第74話 いつものめる
昨夜はあまり眠れず、いつもより早く家を出たせいか、教室にはまだ誰もいなかった。
珍しく一番乗りらしい。
それでも、教室へ入って真っ先に視線を向ける場所は、いつもと変わらない。
窓際の一番後ろにある、めるの席。
自分の席へ座り、鞄を机の横に掛ける。
誰もいない教室。
ひんやりとした静寂が肌を包む。まだ誰も触れていない朝の空気の中で静かに背伸びをする。
今日はどんな、めるが見られるのだろう。
昨夜の続きが脳内スクリーンに映し出される。
動画を見て。思い出して、また動画を見て。
眠りについたのが何時だったのかも、よく覚えていない。
ちらほらとクラスメイトも登校してきたので、脳内スクリーンを強制終了させた。
ぼんやりと一時限目の英語のノートを眺めていると、教室の扉が勢いよく開く。
その音だけで、誰が来たのか分かってしまい、顔を上げる。
「おはー! 」
めるの明るい声が教室へ響く。
今日も当たり前に可愛い。
教室へ入ってくるなり、近くのクラスメイトへ「おは」と笑い掛け、こちらに向かってくる。
そして。
私と目が合うと、表情がぱっと柔らかくなった。
「真琴! おはよ」
「おはよう、める」
誰にも呼ばれていない名前。誰も呼んでいない名前。私たちだけの特別であり普通のこと――
「真琴、なんか眠そうじゃない? 」
めるが私の顔を覗き込む。
シャンプーかスタイリング剤を変えたのか、あたたかなハニーフローラルの香りが、ふわっと鼻先をかすめた。
長い睫毛も、少しだけ艶のある唇も、昨日よりずっと意識してしまう。
「……寝不足」
「珍し。夜更かし? 」
「うん」
「前に貸した漫画? 」
小さく首を横に振る、本当のことを言おうかどうか少しだけ思案した。
めるが作ってくれた動画を、何度も繰り返し見ていた。
薄暗い部屋で一人、めるが使ったクッションに顔を埋めたりもした。
「動画を見てた」
「……いちおう聞くけど、何の? 」
「秘密」
「あーね。ちな、何回観たの? 」
少しだけ、めるの声が上擦ると、頬がうっすらと赤くなった。
私は答えず、めるを見つめ返す。
「え、ちょっと待って。言うて二回とかでしょ? 」
「四回」
「倍だった! 」
「寝る前までに」
「寝る前までにってことは、そのあとも見たの!? 再生回数更新中? 」
「一コマ、一コマ観たいから時間はかかる」
「寝不足理由!!! 」
めるの声が少しずつ大きくなっていくと、クラスメイトが何事かとこちらを見てきた。
めるは慌てて自分の口を両手で押さえた。
私の制服の袖を掴み、少しだけ引き寄せる。
「もう! 教室でする話じゃないじゃんね」
耳元で囁かれた声。めるの息が触れる。
途端に濃くなったハニーフローラルの香りに、理性がふわりと揺らいだ。
まるで甘い罠に誘われるように、私は無意識に、めるの方へと体を傾けていた。
昨日のキスを思い出して、唇が熱くなる。
「……聞いたのは、める」
「真琴が普通に答えると思わないじゃん! 」
「質問されたから」
「そういうとこ! 」
怒っているように見せているけれど、頬は赤いままだった。
かわいい。
思わず、触れたくなる。でも、教室には人がいる。
私は袖を掴んでいるめるの手を見下ろしただけで、何もしなかった。
「めるちょ、昨日の英語の課題やった? 」
近くにいたクラスメイトが、めるに声を掛けた。
「やったよ。てか、あれ問題多すぎじゃない? 後半とか普通に心折れそうだったじゃんね」
「ほんそれ。最後の長文、意味分かんないし」
「あれ絶対、高一に読ませる量じゃなくない? 」
めるはすぐにそちらを向く。
制服の袖から、指が離れ、甘い香りが遠のいていく。
ほんの少し前まで私だけを見ていた瞳が、今は別の人へ……
楽しそうに笑って。
相手の話に大きく頷いて。
いつものめるだった。
誰かに話しかけられれば、自然に応える。
相手が話しやすいように笑って、言葉を返す。
私が好きになった、めるそのもの。
だから。
胸の奥に走った小さな痛みの理由が、分かりたくなかった。
授業が始まってからも、昨日の余韻は消えなかった。
ホワイトボードを見る振りをして、窓際の一番後ろに座るめるを視界の端で何度も見てしまう。
先生の話を聞きながら、時々ノートへ文字を書き込んでいる。
長い髪が揺れるたび、耳元の星形のピアスが小さく光った。
以前から、何度も見てきた姿。
それなのに今日は、目を逸らすことが難しい。
