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110話 グランドトーナメント (9)

<アード・カビル>


ヴェス・ディナスの新市街地、アード・カビルの滞在先。


多数の騎士たちが酒場の周囲を固めている。


酒場の前には珍しい八頭立て(はっとうだて)の豪華な大型馬車が停まっていた。黄金の車輪と扉、踏み台まで金細工(かなざいく)が施された黒い馬車には、カビル家を象徴する高い城壁と分厚い城門の紋章が描かれている。


馬車は現在灯りを落としており、周囲には暗い色の鋼鉄製の重厚な鎧を着た騎士たちが馬に乗ったまま警戒を続けていた。


酒場の中。ホールには酒場の雰囲気には似つかわしくない、金細工が施された魔石灯(ませきとう)がいくつも置かれ、内部を明るく照らしている。


広いテーブルの片側に座るアードは、向かいに座る相手の目を避けるように、テーブルに残る古い黒い染みをじっと見つめていた。


ホールが明るすぎるせいか、普段なら気づかないような多くの染みがアードの目に映る。


翼を畳んで木の枝に止まる鳥、寒い日に丸まって眠る犬、いつか食べたが名前が思い出せない果実に似た染み……。


そんな染みたちを眺めながら、アードは口に出すべき言葉を慎重に選んでいた。


「わざわざ借りるにしても、こんなに暗くて埃っぽい場所を……。」


折り重なった(あご)の肉と、厚く膨らんだ頰。適度に太った中年の男が、酒場の内部を見回しながら言った。


翼を広げた龍の姿を象ったロングチュニックを着て、過剰に飾られた帽子と手袋を持ち、淡黄色の花の香りがする異国の髪油(かみゆ)を塗った男は、自分がいるべき場所とは程遠い、基準からすればあまりにも汚らしい場所にいることに不満を隠せない様子で、顔を大きくしかめてため息をついた。


「それでも……ハディン兄上……ここヴェス・ディナスでは、それなりに……。」


「ふぅぅぅむ?」


ハディンが身体を前に乗り出し、自分の耳をアードに見せながら、不快感たっぷりの顔をした。


「……いえ、失礼しました、兄上。こんな粗末な場所に兄上をお連れして……お許しください。」


顔も上げられず、乾いた唇を何度も湿らせながらアードが言った。


「ふん! まあ、カロブディフやドラスナァルと同じ水準をこんな場所に期待するのは無理か。……そういえばカロブディフにもだいぶ行っていないな。父上は? お元気か?」


「はい、兄上。お元気です。王室でエステタ王国のお役目を果たされる兄上のことをいつも心配され、私に兄上の話をよくしてくださいます。」


「ふふふ。へつらい上手くなったな。もう少し磨けば王室で一席もらえるくらいだ。」


口角を歪めて笑いながら、粗末な酒場の埃を吸う不快感が少し和らいだハディンが言った。


「ところで……兄上はヴェス・ディナスにどのようなご用で……?」


「家を代表してグランドトーナメントに出場した弟の応援と激励のために、遠い王都(おうと)から馬車に揺られてここまで来た……と言えば……。」


言葉を濁しながら、周囲に誰かがいないか素早く見回したハディンが、指を小さく動かしてアードを近くへ呼んだ。


「…………」


アードは慌てて席を立ち、ハディンの隣の空いた椅子を引き寄せて座り、身体を寄せた。


「実は……ヴェス・ディナスにトールマンを連れてきた。」


「えっ!? トールマンを? それではバナスを……?」


「うーむ。そういうわけではない。むしろそれ以上に重要な人物かもしれないな。」


「そんな人物が、なぜこのヴェス・ディナスに……。」


「もういい。ここまでだ。」


話を終えたハディンが口元から手を離し、傾けていた上体を起こして椅子の背もたれに体を預けた。


「ふんふん。とにかく家を代表してトーナメントに出場したのだから、優勝を期待してもいいのだろう? アード?」


「ご心配なく。父上と兄上の期待に必ずや応えましょう。」


ぎこちない笑みを浮かべ、口の端をわずかに引きつらせながらアードが答えた。





<イルダ・バナス>



冷たい空気が漂う暗い空間。洞窟の中で響くような足音が聞こえてくる。


荒い息遣いが聞こえる。


冷たい石の床に膝をつき、手と足を縛られた男がいた。目隠しをされているため何も見えないが、黒い暗闇と、その暗闇を照らす光の部分があることは、目隠しの布越しに感じる明るさと暗さでわかっていた。


「誰だ! そこに誰かいるのはわかっているぞ!」


男の問いかけに答えはない。自分の声が反響するのを聞いた男は、自分が今いる場所が四方が塞がれた空間であることを悟った。


男は記憶を遡り、手足を縛られ目隠しをされた今の状況に至る直前の出来事を思い出した。


最後に覚えているのは、明日の馬上槍試合(ばじょうやりじあい)に備えて普段より早く寝室に向かったことだった。


対戦相手がカビル家の公子だと聞いたため、適度に手を抜くべきか、全力で相手を倒して名を上げるべきか、心が複雑に揺れながら寝室への階段を上っていた記憶。


その後、階段をさらに上り、寝室の扉を開けて足を踏み入れた瞬間、足元に眩しく輝く魔法陣が浮かび上がったのが、男が最後に思い出せる光景だった。


「答えろ! なぜ私をこんな場所に連れてきた! お前たちの正体は何だ!」


部屋の中に足音が聞こえると、音のする方向へ体を向け、男は叫んだ。


小さな石の破片を踏む足音が、ゆっくりと男に向かって近づいてくる。


足音は止まらず、男のすぐ前で止まった。


「ミランダ、目隠しを外してあげて。」


「はい。」


二人の声が聞こえた。男の目を覆っていた厚い布が外され、明るい光が目に飛び込んできた。細く小さく目を開け、目の前に立つ、天井の灯りを背にしている人影を確認しようとした。


