第七十七話
シャルは5歳の頃から内装が一切変わっていない自室で魔道書に視線を落としていた。
内容は一切頭には入っていない。
ただ文字を目で追っているだけ。
そしてある程度追うと、大きく息をする。
ルイに言えずにいる事は沢山あった。
言っておかなければ後悔するだろうと思う事も、言えば悲しませるだけだと思っていることも。
それはルイにだけではない。
身内やババにも言っていない事が沢山ある。
怒るだろうな、と思う。
特に母親であるエナは、それはもう怒り狂って暴れて父や兄が止めるのも苦労するだろう、と。
朝方目を覚ましたルイの何か言いたげな視線に気づかないふりをして、まるで逃げるようにババに任せて教会の食堂を出てから日が傾きかけている今までずっと自室にこもっている。
シャルの読書中は話しかけられても反応が薄いので、慣れている周りは話しかけたりはしない。
その事が今役に立つのは有難いような寂しいような不思議な気分になるが、彼方での事を思い返すには丁度良かった。
ルイには話していないが、ルイはシャルのわかる限りで最低でも1週間は眠ったままだった。
ルイの事は任せるように、ユグはそうシャルに言ったのだ。
その方が都合がいいだろう、と。
実際、その間にしておくことはルイには見られたくなかった。
命の樹に触れ、知識を身体に取り込む姿はきっと痛々しく見えるだろうから。
シャルの持つ魔法に関する知識の大半は、幼少期に彼方に渡った際に手に入れたものだ。
ユグに触れ、ユグの意識を取り込むのは魂が身体を通っていくよりも痛いもの。
……それはそうだ。
ユグは元素化した魂すべての記憶を記録しているのだから。
感情だけでなく感覚までも。
「少しでもわかりたいだけだよ」
全てを記録する理由を尋ねた時そう言った彼はとても寂しそうだったのを覚えている。
けれどそのお陰で得るものは多い。
今回もきっかけは何であれ、彼方に渡れたのは良かった。
そう思っていると、遠慮するように小さくトントンと扉をノックする音が聞こえた。
まるで聞き逃してしまいそうな小さな音で、風の音かと思うほどのものだった。
「……シャル」
これもまた遠慮する様に小さな声で。
シャルは少し悩んだ。
このまま聞こえなかったふりをして対応せず、読書に集中していたと言い訳をすることも可能だ。
が、音の主……ルイが小さい音を出すこと自体珍しい。
対応しなければ後悔することになるかもしれない。
けれど正直出たくない。
今はルイと顔を合わせたくないと思っていたのも事実。
……覚悟と言うか、そういうものが揺らぎそうだったから。
「話、したい……お願い」
……だったらもう少し大きな声で呼べばいいのに。
そもそもいつもの無駄に元気なのはどうしたんだ。
そうため息をつきながら思った時にはすでに本を閉じて本棚に戻し、手はドアノブに触れていた。
その事に気付いた時、自嘲するように小さく笑った。
……頭でどうこう考えていても身体は正直らしい。
ゆっくりとノブを回し、キィ……と扉を少し開く。
見上げてくる眼は少し赤く、うるんでいるようにも見える。
手は腹部のあたりで握られ、もじもじと動いて落ち着きがない。
シャルはその姿を見た時、ため息をつきながら心の中で両手をあげた。
どうやら降参するしかないようだ。
扉を開き、中に入るように促す。
「……何?」
出た言葉は思ったよりも冷たく放たれる。
部屋に入ったルイはピクリと肩を震わせると振り向き、再びシャルを見上げるが、瞳はまだ迷っているのか不安げに揺れていた。
「あ、あの、ね……お礼ずっと言ってなかったから」
「いいよ、そんなの」
「そうだろうけど、私が言いたいだけだから」
そう言うと頭を下げた。
「迷惑かけてごめんなさい。助けてくれてありがとう」
シャルは後頭部を書きながらため息をつく。
こういう所が律儀なのは良いところだな、と思う反面めんどくさかった。
「いいって」
「うん。これは私の自己満足だから。後ね」
顔をあげたルイの眼は、今度は泳いでいない。
今の謝罪でナニカを決めたらしい。
嫌な予感と良い予感の4:1位の割合でその視線を受け止める。
「私はシャルに一杯助けてもらってる。教えてもらってることも多い。とっても感謝してる」
「感謝される事じゃ」
「感謝してるの!最後まで聞いて!」
「……はい」
あまりの気迫に、思わず一歩下がる。
ルイは小さな声で「もう、せっかく」とかなんとかブツブツなにか言ったあと、「よしっ」と覚悟を決めたように両手に拳を作る。
……え、なに?俺殴られる?
ルイの姿はファイティングポーズだった。
それも謎の気迫までついてるから、訳が分からずに怖い。
ルイの振るう拳はか弱い女の子のそれではない。
『両手剣を軽々片手で振るう』程の剛腕の持ち主だ。
とりあえず、受け身だけはとれるようにしとかなければ、と辺りを見回した時、「シャル!」と力んだ声で呼ばれる。
気迫が増していて、思わず「はい」とか返事してしまう自分が情けないとも思うが、本当に怖い。
そしてルイは大きく深呼吸し、胸を張る。
シャルは思わず身構える。
「私、シャルが好きだから!シャルはそんなコト全然考えてないだろうけど、私は好きだから!」
その言葉にシャルは顔を腕で庇うように身構えたポーズのまま固まった。
「……は」
「私はシャルを助けるどころか、助けれられてばっかりだし足手まといだし、こんな時にこんな事言うような馬鹿だけど、これは本気だから」
恐る恐る腕を下ろす。
……あ。
見えたルイの姿は、顔を真っ赤にして視線はシャルの足元で彷徨っている。
思わず吹き出しそうになるが、懸命にこらえる。
「あ、返事とかは別にいいから!付き合って欲しいとかそういうんじゃないから!言っておきたかっただけ!それだけ!じゃあ!」
吐き捨てるように言って、逃げるように早足でシャルの横を通り抜けて部屋を出て行こうとする。
……恥ずかしさに耐え切れず言い逃げする気らしい。
シャルはとっさに指をパチンと弾くと、ルイがドアノブをいくら回しても扉はびくともしない。
「え、あれ?ええええ!?」
何度もガチャガチャとドアノブを回すルイの後ろに立ち、とん、とルイ越しに扉に手をつく。
今度はルイがビクビクする番だった。
「……言い逃げ」
「うぅ……ごめんなさいいいい」
異常にビクビクするルイに、シャルはため息をついた。
どうやら観念するしかなさそうだ。
「……え?」
気が付けば抱きしめていた。
シャルが色んな事を考えて、色んな事を悩んで、越えないでいたものをルイは容易く越えていく。
例え考えなしだったとしても、シャルはルイのそんな行動力に惹かれていた。
どんなに失敗しても諦めない姿にも、落ち込んでもすぐ立ち直る姿にも。
シャルはルイの耳元で、ルイ以外の誰にも聞こえない声で囁く。
その言葉にルイの眼は見開かれ、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
「ば、ばかあああああああ!!」
ルイが照れ隠しでそう言って振り回された腕は、シャルの側頭部に直撃する。
「わあああああああっ!ごめん!ホントごめん!シャル、大丈夫!?」
ルイに吹き飛ばされ壁にひびを作り、その音でエナたちが集まって来るのだが、どうしてそうなったのかの説明にまたルイはあたふたすることになる。
シャルは痛みを堪えながらそんなルイの姿を頬ましく見ていた。
今まで抑えていたのが馬鹿らしくなるほど、晴れやかな気分だった。




