第79話 恋人でしょ
「ほんと、バカ」
私の頬を挟んだめるの指先が、小さく、小刻みに震えていた。
そこから伝わる振動が、そのまま彼女の喉を震わせているかのように、頼りなく掠れた声がこぼれる。
めるの瞳に溜まっていた涙が、とうとう一粒、頬を滑り落ちる。
「そんなふうに思ってたの? 」
責める声音ではなかった、怒ってもいない。
ただ、どうしようもなく悲しそうで。
その表情を見た途端、また謝りそうになった私の唇を、頬を包んでいためるの親指が、そっと横から塞いだ。
柔らかな指の腹から、彼女の熱が、直接伝わってくる。
「もう、ごめんって言わないで」
「でも……」
「アタシ、嬉しいんだよ」
思いもしなかった言葉に、思考が止まって息を呑む。
めるは大きな涙を零しながら、それでも愛おしそうに笑った。
「真琴が嫉妬してたことじゃないよ? それは……まあ、ちょっとだけ嬉しいけど」
「嬉しいの? 」
「ちょっとだけ……嘘、どちらかと言えば嬉しい」
鼻をすすりながら、めるは慌てたように言い直す。
「でも、一番嬉しいのは、真琴がちゃんと話してくれたこと。怖かったことも、苦しかったことも、アタシに言ってくれたこと」
頬を包む手のひらに、わずかに力がこもる。柔らかな肌を通じて、めるの熱がもっと深く私の中へと染み込んでくる。
私が一人で築いた壁を、その手のひらが優しく壊していく。
「やっと、頼ってくれた」
頼る?
その言葉が、すぐには理解できなかった。
私は今、めるを困らせている――醜い感情を押し付けて、泣かせて、それなのに。
「これが……頼ることなの? 」
「そうだよ」
めるは迷わず頷いた。
「嬉しいことだけ話すのが恋人じゃないでしょ。苦しい時に苦しいって言って、嫌なことは嫌って言って、二人でどうするか考えるのも恋人じゃんね」
そんなことを、私は一度も考えたことがなかった。
弱さを見せることは、相手の負担になる。
不安を口にすることは、嫌われる理由になる。
ずっと、そう思っていた。
「それにさ」
めるは涙を指で拭き取ると、少しだけ眉を下げた。
「アタシが真琴に告白した時と同じでしょ」
「同じ? 」
何故か分からないけれど、めるにデコピンされた。
「いたい」
「真琴、覚えてない? 」
しばらく私を見つめたあと、困ったように息を吐いた。
「じゃあ、教えてあげる」
デコピンしてきた手が、私の手を取る。
指と指が重なり、絡まった。
「泉さんに誰も近付かせたくないし、告白なんてさせたくない、そんなセリフ聞かせたくもない。泉さんはアタシのでいてよ……だよ。確かね」
「確か? 」
「アタシだって必死だったんだから、一語一句は覚えてない」
そう言ってぷいと顔を背けたものの、絡められためるの指先には、照れ隠しのような強い力が込められていた。
「違う。『誰も泉さんには近付いて欲しくなかったし、告白なんてさせたくないし、聞かせたくもない。アタシだけの泉さんでいてよ』……だった」
「え? 一語一句、覚えてるの!? 」
背けていた顔を勢いよくこちらに戻し、めるは目を丸くした。
その勢いで、絡めていた指先がグッと引っ張られる。
「記憶力、良すぎでしょ……アタシは初めて人を好きになった」
めるの声が、少しだけ掠れる。
「これだけは、はっきりと言える。好きになったのが真琴で良かったし、真琴が真琴じゃなきゃ、アタシは好きになっていない」
喉の奥が熱く締め付けられて、返すための言葉が何ひとつ見つからない。
めるが私にしてくれたことばかり数えて、自分が渡していたものには、一度も気付かなかった。
「アタシがどれだけ真琴に助けられてるか、真琴だけが全然分かってないんだよ」
絡められた指が、強く握られる。
「アタシたち、どっちかがずっと助けるとか、助けられるとかじゃないよ」
めるは私の手を、自分の胸元へ引き寄せた。
