第64話 秘密じゃなくなった日
境内の端に置かれた木製のベンチに四人で腰掛ける。
参拝客の笑い声や屋台の呼び込みが遠くから聞こえてくる。誰も、さっきの続きを切り出さない。でも、その沈黙は長く続かなかった。
「……さっきのさ」
持田さんが、手元に視線を落としたまま静かに口を開く。
「八乙女」
めるの肩が、ぴくりと揺れた。
「何回か『真琴』って呼んでたよね」
優しい声だった。問い詰めたり、面白がったりする響きは、どこにもない。
ただ、確認するような口調。私は隣に座るめるを見る。
めるも、躊躇うようにゆっくりと私を見る。
視線が交差する。その一瞬だけで、お互いの意思が通じ合った。
――もう、隠さなくていい。持田さんと黛さんには、いつか自分たちの口から伝えようと思っていた。
もし最初に話すなら、この二人がいいとも思っていた。
今日が、その日なのかもしれない。
「……める」
小さく名前を呼ぶ。
めるは一瞬だけ目を丸くして、それから覚悟を決めたように小さく笑った。
「うん」
その一言だけで十分だった。
めるが深呼吸をひとつして、膝の上で拳をぎゅっと握る。
「ごめんね。隠すつもりじゃなかったんだ」
「……私も、ごめん」
私の謝罪に、めるは少しだけ照れくさそうに笑った。
「ちゃんと、アタシたちの口で伝えたくて」
「二人には、知っていてほしかった」
数秒、冷たい風の音だけが優しく通り過ぎていく。
最初に沈黙を破ったのは、やはり持田さんだった。
「……そっか」
責めることも、過剰に驚くこともなく。ただ、すべてを受け入れたように小さく笑った。
「やっぱり」
「気付いて……たの? 」
思わず聞き返すと、持田さんはあっさりと頷いた。
「泉が八乙女を好き、とまでは確信を持てなかったけど……なんか気になってんのかな?って、思ったのは中学生の頃から」
……そんなに前。心臓の奥が跳ねる。思わずコートの襟元を引っ張り上げたくなった。
「前に泉に言ったじゃん。『中学の頃、良くウチらのグループ見てたよね』って、そっから高校で同じクラスになって、二人の距離が急に縮まっても不思議じゃないでしょ」
めるが驚きを隠せない様子で、しきりに私へ目配せをしてくる。
「八乙女から夏休みだっけ?恋愛相談された時も、薄々感じてたし」
──『優梨は恋愛系が苦手だから、気付かない』って、いつだかめるが自信満々に言っていた言葉が、脳内で虚しくリフレインした。話が違う。
「文化祭以降から泉のテスト順位下がった時も、二人の距離感微妙だったし……あんだけ授業中とかもアイコンタクトしてたのに、急に目も合わせなくなって分かりやすすぎ」
持田さんの冷静な観察眼は止まらない。私は返す言葉もなかった。
「で、球技大会の時は過剰なほど泉が八乙女を心配してるし、バッグにはお揃いの星のキーホルダー付けてるし……これで気付かない方が無理だろ」
「え? 」
唐突に、持田さんの隣に座る黛さんから気の抜けた声が漏れた。
「え? 」
もう一度。
黛さんが、ロボットのようなぎこちない動きで、少し身を乗り出し、ゆっくりと私たちを見渡す。
「ちょ、待って……付き合ってるの? 」
沈黙。
「ガチで……? 」
さらに数秒。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!? 」
境内中に響き渡りそうな、本日一番の大声だった。すれ違う参拝客が何事かとこちらを振り返る。
「うそっ! うそでしょっ? いずみんと、めるちが! え!? いつから!? 」
今度は、めると私が顔を見合わせる番だった。
……どうやら。
私たちが今日一番驚いたのは。
てっきり全てを察して、意味深な「ふーん」を連発しているのだと信じていた黛さんが、本当に、何も気付いていなかったということらしい。
全部、気付いていて、私たちをからかっているのだと思っていた。
……違った。黛さんは、何も分かっていなかった。
「大型犬と飼い主だとは思ってたけど、もっと対等な関係だとは思ってなかった」
