第66話 遠すぎる背中
部屋の中に、ココアの甘い香りがゆっくりと漂う。
湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら、着る毛布にすっぽり包まれためるが、ほっとため息を吐く。
「あぁ……身体と心に染み渡る……」
「そんなに帯、苦しかった? 」
「想像以上! なんかずっと、お腹ぎゅーってされてる感じ! あんなに屋台で欲張って食べるんじゃなかったぁ……」
「結構、食べてた」
「だって叶乃といると、つい釣られて食べ過ぎちゃうんだもん! 」
「人のせいにしない」
「むぅ」
めるは両腕を突き上げて背筋を伸ばす。
不満そうに頬を膨らませる姿がおかしくて、私は小さく笑ってしまう。
「あ、いまバカにしたでしょ」
「してない」
ソファの向かい側でそんな私たちのやり取りを眺めながら、つむぎさんも自然と笑みを零した。
「いいんだよ真琴ちゃん、めるはバカだから笑ってあげて」
「お姉ちゃん!? 」
「あ、言い方間違えた。『バカ可愛い』ってこと」
「……分かります」
私が大真面目に同意すると、めるの耳が瞬く間にほんのり赤くなった。
「……まぁね、アタシ可愛いし」
分かりやすい照れ隠しをしながら、めるはココアをひと口飲む。
私も、自分のカップへ口をつけた。
じわりと広がる甘さは、どこか、落ち着く味だった。
しばらく他愛もない話で盛り上がっていると、めるがふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、お姉ちゃん」
「ん? 」
「神戸のチームはどう? 」
その問い掛けに、つむぎさんは少しだけ考えるように視線を泳がせた。
「どう……かなぁ」
手元のマグカップを見つめながら、つむぎさんは自嘲気味に小さく笑う。
「去年はね……正直、全然ダメだった」
めるも私も、思わず声を詰まらせて続きを待った。
「移籍したばかりだったし、周りは年下の子も含めて、世代別代表や、フル代表クラスのバケモン揃い。最初は練習に付いていくだけで本気で精一杯だったんだよね」
その時を思い出してるかのように、つむぎさんの視線はどこか遠くを見ていた。
「もちろん試合には出られない。スタンドから眺めるか、たまにベンチを温めてるだけ」
言葉は驚くほど淡々としていた。ただ、事実を並べるように。
「それでも、必死に毎日食らいついて……秋頃になって、少しずつ使ってもらえるようになった」
つむぎさんは顔を上げ、ふっと笑う。
「で、今はスタメン」
その笑顔は誇らしいというより、ようやくスタートラインに立てた人の笑顔だった。
「今年はもっと結果を残したいな。それで、その先は海外」
「海外……っ? 」
さらりと告げられた大きな目標に、めるが目を丸くした。
「チャンスがあるなら絶対挑戦したい。それが今の、私の現実的な目標」
静かだけれど、ブレない声。
夢を語るというより、次の一歩を踏み出す道を確認するような、そんな確かな口調だった。
私は少しだけ迷ってから、手元のカップを見つめたまま口を開いた。
「……去年は、試合に出られない時期も長かったんですよね」
「うん」
つむぎさんはあっさり頷いた。
「正直、何回も辞めたくなったよ」
思わず、めると同時に顔を上げる。
「……でもね」
つむぎさんは、ココアを一口飲むと、抑えきれなかったような笑みを浮かべた。
「辞めたいより、試合に出たい気持ちの方が強かった」
その一言は、静かな部屋と私の心にすっと溶けていく。
強い人は、迷わない人なのだと思っていた。
違う。迷っても、それでも進む人のことなのかもしれない。
「だから、練習するしかなかったんだよね」
隣でめるが、下唇を噛んでいた――
つむぎさんは悔しさも、焦りも、大袈裟には語らない。