「真琴が一人で歩けない時は、アタシが手を引く。アタシが立ち止まった時は、真琴が隣にいてくれる」
涙で滲んだ瞳の奥に、隠しきれない何かが揺れて、真っ直ぐ私を映している。
「それじゃ駄目なの? 」
駄目なはずがなかった。
私が欲しかったものは、きっと最初からそこにあった。
同じことができなくてもいい。
同じ強さでなくてもいい。
どちらかが転びそうになった時、もう一人が手を伸ばせるなら。
それを、対等と呼んでもいいのかもしれない。
「真琴はさ、アタシのヒーローなんだよ」
「……私が? 」
「そう。すっごくかっこいいヒーロー」
「助けてもらってばかりなのに? 」
「アタシだって助けてもらってるって、言ったじゃんね」
溢れそうな涙を湛えて笑うめるの顔が近づき、互いの額が優しく触れ合う。
至近距離で交わる視線から、めるの熱が容赦なく伝わってくる。
「それに、アタシのヒロインでもある」
「両方なの? 」
小学四年生のあの日から、私にとってめるは、ヒーローでありヒロインだった。
その眩しさに焦がれて、ずっと手を伸ばしてきた。なのに、私もめるにとっての『それ』になれていたなんて。
涙でぐちゃぐちゃになったまま、私は小さく笑った。
「真琴は、アタシのヒーローで、ヒロインで」
絡めた指を、もう一度強く握られる。
お互いの吐息がひとつの熱になるほど、私たちの鼻先がすぐ近くで触れ合った。
「誰よりも大切な、アタシの恋人だよ」
恋人。
何度口の中で転がしても幸せになれた言葉が、今は以前よりもずっと深い場所まで届いていく。
憧れて、怖がって、失わないように抱え込んで。
私はずっと、その言葉に相応しくなろうとしていた。
けれど、最初から完成された恋人になる必要なんてなかった。
分からないことは聞けばいい。
苦しい時には、苦しいと言えばいい。
間違えたら謝って、泣いたら抱き締めて、何度でも二人でやり直せばいい。
「……める」
「なに? 」
「私、これからも嫉妬するかもしれない」
「うん」
「また、不安になるかもしれない」
「うん」
「すぐには、変われないと思う」
「知ってる」
あまりにもあっさり返されて、思わず目を瞬いた。
めるは少しだけ笑う。
「アタシだって、すぐには変われないもん。だから、そのたびに話そ」
「嫌われるのが、怖くなっても? 」
「何回でも、好きって言う」
「信じられなくなったら? 」
「信じられるまで言う」
「面倒じゃない? 」
「真琴の面倒なら、見る」
「……重いよ」
「真琴にだけは言われたくない」
とうとう、二人で笑った。
泣きながら笑うなんて、少し前の私なら想像もできなかった。
めるの手が、頬から背中へ回る。
私も今度は迷わず、その身体を抱き締めた。
助けてもらうためではなく。
離さないためでもなく。
ただ、同じ温もりを分け合うために。
互いの吐息が混ざり合う距離で、どちらからともなく。
ただ引き寄せ合うようにして、静かに唇を重ねた。
触れた場所から、せつないほど確かな熱が溶け出してくる。
「好き。大好き」
耳元で、めるが囁く。
「私も、大好き」
何度も伝えてきた言葉なのに、今日初めて、何一つ隠さず言えた気がした。
嫉妬する私も。
弱くて、臆病で、すぐに扉の向こうへ逃げ込もうとする私も。
全部を見せたうえで、私はまだ、めるの恋人でいられる。
何度も何度も掛け直してきた、あの鍵はもう、どこにも見当たらなかった。
閉じ続けていた扉の向こうへ、柔らかな光が差し込んでいる。
もう、めるに連れ出してもらうだけじゃない。
これからは私自身の足で、その光の中へ歩いていく。
隣には、めるがいる。手を繋いで、歩幅を合わせながら。
小学生の頃に始まって、一度は終わらせようとした恋。
長い間、誰にも言えず、胸の奥だけで守り続けてきた想い。
私の初恋は、終わらなかった。
今、ようやく。
誰よりも大切な、私の恋人との物語になった。