そこは間違ってない気がする……むしろ、持田さんより本質を突いている。
持田さんは事実に気付き、黛さんは私たちらしさを見ていた。
めるは対等だと思っているのかもしれない。
……私は、そう思えたことが一度もない。
「……でもさ」
ようやく大騒ぎを終えて落ち着きを取り戻した黛さんが、頭を掻きながら人懐っこく笑う。
「付き合ったからって、何か変わるの? 」
めるが不思議そうにきょとんとした。
「変わるって、なにが? 」
「いや、めるちといずみんが恋人になったからってさ」
黛さんは大袈裟に肩をすくめてみせる。
「カノら四人で遊ばなくなるとか、そういうのナシだからね? 」
その言葉に、私は目を瞬かせた。黛さんがそんな心配をするなんて、少し意外だった。
「そんなことするわけないじゃんね! 」
めるが即座に首を横へ振った。
「むしろ、これからもみんなでたくさん遊びたいし! 」
「なら良かった」
黛さんは心の底から安心したように、破顔した。
「だって、めるちと遊ぶのめちゃくちゃ楽しいし、いずみんが来なくなったら、カノらのツッコミ担当がいなくなって困るもん」
「私、そういう担当だったの」
「うん」
「初耳」
即答だった。その隣で、持田さんも静かに口を開く。
「ウチも黛と同じ」
持田さんの穏やかな視線が、私とめるを交互に捉える。
「付き合ってることを知ったからって、二人への接し方を変えるつもりはないよ」
気遣うような、それでいていつも通りの声だった。
「泉は泉だし、八乙女は八乙女。付き合ったからって、それは変わらない」
少ししてから、持田さんは小さく笑う。
「ウチらにとって、大事な友達なのは何も変わらない」
めるも、少し照れたように笑った。
「ありがと、二人とも」
「こちらこそ」
持田さんは柔らかく目を細めた。
「ちゃんと、隠さずに話してくれて嬉しかった。ありがとね」
めると恋人になったことを、受け入れてもらえた。
それだけじゃない。
私たちがどう変わろうとも、この四人の関係だけは、あの頃のままでいいのだと。
持田さんと黛さんの笑顔が、そう言っている気がした。
神社を出ると、持田さんと黛さんは大きな交差点の前で立ち止まった。
「じゃ、ウチは親が待ってるからここで」
「カノも。お年玉貰いに親戚回りしてこなきゃ」
「叶乃、それ目的で帰るの? 」
「目的じゃなくて『お正月の最優先メイン事業』だから」
「いや目的以上のガチ度で草。集金ガチ勢じゃんね!! 」
めるが耐えかねたように吹き出す。持田さんも呆れたように笑っていた。
「八乙女も泉もまたな! 」
「また遊ぼうね」
四人で手を振り合い、それぞれ別の道へ歩き出す。
少し歩いたところで、なんとなく後ろを振り返る。
遠ざかる雑踏の中、持田さんと黛さんも、こちらへ向かって小さく手を振っているのが見えた。
誰も見ていないのに、少しだけ気恥ずかしくて、私は小さく手を振り返す。その様子を見ていた隣のめるが、くすっと嬉しそうに笑った。
「なんか」
「……? 」
「良かったね」
何が、とは聞かなかった。きっと同じことを思っている。
「うん」
短く返すだけで十分だった。
胸の奥に沈んでいた重たいものが、ようやく溶け始めていた。
秘密が秘密じゃなくなった。
たったそれだけなのに、冬の空気まで少し柔らかく感じた。
「それにしても、優梨が気付いてたのは予想外だったなー」
「……本当に」
思い出しただけで、耳の裏が熱くなる。
「アタシ、真琴に『優梨は気付いてない』って言ってたのに」
「完全に外れ」
「うぅ……」
わかりやすくがっくりと肩を落とすめるがおかしくて、思わず私の口元も緩む。
「でも、叶乃は期待を裏切らなかった」
二人で同時に笑い合う。
「『大型犬と飼い主』」
「黛さん。そこは合ってた」
「えっ」
「……え? 」
めるは歩調を緩めて目をぱちぱちとさせた。
「真琴、自覚あったの!? 」
「少しはあった」
「そうなんだ……! 」
驚きつつも嬉しそうなめるを見て、また笑ってしまう。
