115話 グランドトーナメント (14)
<番外編:波に失われた記憶>
岩に激しくぶつかる波の音が聞こえてくる。冷たい海風に押されて、フジツボの鎧をまとった黒い岩にぶつかり、白い泡を立てる小さな岩礁と、波が奏でる海の音に、帆柱の先端にある小さなカラスの巣に背中を預けて座り、目を閉じて眠っている男がいた。
目を優しく閉じ、口元に薄い微笑みを浮かべた男は、きっと心地よい夢を見ているようだった。
「···ベ···ル···テ···。」
帆柱の下から、波の音に混じって聞こえてくる声が男の目を覚まさせた。
「う···む···。誰だ···? 誰が俺の名前を···。」
「おーい。おーい。ディベルテ! 起きろよ。」
「(あ? レサードの声か···) え? 俺、寝てなかったよ~ どうしたの?」
うずくまっていた体を起こしたディベルテが、帆柱の下の方へ首を突き出して言った。
「降りてきてあっちの手伝いしろ。手が足りねえんだよ。」
胸に海蛇の形をした刺青を入れた大柄な男が、指先で船の甲板の遠い方を指差しながら言った。
「何事? (船はいつから止まってたんだ?)」
レサードという男の指先を追って視線を移していたディベルテが、目の前に広がる光景を見てハッとして一瞬驚いた後、帆柱に繋がったロープを伝って甲板に向かって降りていった。
岩礁の端の岩には、すでにヴィーオサ号の何人もの船員たちが錨を下ろし、太いロープを結んで岩礁の横にヴィーオサ号を固定する作業に取りかかっていた。
「よっ! ディベルテ。寝坊助が遅れて来たぜ。」
前歯がやたらと大きい出っ歯の男が、船から降りてくるディベルテに手のひらを広げて挨拶した。そしてディベルテに、長い岩を一周して出てきたロープの端を渡した。
「寝てなかったよ、ちょっと考え事してて静かな場所にいただけさ。それよりリグルド、ここは一体どこだ? なんでここに船を止めてるんだ?」
渡されたロープを結んで結び目を作りながらディベルテが尋ねた。
「見たらびっくり仰天するぜ? あっちの大きな岩の反対側に置かれてる巨大な宝箱を見たらな。」
「え? 宝箱? 何言ってんだよそれ。波に流されてきた貨物でも見つけたのか?」
「貨物っちゃ貨物だな。流されてきたのも合ってる。でもその大きさはお前の想像以上だぜ。」
首を傾げて不思議そうな表情を浮かべているディベルテを見て、その様子がおかしいとばかりに笑顔いっぱいの顔でリグルドが言った。
「えー! いったい何なんだよ!」
「自分で確認してみろよ。」
「じゃあちょっと失礼! どんな貨物箱か確認だけしてすぐ戻るよ!」
リグルドが親指の先で手首と首を軽く動かして指し示した大きな岩の方に向かってディベルテが駆け出した。
「うわ! これ··· すごいな···?」
唇を丸くすぼめて大きく開け、感嘆の声を上げながらディベルテが目の前に広がる巨大な帆船を眺めて言った。
岩礁の最も高い岩柱の間に挟まり、フジツボがびっしり付いた底面を水面にさらしたまま、その下に黒い影を落としている艦船の姿を、ディベルテが歩きながら見つめた。
暗礁の森を抜け出そうともがいて止まってしまった船の様子は惨憺たるものだった。船体あちこちに穴が開き、半分傾いた船内へ海水が流れ込み、その中でも水が入らない破れた船体の隙間からは小さなカニたちが行き来して姿を見せていた。
「ふはははは! あの名高いフォー・フルー号と出会うとはな!」
「フォー・フルー? 有名な船なんですか?」
腕組みをして陽気な笑い声を上げながら難破した船の様子を眺めていた男に、ディベルテが近づきながら尋ねた。
「ん? フォー・フルーの名前を知らないのか?」
白髪交じりの髭を撫でながら男がディベルテに聞き返した。
「あ··· えっと、そ、はい···。」
「ほう! あの有名なセイレーン狩人グリード・ハープーン レマートの船を知らないのか?」