それなのに。その一言一言から、積み重ねてきた時間だけは伝わってくる。
「……ほら」
めるが誇らしそうに、でも少しだけ切なげに笑う。
「ん? 」
「そういう努力をさ、当たり前みたいに続けられるところ。凄いなって」
つむぎさんは少し気恥ずかしそうに苦笑した。
「でしょ」
「うん」
めるは何度も、自分に言い聞かせるように深く頷いた。
「昔からずっとそうだったもん。お姉ちゃんは、ちゃんと努力が出来る人だから。試合に出られなくて腐りそうな時も知ってるし、それでも当たり前みたいに練習を続けて……」
めるが、少しだけ寂しそうに笑う。
「そうやって自分でチャンスを掴んで、ちゃんとスタメンを取って。やっぱり、お姉ちゃんはお姉ちゃんだなぁって……遠くへ行っちゃうんだろうなって思う」
つむぎさんは静かに首を横に振った。
「努力なんて、みんなしてる。私だけが特別なわけじゃない」
「でも」
めるは視線を膝元に落とすと、袖をきゅっと握り締めた。
「その『みんなしてること』を、ずっと続けられるのが、一番凄いんだよ」
その声は、ひどく静かだった。
ふと、つむぎさんが優しげな視線を私に向けた。
「真琴ちゃんはさ」
「はい」
「めると付き合って、どれくらい? 」
「えっ!? 」
隣でめるが、弾かれたように勢いよく顔を上げた。
「お、お姉ちゃん! 」
「あ、ごめん」
つむぎさんは声を少し落として謝るものの、全然ごめんと思っていなさそうな笑みを浮かべた。
「気になっちゃって」
「そ、それは……」
あまりにも直球な質問に、私は完全に言葉に詰まる――どう答えようか迷っていると。
「もう! その話はまた今度! 」
めるが慌てて会話を遮った。
「えー、ケチ」
「はい! ケチです!! 」
頬を真っ赤にしためるを見て、つむぎさんは声を上げて笑う。
「だって、昔はめるとこんな話出来なかったでしょ」
「お姉ちゃん。高校も寮暮らしだったからだよ」
「たまに帰ってきた時に『好きな人いないの?』聞いても『恋愛対象で人を好きになったことないし、よく分かんない』しか言わなかったじゃん」
「あーーーー!! ほんとにやめて!!! アタシは何も聞かないし何も言わない」
めるが口をきつく結び、両耳をモコモコの袖ごしに両手でふさいで、ブンブンと首を振った。
「ごめんごめん。からかい過ぎた」
つむぎさんの笑顔につられて、私も口元が綻んでしまう。
こんな風に、遠慮なく笑い合える姉妹なんだ。
さっきまで抱いていた"偉大なお姉さん"という印象が、少しだけ柔らかく身近になった気がした。
それでも……めるがその背中を、ずっと眩しそうに追い掛け続けてきたことだけは、きっと変わらない。
ふと、本棚の写真立てが目に入った。幼いめるは、やっぱりカメラじゃなくて、姉だけを見ていた。あの頃からずっと、めるにとってつむぎさんは、追いかける背中だったのだろう。
部屋に、一瞬だけ穏やかな静けさが流れる。
その空気を破るように、テーブルの上でブー、ブー、とつむぎさんのスマートフォンが激しく震えた。
「あ、ごめん」
つむぎさんが画面を覗き込み、少しだけ綺麗に整えられた眉を上げる。
「チームメイトからだ。ちょっと電話出てくるね、すぐ戻るから」
そう言って、つむぎさんは軽快な動作で立ち上がった。
「二人とも、ココア冷めないうちに飲んじゃってね」
バタン、と静かにドアが閉まる。
部屋に残されたのは、私とめるだけ。
さっきまで賑やかだった部屋が、急に静かになる。
めるは耳から手を下ろし、自分のマグカップの底を見つめたまま、小さく、ため息のような息を吐き出した。
「……やっぱりさ」
ぽつり。
誰もいなくなった空間に、めるの声が寂しく落ちる。
「お姉ちゃんって、本当に遠いな。凄すぎるんだよ……」
返事はしなかった。
彼女の胸の奥から溢れ出そうとしている言葉を、私はただ静かに待つ。




