第75話 少しずつ
終礼のチャイムが鳴る。
教室中が、一気に騒がしくなった。
「じゃあねー! 」
「また明日!」
椅子を引く音。机を動かす音。笑い声。
そんな賑やかな教室の中で、私は教科書を鞄へしまっていた。
「真琴ー! 帰ろー! 」
聞き慣れた声。
顔を上げると、めるが私の机にちょこんと肘をつきながら、悪戯っぽく笑っていた。
「うん」
立ち上がると、めるは満足そうに頷く。
校門を出るなり、めるは身震いをしてマフラーを口元まで引き上げた。
「今日、風ちょっと強くない? 」
「朝よりは」
「アタシ、髪ぼさぼさになるんだけど」
ぶつぶつと文句を言いながら、めるはスクールバッグから手鏡を取り出し、片手で自分の髪を指先で整え始める。
風に煽られる髪を気にしながら眉を寄せるその仕草が、少しだけ可愛いと思った。
……いや。少しじゃない。
付き合う前から可愛いと思っていた。
でも。今は、その可愛いを私だけが知っている。そんな事実だけで、胸の奥の痛みが、少しだけ和らいで行く。
「める」
「ん? どしたの?? 」
手鏡から目を丸くして私を見上げる。額にかかった前髪が気になって、指先を伸ばす。
前髪を整えるだけのつもりだった。
……もう少しだけ。
そう思った自分に気付いて、慌てて手を離した。
「えー もう、崩れてた? 」
私の指先が触れた瞬間、めるが一瞬だけ硬直したように見えた。
私が触れたからじゃない。周りの視線を気にしたのだと分かった。
めるは学校では――人前では、アタシたちの関係を『恋人』にしない。
「整えても、この風だから」
「……ありがと。真琴がそう言うなら、もう崩れても気にしない」
めるは手鏡を引っ込めると、はにかむように微笑んだ。
「どんなめるでも、変わらないから」
口にしてから、自分でも少し気恥ずかしくなる。
めるが歩き出す。私は、その隣に並び他愛もない話を続ける。
今日の授業のこと。先生のおかしな口癖。最近一緒に観たアニメの感想。
話題は、ころころと目まぐるしく変わる。けれど、めるの声に耳を傾けているその時間が、どうしようもなく心地よかった。
「あとちょっとで二年生かぁ」
めるがふと歩みを緩め、冬の澄んだ空を見上げた。
「早かった」
「一年って、もっと長いと思ってたじゃんね」
「色々あったから」
「あーね……」
そう言ってめるは、どこか愛おしそうな視線を私に向けてくる。
「ホントありすぎじゃんね」
二人で顔を見合わせて、小さく笑った。
具体的に何があったか、わざわざ言葉にして答え合わせはしない。
それでも、お互い同じことを思い浮かべているのが分かった。
あの日も。
あの日も。
振り返る記憶の全部、私の隣にはいつもめるがいた。
駅前のアーケードへ入ると、それまで私たちを拒んでいた冷たい風が、遮られて少しだけ弱まる。
「ふあー、やっと風から解放された……」
めるがマフラーを口元から引き下げた。
「春、早く来ないかなぁ」
「まだ二月」
「知ってる。ってか、お姉ちゃんと、昨日電話してたらさ、同じ話をしたんだよね。そしたら『めるは年中、頭は春じゃん』言われた」
「……知ってる」
「真琴まで、ひど」
不満げに頬を膨らませたかと思えば、次の瞬間にはもう何事もなかったように楽しそうに笑っている。
めるの表情は、本当に忙しい。
「……あ」
めるが少しだけ前屈みなりお腹を抑えた。
「どうしたの? 」
「お腹空いた」
「急だね」
「今、『限界』って、お腹の虫から指令が来た」
「さっきまで春の話をしてたのに」
「そう、春。春といえば『花より団子』でしょ? 」
「団子に引っ張られるの早すぎ」
「アタシ、季節のトレンドに敏感だからさ」
めるのあまりに強引な屁理屈に、思わずふっと笑ってしまう。
「ねぇ、真琴」
めるが私の顔を覗き込んできた。少しだけ上目遣いになるその瞳に、胸がすっと甘く締め付けられる。
「団子じゃないけど、ひょうたん揚げ食べよ? 」
「いいよ」
「やった! 」
子どもみたいに無邪気に目を輝かせて、めるは私の少し前を弾むように歩き出す。
楽しそうに揺れるめるの横顔を見つめながら、私は歩調を合わせつつ、少しだけ思考を巡らせた。
付き合う前だって、こうして当たり前のように一緒に学校を出て、一緒に帰っていた。
他愛もない話をして、呆れて、笑って、こうして寄り道をして。
何も変わっていない……はず
そんなことを考えているうちに、目的のお店が見えてきた。
「着いた! 」
めるが立ち止まり、嬉しそうに私に振り返る。
放課後ということもあって、店先には数人の学生が並んでいた。
「思ったより空いてる」
「休日だと、もっと並ぶもんね」
