第76話 閉じたままで
朝から、何度も深呼吸をした。昨日よりも、胸の奥はいくらか静かに凪いでいる。――そう、思っていたのに。
めるの姿を見つけた瞬間、その期待はあっさり裏切られる。
「真琴、おはよ! 」
教室の入り口から一直線にこちらへ歩いてくる。
自然と頬が緩みそうになって、慌ててノートへ視線を落とした。
「おはよう」
「おっ、英語のノートじゃん! ラッキー」
めるはそう言ってマフラーを外すと、しゃがみ込む。
「今日、一限目から英語あるじゃん。宿題の答え合ってるか不安なんだけど」
バッグから自分のノートを取り出し、私の机の上にパタパタと広げた。
覗き込んだノートには、精一杯悩んだであろう痕跡があった。
「最後の問題が不安? 」
「え、なんで分かんの? 」
「そこだけ消しゴムで、消した跡が濃かった」
「……こわ。少し見ただけで、全バレじゃんね」
めるは気恥ずかしそうに、自分のノートを抱え込むようにして胸へと寄せる。
「隠しても遅い」
「ってか。真琴の観察眼、日々、レベルアップしてない? 」
「毎日見てるから」
何気なく口から出た言葉だった。
けれど、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、めるの動きがピタッと止まる。
「……声」
めるは周囲を気にするように視線を泳がせると、内緒話をするみたいに、自分の鼻先にちょんと人さし指を添えた。
もともと声が大きい訳ではないから、そこまで神経質にならなくても良いのに。
「真琴、そういうの無意識だから困る……」
上目遣いで私を睨むめるの耳の縁が、ほんのりと赤く染まっていく。
その反応がどうしようもなく可愛いと思ってしまう反面、胸の奥では、重い扉が内側から小さく軋むような音がした。
一時限目と二時限目の間の、短い休み時間。
「めるちー! 」
廊下から、弾けたような元気な声が教室へと滑り込んできた。他クラスの女子生徒だった。
「あ、ちょっと行ってくる! 」
めるは振り返りながらそう言い残すと、弾むような足取りで教室を飛び出していく。
開け放たれた扉の向こう。めるはその子とすっかり距離を縮めて、楽しそうに話し始めた。
何の話をしているんだろう。ただの他愛もない雑談をしているだけかもしれない。
ここからは、何も聞こえない。
けれど。めるがその子に向けて、眩しいほどの笑顔を浮かべていることだけは、嫌というほど分かった。
その笑顔を見ているだけで、私の胸の奥にかけたはずの鍵が、内側から激しく揺さぶられるようにガタガタと音を立てる。
ひどく息が詰まる。
これは――私が感じていい感情じゃない。
めるはただ、友達と楽しそうに話しているだけ。
昔から誰とでも分け隔てなく接することができて、誰からも好かれる太陽みたいな子なんだ。
その眩しさに、その底知れない優しさに救われて、好きになったのは、他ならぬ私自身だ。
だから。
こんなことで、かけたはずの鍵が壊れそうになるなんて、どうかしている。
逃げるように視線を机の上へと落とし、筆箱を開いて、その中身をひとつずつ並べ直した。
シャープペンシル。
消しゴム。
赤ペン。
全部、いつも通り、寸分の狂いもなく綺麗に揃っている。
こんな事に、何の意味もないことくらい分かっている。
けれど、こうして指先だけでも何かに無理やり集中させておかないと、私の視線は、意思に反して廊下の向こう側へ、吸い寄せられてしまう。
「泉? 」
上から降ってきた穏やかな声に、ハッとして指先が止まる。
見上げると、持田さんが、小脇にプリントの束を抱えたまま不思議そうに私を見下ろしていた。
「……どうした? 」
「何でもない」
私は努めて冷静な声を返し、机の上のシャープペンシルの位置を数ミリだけ整えた。
「何でもしてる顔だけど」