今日は、本当によく笑っている気がする。
少し前まで、人前で名前を呼ぶだけで慌てていたのに。
今は、その失敗さえ笑い話に変えられそうだった。
「あ、そういえば」
住宅街に差し掛かった頃、めるがぽんと手を叩いた。
「前に漫画貸す約束してたよね! 」
「うん」
「じゃ、アタシんち寄ってく? 」
「……いいの? 」
「もちろん! 」
めるは即答した。
「むしろ、来てほしいな」
はにかむようなその言葉だけで、思わず頬が緩んだ。
めるの家へ行く……初めて。
お正月らしく、どの家の玄関先にも門松やしめ飾りが綺麗に並んでいる。静けさの中に、自分の足音だけが妙に大きく響く気がして、急に緊張が押し寄せてきた。
「もうすぐ! 」
めるが弾んだ声で前方を指さす。
見えたのは、白い外壁がお洒落な二階建ての一軒家。
「ここだよ」
何度も前を通り過ぎたことはある。けれど、その敷地へ足を踏み入れる今日が初めてだ。
玄関の前まで来ると、めるがバッグの底から鍵を取り出した。
「パパとママは初詣行って、その後は親戚のところに行ってるから、誰もいないよ」
「そうなんだ」
「だから遠慮しなくて大丈夫」
カチャリ、と静かな住宅街に鍵の回る音が響く。
ゆっくりと扉が開け放たれた。
「ただいまー」
返事はない。
「やっぱり誰もいない」
めるがほっと肩を下ろした。
「お邪魔します」
私は歩を進め、玄関マットの上で丁寧に靴を揃えた。靴箱の上に置かれたアロマストーンから、すっきりとした柑橘系の香りが優しく漂ってくる。
「はぁぁぁ……解放されたぁ……」
めるが玄関の壁に軽く寄りかかりながら、大袈裟に長い息を吐き出した。
「振袖って、思った以上に体力使うんだね」
「屋台で結構な量、食べてたから」
「もうお腹がパンパンで苦しい」
きつく締められた帯のあたりをぽんぽんと叩きながら、めるが眉を八の字にして笑う。
「……先に着替えてくる? 」
「その前に」
めるがくるりと私の方へ向き直った。瞳にいたずらっぽい光を浮かべて、私の顔をじっと見つめてくる。
「ん? 」
「着付けしてくれた、真琴へのご褒美」
「……ご褒美? 」
「うん。ってか、アタシにもご褒美なんだけど」
一歩。また一歩。
静かな廊下で、めるが距離を詰めてくる。振袖の衣擦れの音が、妙に耳に響いた。
「今は二人だけだし」
そう小さく呟いた、次の瞬間だった。
ぎゅっ。
柔らかな質感の振袖に包まれたまま、めるが私の胸元へ飛び込むように抱きついてきた。
「……っ、」
一瞬だけ息が止まる。それでも。
一つ秘密を手放しただけで、抱き締める腕まで少し自由になった気がした。
私も、めるの背中へとそっと腕を回し、その存在を確かめるように優しく抱き締め返す。
「えへへ」
私の肩口に顔を埋めたまま、めるが嬉しそうに身をよじった。
「真琴補給」
「……何、それ」
「今日一日ずっと我慢してたの! 」
心底愛おしそうに紡がれる言葉が少しだけ気恥ずかしく、けれどそれ以上に可愛い。
私は呆れたように、でも確かに幸福を噛み締めながら小さく微笑んだ。
めるの体温と少しでも同じになりたくて、腕の力を少し強めた。
「へぇ」
突如として、背後から聞き覚えのない涼やかな女性の声が降ってきた。
めると私の身体が、同時にぴたりと凍りつく。
「邪魔しちゃった? 」
心臓が嫌な音を立てる中、私たちは抱き合ったまま、恐る恐るゆっくりと顔を上げた。
廊下の奥、リビングへと続く扉の前。
大きなキャリーバッグを足元に置いた一人の女性が、面白そうに腕を組んでこちらを眺めていた。
シアーベージュに染められた、洗練されたマッシュショートの髪。
モデルのようにすらりと伸びた長身。
服の上からでも分かる、無駄のないアスリートの身体。
研ぎ澄まされているのに、どこかしなやかで美しい。
そして、驚くほどめるによく似た、茶目っ気のある綺麗な笑顔。
「ただいま、める」
時間が、完全に停止した。
「お、お姉ちゃん……っ!? 」
めるの悲鳴のような裏返った声だけが、静かな家の中に響いた。