「真琴って、甘口と辛口どっち派? アタシは甘口派」
「どっちも食べられるけど、今日は甘口にする」
「お、真似したな」
満足気にめるは頷きながら、列の最後尾へ並ぶ。
ホットケーキみたいな甘い匂い。自然とお腹が空いてくる。
「匂いだけで、涎出るわ」
「もう少しで、私たちの番」
「おけ。それまで、なんとか我慢する」
隣を見ると、めるは真下を向いていた。食べている人を見ないようにしているらしい。
「そんなに、お腹空いてるの? 」
「うん」
即答だった。
「今日は六時限目が体育だったじゃん。終わってからHRの時も、お腹鳴らないように耐えてたし」
「……そうだったんだ」
「奇跡的に、お腹の虫が言う事を聞いてくれた」
真下に向けられた顔が上がった瞬間だった。
ぐぅ。
「……」
「……」
めるがゆっくりと私を見る。
「今のは」
「聞こえた」
「ノーカン」
「鳴ってた」
「真琴。こういう時は『聞こえてない振りをする』のが、レディーに対しての正解よ」
「レディーならお腹の虫を飼い慣らすべき」
「ぐぅの音も出ない……いや、物理的には出たんだが! 」
思わず笑みが零れた。
「笑ったな!? 」
「ごめん」
「絶対思ってない! 」
店員さんに呼ばれて、二人で一歩前へ進む。
「二本お願いします。どっちも甘口で」
注文を済ませして、少し待つと「お待たせ、ひょうたん揚げ二本。どっちも甘口ね」威勢のよい店員さんから差し出された木串を、一本ずつ引き抜く。
持ち手の串だけが飛び出し、揚げたての熱を指先に感じながら、店先の空いていたベンチへ腰を下ろした。
「いただきます! 」
めるはケチャップが垂れない角度を保ったまま、一口目で上のひょうたん揚げを大きくかじり取った。
「あっつ! 」
「揚げたて」
「それは、分かってたんだけど! 」
口を小さく開けて、はふはふと息を吹きかける。
その姿に、また笑ってしまう。
「……また笑った」
「うん」
「ひど」
文句を言いながらも、めるも笑っていた。
めるが恐る恐る、ひょうたん揚げの二つ目へ口を付ける。
「……今度は平気」
「学習した」
「さすがにね」
得意げに笑うめるを見ながら、私も一口かじる。
揚げたての衣はまだ温かく、ケチャップと中に隠れた、かまぼこが口の中に広がった。
「美味しい」
「ほんそれ。この甘じょっぱさとケチャップの酸味が、空きっ腹に最高に染み渡る」
めるは満足そうにもう一口かじると、何気なく串へ視線を落とした。
「……ん? 」
首を傾げたまま、串をくるりと回す。
「真琴」
「なに? 」
「これ」
差し出された串を見る。
持ち手の先に、小さい文字。
『当り』
「める、凄い。おめでとう」
「え、ウソ!? 」
思わず、めるの声が弾む。
「えっ、待って待って! ホントに!? 」
めるが串と私の顔を何度も見比べる。
「私も初めて見た」
「やばっ! 激レア当てちゃった!! 今日のアタシついてるじゃんね!! 」
その場で小さく跳ねるめるを見ているだけで、私まで嬉しくなった。
「記念に《《取って》》おきたい気もするけど、こっちの方で」
めるがスマホを取り出し「真琴、持ってて」と串を手渡して来た。
そのまま串を持っていると『当り』と書いてある部分を、角度を変えながら丁寧に《《撮って》》いく。
撮り終えて店員さんへ串を渡すと、
「あら、珍しい。おめでとう! 」
そう言って、新しいひょうたん揚げを、めるに一本手渡してくれた。
揚げたてらしく、ほわりと湯気が立ち上る。
「はい! 」
嬉しそうに掲げた新しい一本……でも次の瞬間には、その勢いのまま私へ差し出してきた。
「真琴、食べて! 」
「え? 」
「半分こ! 」
「当たったの、めるなのに」
「だからじゃん」
めるは当たり前みたいに笑う。
「一人で食べるより、一緒の方が美味しいじゃんね」
昔から、そういう子だった。
自分だけが得をすることを選ばない。
だから私は。そんなめるが、好きなんだ。
ベンチに座り直し二人で一本のひょうたん揚げを分けながら、行き交う人々を見ていた。
夕方の商店街は、買い物帰りの人や学校帰りの学生で賑わっていた。
そんな中でも、めるは楽しそうに今日あった出来事を話し続けている。
私は相槌を打ちながら、その横顔を眺める。
ふと、校門を出た時のことを思い出した。
触れかけた指先を、慌てて離したこと。
周りの目を気にして、一瞬だけ硬直しためるのこと。
ただの日常のはずなのに、思い出すたびに、何かが小さく引っかかる。
――この感情に、名前をつけたら。
心の奥底にある扉へ、鍵をかけたはずだった。
それなのに、閉じ込めたはずの向こう側で、ドアノブが静かに回った気がした。




