境界線上の二人
あの日、駅のホームで視線が交わってから数日後。街には容赦のない冷たい雨が降っていた。
蓮はいつものように、一昼夜交代勤務の合間、改札口の窓口で精算業務に当たっていた。
夕方の混雑がピークを迎えたその時、自動改札機の一台がけたたましいエラー音を鳴らす。
「あ、すみません……っ」
慌てた声に、蓮はハッとして顔を上げた。
そこにいたのは、ビニール傘を抱え、濡れたカバンから定期券を探そうと焦っている亜美だった。
彼女がカバンをひっくり返した拍子に、中身がバサバサと床に落ちる。教科書、筆箱、そして――小さな子供用の、手作りのアンパンマンのマスコット。
「あっ、ごめんなさい……」
亜美がパニックになりながら床にしゃがみ込む。蓮は考えるより先に、カウンターを飛び出して彼女の前に膝をついた。
「大丈夫ですよ、ゆっくりで」
白い手袋をはめた手で、蓮は落ちたマスコットを拾い上げる。それを手渡そうとした瞬間、二人の指先が触れ合った。
至近距離。傘から滴る水滴の向こうにある、すっぴんの、ひどく怯えたような亜美の瞳。
お店の「アミ」の甘い香りはしない。ただ、雨の匂いと、微かに柔軟剤の優しい香りがした。
「あ……」
亜美の喉が小さく鳴る。
駅員の制服を着た蓮の胸元には、『高木』というネームプレートが鈍く光っている。本名。お店では決して明かされない、彼の本当の人生の断片だった。
「ありが、とうございます……高木さん」
亜美は震える声でそう言うと、ひったくるように荷物をまとめ、逃げるように改札の向こうへ消えていった。
残された蓮は、自分の白い手袋を見つめたまま、立ち尽くすしかなかった。
(やっぱり、アミちゃんだ。気づいていたんだ。でも、あんなに怯えた顔をするなんて……。お店の外で僕なんかに遭遇して、本当に嫌だったんだな)
◇
その週末。
蓮は、激しい自己嫌悪に苛まれながらも、気づけばまた『ネオン・パラダイス』のドアを叩いていた。
「もう行くべきじゃない」と理性が叫んでいたのに、駅で見せた彼女のあの泣きそうな顔が、頭から離れなかったのだ。
いつもの個室。微灯の下で待っていると、ドアが開き、アミが入ってきた。
「蓮さん、いらっしゃい」
その声を聞いた瞬間、蓮の身体が強張った。
目の前にいるのは、いつもの派手なメイクに、胸元の開いた衣装をまとった人気嬢の「アミ」だ。しかし、先日の駅での清楚な姿を知ってしまった今、蓮にはその華やかさが、彼女が必死に身にまとっている「鎧」のように見えて仕方がなかった。
「……あ、うん。アミちゃん、今日も綺麗だね」
蓮の言葉は、どうしてもぎこちなくなる。
アミもまた、いつもと違う蓮の様子に、内心で激しく動揺していた。
(蓮さん、やっぱり怒ってるのかな……。この前、駅で私が無視するように逃げちゃったから。あんなに格好よく仕事をしてる蓮さんに、昼間のダサい私を見られたのが恥ずかしくて……。でも、お店の私は、こんなに不自然に見えてるよね)
アミは努めて明るく振る舞おうと、蓮の隣に腰掛け、その腕にそっと触れた。
「ねえ、蓮さん。今日はなんだか、いつもより余所余所しいね? 私のこと、嫌いになっちゃった?」
上目遣いで覗き込んでくるアミ。いつもならその小悪魔的な可愛さに翻弄されるはずの蓮だったが、今の彼は、彼女の細い肩が微かに震えているのを見逃さなかった。
「そんなわけないよ。嫌いになるはずがない。アミちゃんは、いつだって魅力的だから」
蓮はそう答えた。それは本心だった。けれど、その言葉の裏には冷たい壁があった。
(アミちゃんがこうして僕に甘えてくれるのは、僕が『指名客』だからだ。駅で見せたあの拒絶の顔こそが、彼女の本音なんだ。これ以上、踏み込んじゃいけない……)
お互いに、相手を大切に思い、自分の立場に傷ついているからこそ、二人の会話は空回りしていく。
触れ合っている肌の温度はこんなに温かいのに、二人の間には、お店の壁よりも分厚い「気まずい沈黙」が静かに流れ始めていた。