「セイレーン狩人? 人魚のこと言ってるんですよね?」
「そうだ。美しい歌声で通りかかる船の船員たちを誘惑して海に飛び込ませて殺す魔物だ。」
「へえ···。そうなんだ。それじゃあの船が?」
「言ったろ。セイレーン狩人グリード・ハープーン レマートの船、フォー・フルー号だって。えい、他の奴らもこっちに来い。全員集めて一度に話した方が口が疲れねえ。」
「はい。船長さん。」
ディベルテに船長と呼ばれた男が、懐から小さな木箱を取り出して中から刻みタバコを手に取りながら、ヴィーオサ号の方へ駆けていくディベルテを見送った。
しばらく後。湿気を吸った焚き火の傍で輪になって座っている船員たちに、ヴィーオサ号の船長であるアマードがセイレーン狩人レマートの話を語っていた。
セイレーンの伝説。人魚の涙はどんな深く切った傷でも癒すという話。この世で最も貴重で幻想的な味だという人魚の肉を食べると、時の川を遡って衰えた肉体を再び健康で力が溢れる若い日の肉体に戻せるという話。
そして船員たちを誘惑して海に引きずり込むセイレーンの歌に対抗するには、全身を帆柱にロープで巻き付けて縛るか、水に浸した綿を耳の穴にぎゅうぎゅう押し込んで歌声を塞がなければならないという話まで。
皆が幼い頃、街の市場で魂を奪われて見入っていた影絵芝居を見るように、アマードの周りに座って彼の語る話に集中していた。
アマード船長の話が長くなるのをとっくに察知したヴィーオサ号のコック長は、焚き火の片側で香辛料を塗った肉を木の枝に刺して焼いていた。
「フォー・フルーの名前は、まさにそのセイレーン捕り用の銛から来てるんだ。2本の鉤がついたクジラ捕り用の銛より鉤が2本多く、銛の大きさを小さくしてセイレーンを捕るのに適したサイズにしたのがフォー・フルーのハープーンさ。深く刺さって抜けねえように作ってあるから、セイレーンたちが手で引き抜けねえんだよ。魚と違って腕がついてる連中だからな。」
刺した肉片をかじって引き抜いた木の棒の先で、もう片方の手で鉤の形を描きながらアマードが言った。
「じゃあ、人魚捕りで有名な船なら···。あの船の中にはキラキラしたものがたくさんありそうですね!」
期待が高まった声でリグルドが言った。
「もう誰かが俺たちより先に訪れてたら···。中身が空っぽの空の船か?」
日焼けした褐色の肌の船員の一人が、しわが寄った鼻の頭から鼻を鳴らしながら言った。
「とにかく腹を満たして、直接行って確認すりゃいいじゃねえか! 違うか? 船長さん。」
群れの中から聞こえた声に、ヴィーオサ号の船員全員が歓声を上げて答えた。
その後、ヴィーオサ号のコック長が準備した料理がさらに出て、アマード船長の話が食事とともに続いた。
幼い頃のアマード船長の記憶。幼い頃見た港に停泊していたフォー・フルー号の姿を、埃の積もった古い本を開いて読むように、周りに座る船員たちにその話を聞かせた。
そしてその記憶の中で最も強く残っている、アマードが見たセイレーンの姿。
海水が揺れる大きな木桶の中、月光を含んだような銀色の長い髪が水面に広がっていた。
その髪の間から覗く顔は人間に似ていたが、瞳は深く冷たい海の色を湛えていた。
滑らかな肩と腰から下は銀色の鱗がびっしり続き、水の中で優しく動く長くしなやかな尾を包んでいた。
アマードはその姿を苦労して記憶から掬い上げ、皆に語った。
そしてしばらく目を閉じて鼻と顎を上げ、あの日の良い香りを再び思い浮かべようとしたが、記憶のあまりに深い隅にあるあの日の香りは再び呼び起こせなかった。
*****
時間がさらに過ぎ、ヴィーオサ号の船員たちはフォー・フルー号の甲板の上に上がっていた。船が傾いているため立っているのも大変だったが、『金になるものを探せば皆で分ける』というアマード船長の短い指示とともに、船員たちはそれぞれ散らばって難破した船の内部を漁り始めた。