持田さんは小さく苦笑すると、私の前の椅子を静かに引き、背もたれを前にして跨るように腰掛けた。
プリントの束を机に置き、覗き込むように私と、それから開け放たれた廊下の向こうへ視線を往復させる。
「大丈夫だから」
「そっか。……ウチ、これからトイレ行くけど、一緒に行く? 」
「大丈夫」
「我慢は良くないぞ、泉」
悪戯っぽく、けれどどこか諭すように言われて、私は小さく息を吐き出した。
「我慢なんて、してない」
「トイレのことじゃなくてさ……」
持田さんは声を少し潜めると、廊下の喧騒を遮るように私の机にぽんと手を置いた。
「……言いたくなったら、聞いて欲しい」
綺麗に並んだ文房具を見つめたまま呟くと、持田さんは小さく、けれど深く頷いた。
「了解」
そう言って彼女は私の肩をぽんと一度だけ叩き、椅子から立ち上がった。
持田さんの背中を見送ってから、開いたままの教科書へと視線を落とす。
白黒の無機質な活字が並んでいるけれど、その一文字たりとも私の頭へは入ってこない。
また、廊下の向こうから弾けたような笑い声が鼓膜を震わせる。
その瞬間、鍵をかけたはずの胸の奥が、今度はきゅっと、心臓を直接握り潰されるようにして縮んだ。
こんなのは。
めるを困らせるだけ。
私は静かに、胸の奥で燻る歪んだ熱を吐き出すように、小さく息を漏らした。
そうして文字通り「意識のすべて」を、強制的に教科書へと引き戻した。
二時限目の授業中、黒板に何が書かれていたのか、今となってはほとんど思い出せない。
先生の抑揚のない声は確かに鼓膜に届いていたし、チョークが黒板を硬く擦る音も聞いていた。手元を見れば、ノートに判読できる文字を書き写した記憶だって、機械のルーティンのようにちゃんと残っている。
それなのに。
鍵をかけたはずの胸の奥では、あの短い休み時間に廊下で弾けていためるの笑い声だけが、何度も、何度も、鼓動を打つたびに執拗な反響を繰り返していた。
チャイムが鳴る。三時限目。四時限目。
時間だけは、誰にでも平等に流れていく。
けれど、私だけが、あの短い休み時間に置き去りにされたままだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴った途端、教室の空気が一気に緩む。
「真琴、優梨と叶乃は生徒会室に用事あるみたいだから、二人でお昼食べよ! 」
後ろから聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、めるがお弁当箱を両手で掲げながら、満面の笑みを浮かべている。
「今日はお弁当? 」
「そう! お母さんが朝から頑張ってくれた! 」
机を向かい合わせると、めるは待ちきれないといった様子で嬉しそうに蓋を開ける。
そんなめるにつられて、私もお弁当箱を開ける。
「おっ。見て、真琴。タコさん! 」
綺麗に切り込みの入った赤いウインナーを器用に箸で摘まみながら、子どもみたいにはしゃいでみせる。
その曇りのない笑顔は、朝と何一つ変わらない。
変わってしまったのは、私だけ。
「真琴? 」
覗き込むような視線と同時に、私の名前が鼓膜を叩く。
「……何? 」
「やっぱり変。反応ちょっと遅くない?」
「そんなことないよ」
「ある」
自分では、いつも通り即答したつもりだった。
それでも、めるは少しだけ眉をひそめて、納得のいかない表情を見せる。
「ねぇ、本当に大丈夫? 」
逃げ場を失くすようなその純粋な問い掛けから目を逸らすように、私は自分のお弁当箱から卵焼きをひとつ、静かに口へと運んだ。
甘い、はずだった。
なのに今日は、何を食べても同じ味しかしなかった。
「……大丈夫だから」
これ以上めるに踏み込まれないように、防壁を築くような言葉だけが先に口をつく。
それが本当の言葉かどうかなんて、自分でももう分からないままだった。
めるは、すぐには返事をしなかった。
