第73話 眠れない夜
眠れなかった。
眠ろうとは、した。
部屋の電気を消して、ベッドに入って、目を閉じた。
それなのに。
瞼を閉じるたび、暗闇の中に浮かび上がるのは、今日のことばかりだった。
めるが嬉しそうに笑った顔。
私の作ったチョコレートを頬張って、「美味しい」と言ってくれた、弾んだ声。
そして。
あの動画が終わったあと……
『真琴、大好き』
耳の奥で、何度も、何度も、繰り返し再生される。
めるの口から紡がれた言葉は、世界で一番優しい音に聞こえた。
そのたびに、熱いものが心臓から指先へと、じわりと広がっていく。
眠ろうとしても――眠れるはずが、なかった。
寝返りを打って、枕元に置いたスマホへ、そっと指先を伸ばす。
眩しさに少しだけ目を細めながら、画面を見る。
時刻は午前一時四十三分。
ホーム画面にある動画を、迷わず開いた。
『真琴だけ。』
その文字を見るだけで、胸が少し苦しくなる。
嬉しくて。
苦しい。
動画が始まる。
『うわっ、近っっ!!』
画面いっぱいに映し出された、愛おしいめるの顔。
最初から、見事に失敗している。
本人に言ったら、きっと顔を真っ赤にして「黒歴史!」って大騒ぎするんだろうけれど。
「……かわいい」
静かな部屋に、ぽつりと私の本音が零れた。
レンズに近すぎる、めるの整った顔立ちも。
星を閉じ込めたように輝く瞳も。
慌てふためく、少し高い声も。
全部、たまらなく愛おしくて、かわいい。
私は、そっと一時停止のボタンを押した。
光を放つ画面を、指先で、そっとなぞる。
ガラス越しに、めるの頬に触れるみたいに。
「……める」
返事なんて、返ってこない。
当たり前だ、動画なんだから。
それでも、名前を呼ばずにはいられなかった。
もう一度、再生ボタンを押した。
制服姿。
私服姿。
猫カフェ。
文化祭。
体育祭。
雪の日。
変顔をして楽しそうに笑って、カメラに向かって無邪気に手を振って。
その画面の中をめまぐるしく動く、眩しい全部が、めるだった。
私だけが知っている表情もある。
みんなが知っている笑顔もある。
それでも。
この動画のすべてが、私だけに向けられている。
薄暗い部屋で画面を見つめながら、小さく笑ってしまう。
動画は、ゆっくりと終盤へ近付いていく。
『真琴!』
私の名前が呼ばれた瞬間、自然と、ベッドの上で背筋が伸びた。
『お誕生日おめでとう!』
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
『来年も!』
『再来年も!』
『その次も!』
『ずっと、一緒に祝おうね!』
一瞬、静かに。画面が、真っ黒にブラックアウトした。
少しだけ、目を閉じた。
知っている。
ここで、終わりじゃないことを。
『あ』
『まだ終わってなかったわ』
目を開ける。
画面の中で照れくさそうにするめるを見て、私は、少しだけ微笑む。
『現場の、めるさん』
『最後に一言、どうぞ!』
そして。
動画は、そこで本当に終わる。
ふっと、スマホの画面が完全に暗くなった。
けれど、その先は……動画には映っていない、二人だけの大切な続き。
耳まで真っ赤にして。
何度も言い直そうとして。
それでも、私の目をまっすぐに見つめて、届けてくれた言葉。
『……大好き』
その、震える一言だけで。
私は、この先何十年分もの幸せを、今日一日で使い切ってしまったんじゃないかと思った。
それくらい、胸の奥が満ち足りていて、恐ろしいほどに温かい。
静まり返った部屋の中で、一人。
暗くなったスマホを、胸の前にそっと抱き寄せる。
まだ。
私の唇には、あの甘くて、信じられないほど優しい温度が残っている気がした。
思わず、指先で唇に触れた――「める」
あの時、私が傷つけてしまった場所へ。
今日、めるは自分から、もう一度触れてくれた
……める。める。める。
何回も名前を呼んで、そのたびにキスしたくなる。
スマホ画面にはもう何も映っていない。
それなのに。
そっと目を閉じれば、めるが眩しそうに笑う。
静かに耳を澄ませば、めるの愛おしい声が、すぐそばで聞こえる。