「おい~ディベルテ。お前はどこへ行くんだ?」
腹の肉が厚い太った男。ヴィーオサ号の会計士デナスという名の男だった。
愛想の良い顔立ちのデナスは、その良い顔立ちと同じく性格も良く、ヴィーオサ号で彼の友達でない者などいないほどだった。しかしその外見とは裏腹に、金勘定に関しては常に鋭い剣の刃のように鋭く正確に取引相手との交渉を進める男だった。
甲板下へ降りる階段の前に立って頭を掻いているディベルテに、デナスが近づきながら言った。
「うーん···。ずいぶん長い間放置されてたんじゃないか···。こっちの階段は何段かちょっと危なく見えるんだけど。」
下の方へ続く階段を覗き込みながらディベルテが言った。
「むははは 行ってみようぜ! 行ってみよう。人が通った跡がないってのはむしろいいことじゃねえか? 下のどこかに俺たちが持って帰ってやるのを待ってる宝物があるってよ! 行こう、俺が先頭だ!」
-ガシャッ-
「うわあああ~!」
デナスの手に持った松明が大きく揺れ、甲板下の暗い空間に向かって降りていった。
「大丈夫か? 気をつけろよ。足でも折ったら大変だぜ。」
「問題ねえ! 十分に太い足だから折れる心配はねえよ。だから心配すんな!」
後ろから松明を持って階段を降りてくるディベルテに向かって振り返り、デナスが冗談混じりの言葉を投げかけた。
そして再び暗い甲板下の通路に向かって、赤い炎の燃える松明を先頭に掲げて照らしながら歩いた。
「ん? この匂いは何だ? クンクンクン!」
暗いフォー・フルー号の甲板下の通路を歩いていたデナスが足を止め、通路の横の部屋に向かって鼻をひくひくさせた。
「こっち来いよディベルテ。この部屋からいい匂いがするぜ?」
「え? 匂い? ···お··· 本当だ。何の匂いだこれ? 花? 果物?」
「さあ···。花の匂いじゃねえな···。いや? 花からこんな匂いがしたっけ?」
半分壊れてようやくドアの形を保っている木の板を押しやり、デナスが松明を持った腕をぐっと伸ばして、わからない心地よい香りがする部屋の内部を照らした。
「なんか···。薄気味悪いな?」
暗い部屋に照らされたのは、普通の人の腰の高さくらいまである長いテーブルだった。船が揺れるのを防ぐためか、大きな木の根元をそのまま移したような太い脚が広く厚いテーブルの天板を支えていた。
「食堂か? いや、食堂って言うには椅子がないし···。それともフォー・フルー号の船員たちはみんな立って飯食うのか?」
「そんなんじゃないと思うけど···。それに妙に傾いてるな···。このテーブル。」
「床が滑るぞ。気をつけろ。」
「あ? あ···。うん。」
デナスが部屋の真ん中に置かれた巨大なテーブルのほうへ歩いていった。
部屋の陰気な空気が二人を緊張させた。緊張感で生唾を飲む音さえ互いの耳に聞こえるほど部屋の中は静かだった。
「このテーブルからもっと強く匂う気がしねえか?」
鼻から長く息を吸い込んだデナスがディベルテの方へ顔を向けて言った。
「ふうううむ。たぶんそうかも?」
「ん? これは?」
「どうした?」
「テーブルに血の染みか···。ん? これまさか?」
テーブルの上に長く伸びた血の染みの近くに松明を当て、その跡を追って視線を移していたデナスが膝を曲げて姿勢を低くした後、テーブルの下を覗き込んだ。
「何だよ? その下に何かあるのか?」
テーブルの下に姿を隠したまま返事のないデナスに、ディベルテも膝を曲げてテーブル下に体を低くしながら言った。
「ここは···。どうやら人魚を処理してた部屋みたいだな?」
「処理? それどういう意味だよ?」
番外編をお読みいただき、ありがとうございました!いかがでしたでしょうか? 次回の更新もどうぞお楽しみに!




