第四十三話
暗い、寒い、痛い、冷たい。
聞こえない、見えない、触れない。
在るのか無いのか、生きているのかいないのか。
流れ込んでくる自分のものではない幾つもの記憶、想い、感覚。
いつからこんな思いをしなくてはいけなくなったのか、あれからどれくらいの月日が経ったのか、それとも全く経っていないのか。
分からない、なにも。
思考が犯されていく。
自分がなんなのか、何をしたいのか。
分からなくなってくる、全て。
だれか。
早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、はやく、はやく、はやく、ハヤク、ハヤク、ハヤク、ハヤク、ハヤク……
りんりんりんりん、獣除けの鈴が鳴る。
がたがたがたがた、馬車が鳴る。
御者は言う。
「この辺は獣が多いんで気を付けてください」
何でも森が近いからだという。
その森を開拓することは禁じられている。
馬車も通れないほどの細い一本道と、森の境目に立てられた柵以外は何もない。
ヒトはその森に入ることを禁じられている。
だからこそ自然が多く残り、多くの動植物が生きているのだという。
それがヒトにとって良いか悪いかは関係ない。
ただ、その森をそれ以上汚してはいけない決まりなのだ。
誰が決めたかは分からないほど、遠い遠い昔からの決まり事。
「だから決して柵を越えてはなりませんよ」
御者は明るく、「それさえ守れば何も起こりません」と付け加えたが、ルイの心は少しの不安で染められた。
見えてくる森は、向かう方角の一面全てを木々で覆っていて、途切れているところが見えない。
獣除けの鈴と馬車の揺れる音、馬の蹄の音だけが響いていたが、やがてそれは小さな小屋の前で止まった。
その小屋は丸太で組まれ、「森前停留所」とかすれた文字が刻まれた小さな看板が打ち付けられていて、ヒトの気配はない。
シャルとルイが馬車から降りると、御者は帽子をとって「では、私はこれで」と言って軽く礼をし、馬車をUターンさせて来た道を戻って行く。
リンリンガタガタと音を鳴らしながら。
ルイはただ呆然と、馬車の姿を見送っていた。
否、馬車が行ってしまった事で不安が増大してしまったのだ。
まるで迷子にでもなったかのように不安で瞳を揺らし、馬車が去って行った方を見ていた。
シャルはそんなルイを横目で見ながら自身の荷物を漁る。
そして、リンと音をたてて一つの鈴を取り出した。
それは獣除けの鈴と見た目は同じだが、大きさは親指の爪ほどの小ぶりなもの。
「ルイ、これつけて」
呼ばれて振り返ると、手を取られ小さな鈴を握らされた。
「これを着けていればだいたいの獣は寄ってこないから」
そう言われ、ルイは頷いて履いているデニムのベルトループにそれを括り付ける。
それを確認して、シャルは安心させるように微笑んで頷いた。
「行こう」
ルイが頷き、シャルは森に向かって歩き出し、森の中に足を踏み入れる。
鬱蒼とした森は薄暗く、何でもない木々や草花、鳥たちもなにか得体のしれないモノに見える。
木の葉を踏む音と、鳥たちのさえずるコエ、木々や草花たちが風に揺れる音。
それらは驚くほどに大きく、ルイはシャルのシャツの裾を掴む。
「大丈夫」
振り返ってそう言うシャルの声も、不思議なほどはっきりと聞こえた。
まるで脳内に直接響くような、いつだったか体験した覚えのあるような……
自分自身の記憶がどれなのか、もう判別はつかない。
自分自身の想いがどれなのかも、判別がつかなくなってきた。
自分自身の感覚なんて、とうの昔になくなった。
ただ、分かっているのは還りたいということだけ。
愛しい……の元へ。
けれど、……はそれを赦してくれるだろうか。
否。
シャルはルイの手を引いて森を進む。
初めは小さく震えていた手も次第に落ち着き、足取りもしっかりしていた。
シャルはほっとしたように小さく息を吐いて微笑むと、道の先を見据えた。
ルイのベルトループにつけられた鈴が小さく頼りなく、しかしはっきりと鳴る。
視界の端で茂みが揺れる。
シャルはそれを一瞥して、ただ歩いた。
それが何なのか、確認している余裕はない。
後ろで、ヒィッという悲鳴がしたので、安心させるためにきつく手を握る。
振り返っている暇はない。
……早く、この森を抜けないと。
森に入ってから、ツキツキと頭が痛む。
同時に流れ込んでくる自分のモノでは無いモノに、きつく眉根を寄せる。
セリシアに施された保護の魔法の網を抜けたソレらは、シャルの頭に流れ込んでくる。
一歩一歩、少し早足になりながらもただ道を進む。
そうしている内に、道の先が明るくなり、木々たちが途切れ始める。
驚くほどはっきりと聞こえていた植物たちのざわめきや、鳥たちのさえずりが遠くなっていくのがわかる。
……もう、す、こし。
カチリ
森を抜け、一面に光りが満ちる。
余りの眩しさに、二人して手をかざした。
風が耳をくすぐり、髪を撫でていく。
そこはまるで森をくり抜いたようなところだった。
木々は無く、光は燦々と降り注いでいる。
目の前には煉瓦で出来た塀と、木でできたアーチ。
アーチには『フォレスティ』と書かれていた。
畑では作物が風に揺れ、小さい小屋のような家が並び、少し奥の方にある小高い場所には広場と教会があるのが見えた。
広場では子供たちが騒ぎ、井戸の周りでは商人らしき人や女性たちが話に花を咲かせている。
日は西に傾き始め、少し朱色に染まった日光がその風景を幻想的に照らす。
その風景は、キュレスティアの学園長室にあった絵画と瓜二つ。
シャルは一つ大きく深呼吸すると、意を決したように足を前に出した。
ルイもシャルの後ろをついて足を踏みだす。
ゆっくりと目を開く。
否、本当は開いているのかどうかも分かっていない。
閉じていても開いていてもここには闇しかない。
自然と頬が緩むのを感じる。
自分の感覚を感じるのは本当に久しぶりだ。
その感覚を抱きしめる。
否、抱きしめているのかどうかさえも分からない。
すでに身体は溶けているようにも思う。
見つけた、私の……