私の視線に気付いたわけじゃないと思うけれど、めると目が合った。
先生がホワイトボードに書いてる時に、めるは口だけを小さく動かす。
『どうしたの? 』
たぶん合ってると思うけれど、別にどうしたわけでもない。
私は首を横に振り、口だけを動かした。
『何でもない』
そう伝わったのか分からないけれど、めるは少しだけ不思議そうな顔をして、窓の外に視線を移した。
胸が満たされる。
大勢いる教室の中で、私だけを気にしてくれた。
それだけで嬉しい。
なのに。
「八乙女」
教師が、めるの名前を呼んだ。
「はい? 」
「この文章、訳してみろ」
「えっ、アタシ? 」
「今、窓の外見てただろ」
「ちょっと遠くを見てただけです! 」
「それを窓の外を見てたって言うんだよ」
教室に笑い声が広がる。
めるも気まずそうに笑いながら立ち上がった。
ホワイトボードを見て。
教科書を見て。
少し考えてから、たどたどしく答える。
教師が途中で助け舟を出すと、
「あ、そっか! やるじゃん、先生! 」
「先生だからな」
「先生なら出来ると思ってました」
「八乙女なら出来ると思ったんだがな」
「あーね。先生、見る目ない。って、言われません? ふしあなじゃんね」
「自分の能力不足を棚に上げて、こっちの視力を奪うな」
また、教室が笑いに包まれて、めるも楽しそうに笑っている。
先生も、呆れたように口元を緩めていた。
可笑しいけど、何もおかしくない。いつもの授業で、いつもの会話。
付き合う前から、何度も見てきた。
めるらしいって、本当に、そう思う。
でも。
胸の奥が、小さく疼く。
……昨日までなら、きっと何とも思わなかった。
めるが楽しそうなら、それでいい。今も、そう思っている。
思っているのに、どうして。
教師へ向けられた笑顔を見ているだけで、こんなにも落ち着かないのだろう。
昼休み。
いつもと同じように、持田さんと黛さん、それからめると、四人で机を囲んでいた。
「めるち、それ一個ちょうだい」
めるがグミの袋を胸元へ隠す。
「やだ。これ最後の一個だもん」
「それ、半分にすると、なんと二個になるんだよ。カノ的にニコニコだよね」
「アタシは全然、ニコニコにならない。ってか、グミとか半分に出来ないって」
「カノの力をなめるなよ」
「いや、手で半分にしようとすな。それにカノ、握力測定は小学三年生と同じくらいだったじゃん」
持田さんが、二人のやりとりに呆れたように笑う。
その隙に、黛さんが素早く袋へ手を伸ばした。
「ちょ、こら! 叶乃! 」
「隙あり」
「返せー! 」
楽しそうな声が、昼休みの教室に響く。
めるが笑っている、いつも通り。
誰かと話して、誰かの言葉に笑って。
誰かを笑わせている。
昨日、私に向けてくれた笑顔と、同じように見える。
そんなはずはない。
二人きりの時のめるを、私は知っている。
『恋人タイム』と、言って腕を絡めてくることも。
肩へ頭を預けてくることも、照れながら名前を呼んでくれることも。
昨日、自分から唇を重ねてくれたことも。
全部。
私しか知らない、私だけのめるが、確かにいる。
だから、何も不安に思う必要なんてない。
「真琴」
めるが不意に私の名前を呼ぶ。
「私が叶乃を抑えてるから、袋取って! 」
いつの間にか、めるが黛さんの両腕を必死に掴んでいた。
黛さんに潤んだ瞳で見つめられる。けれど、めるに頼まれてしまった。
少しの罪悪感を抱えながら、黛さんの手からグミの袋を取り、めるへ渡す。
「はい。これ、真琴の分」
必死に取り戻した最後の一個を、私の手のひらへ乗せる。
「最後の一個じゃなかった? 」
「真琴なら良いよ、奪い取ってくれたご褒美。グレープ味のグミ好きでしょ」
何でもないことのように笑う。
その言葉を聞いて、私はようやく息ができた気がした。
めるは、また持田さんたちとの会話へ戻っていく。
私は手のひらに置かれた小さなお菓子を、しばらく見つめていた。
特別――私は、ちゃんと特別だった。
分かっている。
分かってはいる。
安心しなければならないほど、さっきまで私は何を不安に思っていたのだろう。
気付いてしまった痛みに、わざと鍵をかける。
今は、まだ名前を付けたくなかった。
グミを口へ入れる。
その瞬間、めるがこちらを見た。
「美味しい? 」
「甘酸っぱい」
「それな」
めるは、なぜだか嬉しそうに笑った。私だけに向けられた笑顔。
視界いっぱいに、めるの笑顔があるのに。なぜか私は、酷く飢えている。




