第78話 隠していた私
声にしてしまえば、想像していたよりもずっと醜く、幼い言葉に聞こえた。
ずっと、ずっと、めるだけを見てきた。
めるの笑顔を、独り占めしたい。
私の知らないところで、誰かと楽しそうにしないでほしい。
私には願う資格なんてないと分かっているのに、一度こぼれ始めた感情は、もう元の場所へ戻ってはくれなかった。
「めるが誰かに名前を呼ばれて、その人の方を向くたびに……嫌だった」
喉が焼け焦げたように、ひりつく。
言葉にするたび、痛さは増していく。
自分の声なのに、聞いているだけで逃げ出したくなる。
それでも、めるは笑わなかった。眉をひそめることもなく、私が次の言葉を見つけるまで、変わらない眼差しを向けている。
「めるには、私以外にも大切な人がいて、私の知らない時間があって……そんなの、分かってる」
分かっていた。頭では。
みんなに優しくて、みんなから好かれて、だから、私はめるが好きなんだ。
けれど、理解したことと、受け入れられることは同じではなかった。
「めるが楽しそうなら、それでいいって思いたかった。好きな人が笑ってるんだから、私も嬉しいはずだって。何度も自分に言い聞かせてた」
膝の上で握った手に、爪が食い込んでいく。
「でも、本当は全然そんなふうに思えない」
誰かに向けられた笑顔を見るたび、私の知らないめるが増えていくようで怖かった。
私といる時より楽しそうに見えれば、いつか選ばれなくなる気がした。
恋人になれた今でさえ、何かの間違いだったのではないかと、ふとした瞬間に疑ってしまう。
「私より、その人といる方が楽しいんじゃないかって。私と付き合ったことを、いつか後悔するんじゃないかって……勝手に考えて、勝手に苦しくなって」
めるの唇が、わずかに動いた。
何かを言おうとしたのかもしれない。
すぐに私は首を振った。今ここで優しい言葉をもらったら、またそこへ逃げ込んでしまう。
最後まで話さなければ、一番伝えなくてはいけないことを隠したままになる。
「まだ、あるの」
声が掠れた。
めるは口を閉じ、静かに頷く。
「めるが悪いんじゃない。誰も悪くない。全部、私が勝手に感じてることだから」
言葉を重ねるほど、身体の内側を覆っていたものが剥がれていく。
近づけば近づくほど、めるという光が眩しすぎて、私の影は濃く暗くなっていた。
隠していた部分を見られる怖さと、ようやく息ができる安堵が、入り混じる。
「昨日、めるが私の知らない人といるのを見た時も、私だけ置いていかれた気がした。恋人なのに、そこへ入っていけなくて、名前を呼ぶこともできなくて……私には、めるの隣にいる資格がないみたいに思えた」
「資格って……」
めるの声が、初めて揺れた。あたたかな光を湛えていた表情が、痛ましげに歪む。
そんなことを言われても、困るよね。
分かっている、そんなことは、私にも分かっている。
傷付けたかったわけではない。困らせたかったわけでもない。ただ、知ってほしかった。めるの知らないところで、私はずっと、こんなにも弱かったことを。
「ずっと思ってた」
視界が滲み始める。
泣くつもりなんてなかったのに、瞬きをするたび、めるの輪郭がぼやけていった。
「私たちは、対等じゃないって、対等になんてなれないって」
言った。
私の胸の奥で燻り続けていた、あの歪んだ熱の正体を。
今度はめるの前で、はっきりと。
めるの表情から、笑みが消える。
「どうして、そんな……」
「だって、私はいつも、めるに助けてもらってばかりいる」
小学四年生の教室や公園が蘇る。
何も言えずに立ち尽くしていた私の前へ、迷うことなく割って入ってくれた、小さな背中。
「最初に会った時からそうだった。私は何もできなくて、めるが助けてくれた。高校で再会してからも、私が怖くて動けない時は、いつもめるの方から来てくれた」