今日一日の出来事が、まるで夢じゃなかったと確かめるみたいに、胸の中で何度も繰り返されていた。
小さく息を吐く。
もう一度。
動画を再生した。
さっきまで見ていたはずなのに、不思議と飽きなかった。飽きるはずがなかった。
同じ場面で笑って。
同じ場面で胸が熱くなる。
最後まで見届ける頃には、自然と口元が緩んでいた。
「……四回目」
薄暗い中で小さく呟き、自分で数えておきながら、さすがに笑ってしまう。
たった数十分の間に、もう四回も繰り返し見ている。
きっと、明日になったら五回目。
来週には、十回を遥かに越えている。
来月には。
来年には。
――私はこの動画を、これから先、何回繰り返して見るんだろう。
『真琴だけ。』
その文字を見つめる。ファイル名を変えようとは思わなかった。
指先でそっと文字をなぞってから、スマホをロックし、大切に枕元へ置く。
手放した途端、部屋は再び静寂に包まれた。
腕を伸ばし、厚手のカーテンを少しだけ開けた。
隙間から覗く窓の外では、街灯に照らされた雪が静かに舞い落ちていた。
昼間の賑やかさが嘘のような、冷たくて、どこまでも静かな夜。
私たちが過ごした今日の特別な時間を閉じ込めたい。
スノードームにして出窓に飾れたなら良いのに。
普段なら考えもしないような、少し子どもじみたことまで、今の私は本気で考えてしまっている。
……いや。
普段から、似たようなことは考えているかもしれない。
私の世界のほとんどは、めるで出来ているから。
ゆっくりとベッドから起き上がった。
部屋のドアの前、めるが脱いでいった、少しだけ不揃いなスリッパを綺麗に揃える。
ローテーブルに置いてある、めるが使ったマグカップの縁を優しく撫でる。
今も形が崩れている、めるが顔を埋めたクッションに、同じように顔を埋める。
どこを見ても、めるがいる。
たったそれだけで、部屋の空気まで少し違って感じる。
ローテーブルの前に座る。
チョコレートの箱には一つだけ。
めるが私のために残しておいてくれた。
嬉しかった。
こんなに食べてくれたんだ。
ひとつ摘まんで口へ運ぶ。
甘い。
でも。
「……めるの方が、甘かった」
ぽつりと。
静寂の中に、取り返しのつかない言葉を落としてしまった。
「っ……! 」
自覚した瞬間、全身の血が一気に沸き立つように、耳の先まで一瞬で熱くなる。
誰もいないのに。めるに見られているわけでもないのに。
クッションをすぐ手に取り、深く顔を埋めた。
「何を言ってるんだろ……」
誰もいない部屋で、自分の口から出たあまりにも甘すぎる言葉が、恥ずかしくてたまらない。
それなのに。
意識すればするほど、あの瞬間のことが鮮明に脳裏に蘇ってしまう。
短い時間だったのに。
どうして、あんなにも胸がいっぱいになるんだろう。
薄暗い中で、その言葉を心の中だけで呟く。
『恋人とのキス』
まだ声に出すには、少しだけ照れくさい。
まだ、私の口から発するには、少しだけ照れくさくて、気恥ずかしい。
でも。
泣きたくなるくらい、心が震える。
「……める」
もう一度、薄暗い中で、その名前をそっと零してみる。
当然、返事はない。
静かな部屋には、自分の吐き出した微かな吐息だけが残る。
――今日だけで、私は何度、その名前を呼んだんだろう。
照れくさそうに笑うめるを。泣き出しそうなめるを。愛おしくて、抱き締めたくなるめるを。
呼び止めるたびに、私の世界はめるの名前だけで満たされていった。
名残惜しさを昨日に残したまま、ゆっくりとベッドへ戻る。
シーツに体を沈め、暗い天井をそっと見上げた。
枕元からスマホを引き寄せる。
「……あと、一回だけ」
そう言い訳して、もう一度動画を開く。
めるが私のために作ってくれた、世界に一つだけの動画。
そして私の中に残った、甘くて、温かい、奇跡のような思い出。
そのどちらも、きっとこれから先、一生消えることはない。
私は、幸せだった。
間違いなく、これまでの人生で一番。
息が止まってしまいそうなくらい。
だから。
――あまりにも幸せすぎて。
めるのいない世界に、もう二度と戻れない気がした。




