公家の保管庫が、遠くから見える細い路地の中に深くフードを被った人影が、路地の奥に広がる影の中に身を潜めていた。
黒い影は、狭い風の通り道に吹く夜風が冷たく感じるのか、体を小さく縮め、路地の隅に捨てられた木箱の上に片膝を立てて座り、路地の先の遠く離れたバナス大公家の倉庫へと続く入口をじっと見つめていた。
『ふうう……。監視任務ってのはいつも退屈だよな。』
路地の狭い隙間から見える月と星を眺めながら、男は長くため息をついた。男の名はメレンゾ。アード・カビルから命令を受け、ディベルテの監視役として今この場所に来ていた。
『一体何しに来たんだよ……。こんなところにフェルタ男爵がいるわけねえだろ……。』
気のない表情でメレンゾがぼやく。貴族、それも次の馬上槍試合を控えた人間が、この街の片隅に倉庫ばかり並ぶような場所にいるはずがないと思ったから、任務時間を長引かせるディベルテの行動に不満が溜まっていたのだ。
『早く終わらねえかな。少しでも早く今日の仕事が終われば……門が閉まる前に寄れると思ったのに……。ちっ。』
残念そうに舌打ちをしながら、メレンゾはがっくりと頭を垂れた。
メレンゾは数日前、このヴェス・ディナスに来て気に入った店を見つけた。
マーリン・アンド・アップル。
ヴェス・ディナスの港近くの奥まった路地に、香ばしい揚げ物の香りと甘いリンゴの香りが漂う酒場がある。
古びた建物たちの間の薄暗い路地の、一番奥にあるマーリン・アンド・アップルでは、いつも陽気な笑い声が聞こえていた。槍のように尖った上顎にリンゴを3個刺した看板とは裏腹に、この店で一番よく出るのは、鯛を薄くポーションにして厚めの衣を付けて揚げた揚げ物と、焼いたリンゴを潰して酒と混ぜたトロトロの飲み物、ウェイス・ヘイルだった。
「くうう~ また思い出しちまう……。うまかったよな、あの魚のフライ。」
分厚い魚のフライを、酢と果実の汁で作ったさっぱりしたタレに付けて食べた、あの恍惚の味をメレンゾは思い浮かべた。
甘い鯛の身と濃厚な油の味が、衣のサクサクした音とともに口の中に広がる。そしてその味に油っぽさを感じ始めた頃に、トロトロのリンゴ酒ウェイス・ヘイルで口の中をさっぱり洗い流せば、また油の良いフライド・鯛を楽しめる。
『遅い夜中でも店は開いてるかな……。ああ……鯛のフライ、カロブディフで食ったナマズのフライとは比べ物にならねえ味だったぜ……。』
夜の厳しい寒さを帯びて、服の隙間を這い上がる冷たい風が、温かい空気と客たちの笑い声混じりのおしゃべりでいっぱいのマーリン・アンド・アップルでのあの味を、ますます思い出させた。
『ちっ……。カロブディフに戻ったら、今の仕事なんかやめて料理を習ってみるか。』
メレンゾは今の仕事に疑問を抱いていた。カロブディフで城壁を守っていた兵士時代、素早い身のこなしと弓の腕前を買われてカビル家に見出され、アード・カビルのために働く下っ端になったが、彼の主な仕事は誰かを監視することや、脅迫めいた手紙を届けることだった。
誰にも言えないような、胸を張れない仕事をして生きているという事実に、メレンゾはいつも心の枷を感じていた。
もしかしたらカロブディフで食べていた生臭さが残るナマズのフライの味が今の自分であり、このヴェス・ディナスで味わった旨い鯛のフライが、自分の決意次第で変わる未来かもしれないと、ふと思った。
街の片隅の酒場で味わった料理がきっかけとなって、心の枷を断ち切り、明るい太陽の昇る場所で働けるようになり、仕事を終えたらマーリン・アンド・アップルで見た客たちのように大声で騒いで笑いながら一日を締めくくれるだろうと。
「はあ……。ウェイス・ヘイルに油っぽい魚料理が食いてえ。」
心の中の欲望を口に出したら、胸の中が少しすっきりしたその時だった。
「港の方にあるマーリン・アンド・アップルは、その二つが得意で評判ですよ。」
見知らぬ声がメレンゾの耳に届いた。
「誰だそこ!」
素早く木箱から降りて身を隠したメレンゾが、路地の端から近づいてくる影だけの男に向かって言った。
「あ、驚かせてしまったようですね。くくくく。そこまで警戒しなくても大丈夫ですよ。」
男は笑いながら着ていたケープの襟を開け、中にある徽章をメレンゾに見せた。
「(沼スミレ?) クラトゥ・カビル様のお方ですか? ここへは何のご用で?」
警戒を解いたメレンゾが木箱の後ろから体を起こし、男に近づきながら尋ねた。
「アード・カビル様の手下の方ですよね?」
「ええ。アード・カビル様の命令で任務中ですが……。」
聞き返してきた男にメレンゾが答えた。
「よかったです。先ほどあの分かれ道で見失ってしまって、くっくっく。」
明るい表情で笑い声を上げながら、男がメレンゾに近づいてきた。
「見失ったって……? 俺を尾行してたんですか? どうして……そんな……。」
「あなたと同じ理由です。アード様とハディン様がこの街にいることを、クラトゥ様もご存知なんですよ。だから二人の弟たちがどうしているか、調べて報告するのが私の役目で……。これはこれで、尾行なんて久しぶりでね。」
「は……はは……。」
男の笑い声に合わせてメレンゾも笑い、腰に差した剣の近くに置いていた手を上げて頭を掻いた。
ご愛読ありがとうございました。次回もお楽しみに!