恋を諦めようとしていた私へ、何も知らずに笑い掛けた。
私を見て、私の名前を呼んで、私の手を引いて。
いつだって、閉じた場所から連れ出してくれた。
「私は、めるに何を返せたんだろうって考えてた」
「真琴は――」
「分からないの」
喉の奥に押し込めていたものが、私の制止を振り切って言葉の形となって溢れ出した。
めるが、息を呑んだまま凍りついたように動きを止める。
「分からないんだよ。私がめるにしてあげられたこと、何一つ思い浮かばない」
勉強を教えた。家まで送った。
そんなものは、きっと友達にだってできる。
めるが私にくれたものとは、比べることさえできなかった。
「めるは、私の初恋を終わらせないでいてくれた。好きになってもいいんだって思わせてくれた。私が嫌いだった私を、好きだって言ってくれた」
息が震える。
目尻に溜まっていたものが、頬を伝った。
「なのに私は、めるが誰かと笑ってるだけで嫉妬して、勝手に不安になって、苦しくなって……そんな自分を知られたくなくて、また黙ってた」
黙っていれば、嫌われない。何も望まなければ、失わない。
そうやって守ってきたものは、いつの間にか、私が一人で築いた壁になっていた。
「恋人になれたら、変われると思ってた」
なによりも憧れていた言葉――『恋人』
夢みたいに幸せだったはずの関係。
それなのに私は、恋人という名前をもらっただけで、その中身をめるに任せきりにしていた。
「でも、何も変わらなかった。めるが私を好きだって言ってくれても、いつか嫌われるかもしれないって怖くなるし、私より大切な人ができるんじゃないかって」
私を映すめるの瞳が、切なげに揺れている。
その眩しい光から目を背けてしまえば、きっとまた私はあの暗い扉の向こうへ置き去りになる。
だからもう、逸らさなかった。
「こんな私じゃ、めるの隣に並べない」
「真琴」
「守ってもらって、待ってもらって、言葉まで引き出してもらって……私はずっと、めるに甘えてる」
好きだから。
誰よりも大切だから。
失うのが怖くて、怖いから何も言えなくて、何も言えない自分がまた嫌いになる。
終わりのないところを、ずっと一人で回り続けていた。
「私も、めるを助けたい」
その願いは、心のなかにいつもあった。
「めるが苦しい時に、一番に気付きたい。怖い時には手を握りたいし、泣きたい時には、私の前では我慢しなくていいって言いたい」
声は震えているのに、今までで一番、言葉が自分のものになっていた。
「めるが私にしてくれたみたいに、私もめるの居場所になりたい」
頬を拭う余裕もなく、私は続ける。
「ヒーローみたいに助けてもらうだけじゃなくて、私だって、めるを守れる人になりたい。めるの隣で、同じだけ笑って、同じだけ苦しくなって、ちゃんと、一緒にいたい! 今のままの私じゃ駄目なんだよ……」
そこまで一気に吐き出して、ようやく自分の肺に酸素が残っていないことに気づく。
喉の奥が引き攣るようにして、呼吸が止まった。
めるは何も言わない。ただ、限界まで涙を溜めた瞳で、私の痛みまで抱き締めるように見つめている。
「でも、どうすれば、めるの隣に立てる人になれるのか、分からない」
最後に残っていた言葉が、喉からこぼれ落ちる。
「どうしたら、めるに愛されるだけじゃなくて……私も同じくらい、めるを幸せにできるのか分からないの」
胸の奥で燻っていた歪んだ熱の、それが最後のひとかけらだった。
全部吐き出してしまった。
嫉妬も、不安も、醜さも、私自身も。
めるに見せたくなかった私を、何一つ隠さず差し出してしまった。
「ごめん」
また、謝罪が口からこぼれる。
「こんな恋人で、ごめん」
自分の情けなに俯きかけた、その時。
遮られようとしていた視界を奪い返すように、めるの両手が私の頬をそっと包み込んだ。
逃げることも、俯くことも許さないように、まっすぐ私の顔を上げさせる。