お弁当箱へと視線を落としたまま、小さな唇を少しだけ尖らせて何かを考え込んでいる。
昼休みの喧騒が鳴り響く中、二人の間にだけ流れるその静かな沈黙が、かえって私の胸の奥を落ち着かなくさせた。
「唐揚げ、一個食べる? 」
唐突に、私の視界へ箸で摘ままれた唐揚げが差し出された。
思わずパチパチと目を瞬かせる私を、めるは少しだけ照れくさそうに見つめている。
「……いいの? 」
「うん。美味しいから、一緒に食べたい」
その真っ直ぐな言葉の熱に当てられて、胸の奥にかけたはずの鍵が、今度はひどく甘く、泣き出すようにして軋んだ。
一緒に。
たったそれだけの、当たり前みたいな四文字だけで。
すべてが嘘みたいに消え去って、私はあっけなく救われてしまうのだ。
こんなにも簡単に――こんなにも身勝手に。
「ありがとう」
私のお弁当箱に置いてくれた唐揚げを口へ運ぶ。
サクッとした衣の中から、じゅわっとジューシーな旨味が広がる。
さっきの卵焼きの時には何も感じられなかったはずの味が、めるの「一緒に」という言葉の魔法によって、少しだけ輪郭を取り戻した気がした。
「美味しい? 」
めるが小首を傾げながら、期待に満ちた瞳で覗き込んでくる。
「……うん、すごく」
「お母さん、料理上手なんだよね」
めるは自分のことのように嬉しそうに、パッと顔を輝かせて笑う。
その曇りのない笑顔を間近で見つめていると、さっきまで私の胸の奥を激しく締め付けていたあの歪んだ熱が、ほんの少しだけ形を変えていくのが分かった。
消えた訳じゃない。
無理矢理、見えない場所へ押し込めただけ。
また何かの拍子に、簡単に溢れてしまうくらい脆いままで。
「真琴」
再び、すぐ目の前から名前を呼ばれる。
今度は、さっきまで私の心を救ってくれたあの無邪気なトーンとは、明らかに違う声色だった。
少しだけ低くて、真剣な、私の芯に直接届くような声。
「今日さ」
めるは持っていた箸をそっとお弁当箱のフチに置くと、真っ直ぐに私の瞳を見つめてきた。
「アタシ、何かした? 」
躊躇いがちに零された一言……見透かされた恐怖と、彼女を不安にさせてしまった罪悪感が、一気に全身の血を駆け巡る。
「違う」
ほとんど反射だった。取り繕う余裕なんて微塵もなくて、喉までせり上がった声を、必死に押し戻す。
「めるは、何も悪くない」
それだけは、絶対に違う。
悪いのはめるじゃない。
友達と楽しく話していただけの彼女に対して、勝手に扉の鍵をガタつかせ、醜い熱で自分の心を持て余している――私の方なのだ。
「……そっか」
めるは小さく頷いた。
けれど、私の必死の否定を聞いても、彼女の曇った表情から不安の影が完全に消え去ることはなかった。
私が「大丈夫」と壁を作って微笑むたびに、めるはいつも、少しだけ泣き出しそうな、困ったような顔をする。
その理由が、ようやく分かった気がした。
めると恋人になる前――
私のなかの歪んだ熱を、何も言わずにただ心の奥の扉へと閉じ込めて、抱え込んで、最後にそのすべてを彼女にぶつけてしまった。
あの時、めるを泣かせたのは。
感情じゃない……めるに何も伝えなかったことだ。
「……真琴」
めるは静かに息を吸う、決意を固めるみたいに、真っ直ぐに見つめて。
「今は無理でもいい」
優しい声だった。だからこそ、自分の不甲斐なさに胸が痛い。
「でもね」
一度だけ言葉を切る。
それから、逃げ道を塞ぐのではなく、私が歩き出せるように、そっと道を照らすみたいに笑った。
「今度は、ちゃんと真琴の想いを伝えてほしい……」
めるが机へ少し身を乗り出し、その綺麗な顔を私のすぐ近くへと、そっと近づけてくる。
めるは小さな手を伸ばすと、私の耳の後ろへとそっと優しく添えた。
周囲の喧騒がすべて遠のき、世界に二人だけになったような近さで、私の耳元に囁いた。
「恋人でしょ」




