第四十九話
知らない。何も。
知っている。そう思っていた。
知らない。
知っているのは、表面上のものだけ。
過去や未来だけじゃない。
実際は今現在でさえ知らなかった。
……いつから勘違いしていた?
この時がずっと続くと、いつから信じていた?
「起きろー。朝だぞー」
遠くで呼ぶ声がする。
けれど、ルイはまだ夢から覚めることはできなかった。
遠い、近づけない、哀しい夢。
ナニかに近づきたくて、けれど走っても走っても近づけない。
「おーい、お嬢ちゃーん」
呼ぶ声がする。
ルイは届かないもどかしさから、虚空に手を伸ばした。
「……起きないなら襲っちゃうぞー」
さわ、と右フトモモからお尻あたりまで暖かいものが触れて撫でた。
ルイは一瞬にして悪寒が走り、ばっと目を開く。
そして嫌悪感からか無意識のうちに寝返りしつつ、触れられた足をそのまま触った者の方へかなりの勢いで振った。
ついでに反対側の足も右足の直後に蹴りだそうとした。
普通の人間であれば、直撃し何らかのダメージがあるだろう。
けれど、その人間は違った。
パシ、と音をたて右脛を手のひらで受け止める。
右足が止められたことで左足を蹴りだせなくなり、ルイは眉根を寄せてその相手を見る。
「せっかく起こしてあげてるのに。まさか蹴りくらわされるとは思わなったなぁ」
その人物はルイの足を手から離し、パンパンと手を払って膝立ちの状態から立ち上がりルイを見降ろした。
「う?え、ええ?ちょっ!……へ?」
目を何度もパチパチと瞬かせ、勢いよく起き上がり、もう一度何度か瞬きを繰り返す。
見間違いかと目を擦り、窓から外を一度見て「あ、今日はいい天気だな」とか考えた後、深呼吸してもう一度視線を元に戻す。
「おはよう。やっと起きた?」
その人物はニヤリとルイに笑いかけた。
「……セフィリア様?」
信じられないというように、ルイは呟くようにその人物の名前を呼ぶ。
「そう。久しぶり、ルイ」
その答えに一瞬にして目が覚める。
ベッドから降りて立ち上がり、パジャマ代わりのシャツとジャージをパンパンと少し払ってから髪を手で撫でおろす。
それでも寝癖は直らず、一房だけぴょんと跳ねたがルイはそんな事に気が付くはずもなく、そのまま背筋を伸ばして胸の前に拳を置いて礼をした。
「おはようございます。いくら寝ぼけていたとはいえ大変失礼いたしました」
「いや、そこまでかしこまらなくていいんだけど」
試合中でもグレイス校で会っている訳でもないのに、作法に則って礼をするルイに苦笑しながらセフィリアは言う。
「というか、堅っ苦しいの嫌いな方なんだよ。弟の友達は私の妹弟みたいなものだし、気にしなくていいから」
「ですが……」
「私が『いい』と言っているのが聞こえないのかな?」
セフィリアの声のトーンが少し落ちる。
それを聞いてルイは一度頭を上げ、胸の前に置いていた拳を下ろす。
そして一つ深呼吸した。
それにセフィリアは満足そうに頷く。
「呼び名もセフィ姉でいいから」
「いや流石にそれはちょっと……」
「ならセフィリア『さん』だね。様は無し」
「えー……っと分かりました」
一瞬不服そうな顔をしたところセフィリアに笑顔のままで睨まれ、慌てて承諾する。
それを聞いてセフィリアは「よし」と満足そうに笑った。
「朝ごはんできるから用意して降りておいで。その後教会の掃除してから、エナさんとこに手伝いに行ってもらうことになってるから」
「……へ?」
「バリューさんとこで剣、直してもらうのに労働払いにしたんだろ?」
その言葉で合点がいった。
シャルの故郷という事は、幼馴染であるエドガーの故郷でもある。
つまり、ここはセフィリアが所属する教会なのだ。
そして改めて思う。
……本当にするんだぁ、にこにこ労働払い……
トーストに木苺のジャム。
ハムエッグとベビーリーフの朝食を取り終えると、カチャカチャと食器を片付けるとアップロックは微笑んで言った。
「朝食は当番制です。今日は僕、明日はユラ、明後日はセフィリアとなっていますので、その次をお願いしますね」
そしてどこからともなくバケツとぞうきんを取り出し、ルイの胸元に差し出した。
「ルイさんには窓掃除をお願いします。届かないところは下の物置に梯子がありますのでそれを使ってください。水は裏に小川がありますのでそこからくんできてくださいね」
「……は、はい」
にこにこと笑っていて優しそうなのに、この威圧感は何なのだろう。
ルイは首を傾げながら、アップロックの言うとおりに教会の裏に回り、さらさらと流れる小川にバケツをつける。
そしてシャルの家の方を見る。
大きな煙突からは白い煙がもくもくと立ち上り、すでに工場の炉に火が入ったことを示していた。
……シャルも働いているのかな。
そんなことを思いながら、水でいっぱいになったバケツを持ち上げ、教会に戻る。
こう見えて窓掃除は得意なのだ。
グレイス校でのペナルティの一つで、それによく引っかかっていたおかげなのだが、言わなければ掃除上手にしか見えない。
たまに通りかかるアップロックも、少し驚いたように「綺麗になってますね、この調子でお願いします」とにこにこしていた。
3階のガラス張りの部屋の窓掃除は、少し怖かった。
昨夜の事もあるが、壁がないという事がどうにも頼りなく、落ち着かない。
さっさと終わらせてしまうに限るので、一番初めに終わらせてしまった。
「わぁ、きれー」
最後に残った礼拝堂で、ステンドグラスを見上げてルイは声をあげた。
そのステンドグラスは一本の樹の下に少女が居て、それらを囲うように様々な色の花で囲われている。
どれもが細かく、また美しく、ステンドグラスには思えない出来栄えだった。
ステンドグラスから差し込む光で床に描かれた色のついた影は、まるで一枚の絵画の様だった。
けれどもふと思う。
ここのステンドグラスは、ユグ教のどの教会の物とは違う。
ユグ教のステンドグラスは、基本的に花をモチーフにしたものが多い。
フィード国のものは青い花を中心にしたものが多いが、他国ではまた違う色の花なのだという。
ユグ教本部も花だけであったが、いつからかは忘れたが大樹と女性のモチーフが別で追加された。
ルイは首を傾げる。
その違いは一体何なのだろう。
そんな疑問を、ステンドグラスを見上げながら思う。
ステンドグラスの中の樹の下にいる少女が少し寂しそうに見えた。