「イルダ・バナス……。なぜ私をこんな場所に連れてきた。」


不快を通り越した怒りを込めた声で、顎に力がこもった男が言った。


「本人が一番よくわかっているはずよ。考えてみて。どこまで私が知っているか……。フェルタ男爵。」


感情を抑えたイルダ・バナスの冷たい声が、フェルタ男爵に届いた。


「それは……どういう意味だ! わけのわからないことばかり言うな。ちゃんと説明しろ!」


力を込めた声でフェルタ男爵が叫んだ。同時に、頭を左右に振り、自分が拉致されている場所がどこかを把握しようとした。


四方が黒い壁に囲まれた広い部屋だった。部屋の中央に魔石灯が一つだけ灯り、それ以外は何もない空間だった。


「無駄よ、フェルタ男爵。ここはあなたのような者を処理するために用意した場所だから。声が外に漏れることはないわ。だから少し静かに話してくれない? 声が大きすぎて耳が痛いわ。」


そう言いながら、腰を低く落としてフェルタ男爵に近づいていたイルダ・バナスが立ち上がり、感情一つ混じらない彼女特有の表情で言った。


道端の小石、家具に積もった埃、ガラス窓の水滴の跡を見るような、何の感慨も湧かず、わずかな動揺すら感じさせない、そんな表情だった。


「はぁ……。望みは何だ? それともまずこの手を解いてから話すというのはどうだ? かなり不快だぞ。」


長いため息をついたフェルタ男爵が、イルダ・バナスとその横に立つミランダを交互に見ながら言った。


「ふふ……私が望むことね……。直接あなたの口から出る自白(じはく)はどうかしら?」


「さっきから何を言っているかわからない。いったい私がどんな罪を犯したというのだ? 言ってみろ! そうすれば話が始まるだろう。」


「ふむ。ずる賢いわね。今の言葉で時間を少しでも稼ごうとしている……。いいわ、教えてあげる。」


嘲るような笑みを浮かべたイルダ・バナスが、ゆっくりとフェルタ男爵に歩み寄った。


「まずはクレントから受け取った金貨は……友情の証として受け取ったと弁明するつもりでしょう? ドラスナァルから来た金貨だと知りながら受け取ったのかしら?」


「そ……それは……。」


「それはそれでいいわ。クレントの名簿にフェルタ男爵の名前があったことは、それほど驚くことでもなかったから。城で働く侍女の中に、フランとクリシャという名の娘がいるのだけど……。」


「…………。それがどうしたというのだ!」


ほんの一瞬の躊躇。次に言うべき言葉を選ぼうとする唇の動き。そして一瞬方向を失ってさまよった瞳の動きを、イルダ・バナスは見逃さなかった。


心の奥で確信していなかった疑問が解け、彼女の片方の口角が上がって喜びを表した。


「味も香りもなく、料理や飲み物に混ぜても色が変わらない毒を誰かから受け取ったそうね? そしてそれが誰なのか……。特別な苦労もなく話してくれたわよ?」


「…………。」


フェルタ男爵の眉間に深い皺が寄った。あの二人の侍女と直接会って信頼を深めたことが後悔された。フェルタ男爵の頭の中では、整理されていない無数の文が交差し合い、今の状況に最も適した言葉の組み合わせを探していた。


「それは……つまり……誤解だ……。ぎゃあああああ!」


フェルタ男爵が窮地(きゅうち)を逃れようと、言葉を絞り出そうとした瞬間だった。細い腕の女性の動きとは思えないほどの速さだった。ミランダに向けて無言で差し出された手。いつの間にかイルダ・バナスの手には短剣が握られていた。そして一瞬にして体勢を低くし、方向を変えた短剣の軌跡(きせき)


フェルタ男爵の太ももに、刃の長い両刃の短剣が突き刺さった。


短剣を握るイルダ・バナスの手に血がしぶき、どす黒い血の跡を残した。


「そう……フェルタ男爵。まさにお前の名前だ……。」


「ぐっ……うう……。」


短剣を突き立てるために下げていた腰を上げ、イルダ・バナスが言った。


軽蔑の視線。短剣の先から床に滴る(したたる)血の滴が、彼女がフェルタ男爵の周囲を歩くにつれて跡を残していった。


「他にもドラスナァルの間者にヴェス・ディナスの情報を流し、他の貴族を懐柔(かいじゅう)しようとし、城門の衛兵を買収したことまで……。今その短剣で刺される理由はいくらでもあるわ……。フェルタ男爵。」


「ひっ……うう! 謀略(ぼうりゃく)だ! 私ではない! 信じてくれ!」


溢れ出す血で湿った太ももの傷を、縛られた両手で覆いながら、青ざめた顔のフェルタ男爵がイルダ・バナスを見上げて叫んだ。


「今その言葉が通用すると思って言っているの?」


「はっ……。」


喉元に冷たい金属の刃が触れる感覚と、まとわりつく血のぬめりが、フェルタ男爵の息を一時止めさせた。


肩から首を伝い、耳に届く鳥肌の立つような感覚。イルダ・バナスの声が聞こえるたびに、喉に当てられた刃を通じてその振動が伝わってきた。

それにしても……イルダ・バナス、怖すぎませんか?((((;゜Д゜))))

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