第六十話
シャルはこの日ほどエドガーを止めていれば良かったと思ったことは無かった。
背後にはまるで切り取られたように地面がない。
絶壁の崖。
崖下には森が広がってはいるが、落ちたとして助かる見込みはないだろう。
目の前には変異種を含む獣たちが迫っていた。
噛まれた跡や爪で引き裂かれたような跡が身体中にあり、身体だけでなく長い髪までも血に濡らし、微かに息をしているだけのエドガーをずるずると引きずり獣たちから逃げるように下がっていく。
分かっている、このままでは助からないという事を。
「……だから嫌だって言ったんだ」
ジリジリと寄って来る獣たちを睨みつけながら、シャルは呟いた。
事の発端は、エドガーが赤く輝く柵を越えた先に、ある物を見つけたことだ。
それは書物には想像図として描かれ、神聖な花として伝えられているもの。
シャル自身興味がないわけじゃなかった。
けれど、それを見るためには赤く輝く柵を越えなくてはならない。
それはフォレスティに住む者にとってはタブーだ。
そして止め切れずに赤い柵を越えた結果がこれだ。
獣に襲われ、エドガーは虫の息。
シャル自身も動けなくなるほどの傷は負っていなくても、絶体絶命にかわりはない。
どうしたら、どうしたら助かるのか。
そうして思いついた策も、禁忌。
フォレスティに伝えられている、森の花嫁の祈りの言葉。
祖母シュデルテが使用することを禁じた魔法。
シャルの黒い髪を風が撫でていく。
そして一瞬、その碧い瞳を瞼に隠し、決意を固めた。
「《この声が届いているのであれば、どうか、どうか助けて。大地、海、太陽、月の神よ。私に彼は助けられぬ。私に彼を生かすことはできぬ》」
思い出すのは獣人族の長、ババ様の言葉。
「のう、シャル。森の花嫁はこの時どういう気持ちだったのかのう。お前にはわかるかの?」
怖い、足ががくがく震える。
自分がこの先どうなるかなんて、分かっている。
それにこれを唱えてもエドガーが助かるなんて確証はない。
魔法が発動する見込みすらない。
……シャルは今、媒介を身に着けていないのだから。
「《必要なら私の魂も身体も捧げよう。私の声が届いているのであれば、どうか、どうか彼を助けて》」
その言葉はヒトの言葉ではなかった。
まるで歌の様なその言葉は、遥か昔神が使っていた言葉だ。
それをシャルが理解していたとは言い難い。
シャルはただ、フォレスティに伝わる歌の中にある一部分をただ唱えているだけだ。
本来ならば発動しない。
人間は媒介なしには魔法は使えないから。
そして元素たちがその呪文に従うことを拒否しているから。
けれどその場所は、遥か昔に命の樹があったところ。
遥か昔に森の花嫁が同じ言葉を唱え、命の樹を消し去った場所。
「《彼を傷つけさせないで!!!》」
その言葉を叫んだ時、シャルとエドガーを中心にして眼も開けていられないほどの光が迸る。
魔法が発動したのだ。
エドガーはシャルが心に描いたようにエドガーが傷つけられないところに転移した。
……フォレスティに。
そしてシャルは世界から消えた。
シャルとエドガーがまだ5歳の頃の話である。
シャルはゆっくり目を開けると、眼が覚めきってないのかぼーっと天井を見ていた。
昔の夢を見るのは久しぶりだ、とため息をつく。
そして自分の事だが、幼い頃の自分は本当に馬鹿な事をしたなと思う。
今もし同じ状況になるなら、エドガーを身動きできないまでに縛り上げるか、エドガーを監禁するか、セフィリアかエトラ、アップロックに叱ってもらうかするだろう。
赤く輝く柵を越えさせるなんてことはしない。
起き上がって窓から外を見ると、太陽がもうかなり高い位置にある。
……だいぶ寝過ごした。
シドに怒られるな、と思いながら身支度を整えているとフォレスティの住人たちが教会でなにやら騒いでいるのだろう、声が響いてきた。
少し殺気立っているようにも聞こえる。
それに、ああ、と納得する。
交換会に出席するメンバーがやってきたのだ、と。




