第63話 その名前を、人前で
マンションを出ると、元旦の張り詰めた空気が、容赦なく頬を刺した。
白い息が、同時に空へ溶けていく。
重なった二つの白い息に、同じ冬の中にいることが、目に見えた気がした。
「さむっ」
めるは振袖の袖をぎゅっと抱き寄せながら肩をすくめる。
「だから着物は寒いって言った」
「でも可愛いから問題なし! 」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
……その笑顔だけで、寒さなんて忘れそうになる。
神社までの道を歩く。振袖姿のめるは、自然と私の隣を歩いていた。
振袖だから歩幅が、いつもより少し小さい。
私も、歩く速度を落としていた。隣を歩ける時間が、少しでも長くなる。
「ありがと」
「……? 」
「歩く速さ」
「普通」
「普通じゃないよ。真琴、いつももう少し速いもん」
気付かれていた……。何も返せず、私は前を向いた。
「それに、いつも歩くのは車道側。ありがと」
そんなことまで見られていたなんて思わなかった。
また、お礼を言われる。私は、こんな小さなことしか返せないのに。
恥ずかしさが込み上げてきて、誤魔化すように、両手をポケットに突っ込む。
めるは楽しそうに少しだけ笑って、また私の隣へ並び直した。
肩が触れそうで、触れない。そんな距離。
触れそうで、触れられない。
その距離を壊したくなくて、私は歩幅まで合わせてしまう。
恋人になったから特別近いわけじゃない。
でも、一緒に歩く空気だけは、あの頃とは確かに違っていた。
周りから見れば、仲の良い女友達。それくらいの距離感。
だけど私には、その数センチが何より愛しかった。
神社へ向かう途中で、めるのスマホが震えた。
「優梨だ」
『どこ?』
続けて、もう一件。
『もう叶乃が屋台で何か食べてる』
「まだ10時過ぎなのに」
「黛さんらしいね」
思わず二人で笑う、初詣の待ち合わせ。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が温かい。
私はめるを見る。
めるも、私を見る。
自然と目が合って、同じタイミングで笑ってしまった。
「……行こ」
「うん」
付き合って二ヶ月は経つのに、まだ誰も知らない。
私たちが恋人になったことを。
神社の入口は、想像以上の人で埋め尽くされていた。
参道には屋台がずらりと並び、甘酒や焼きそばの匂いが冷たい空気に混ざって漂っている。
「人、多い……」
「元旦だからね」
境内へ入ると、めるのスマホがまた震えた。
『鳥居くぐって右のたこ焼き』
「右だって」
「……うん」
鳥居の前で軽く立ち止まり一礼すると、めるも慌てて立ち止まり一礼した。
人混みを縫うように歩く。振袖のめるが参拝客にぶつからないよう、私は半歩だけ前へ出た。
「真琴」
「……? 」
「ありがと」
その名前を、人前で呼ばれることにも少しずつ慣れてきた。それでも、胸の奥は毎回ちゃんと熱くなる。
その時だった。
「めるちーー! 」
聞き慣れた声が人混みの向こうから飛んできた。
視線を向けると、大きく手を振っている黛さん。
めるも大きく手を振り返す。
黛さんの隣で苦笑いしている持田さんが見えた。
「やっと来た! 」
「ごめーん! 」
「では、では、あけおめー! 」
「ことよろー! 」
黛さんとめるは、いつもと変わらないノリで挨拶を交わす。
「二人は、軽いなぁ」
「元旦なんだから、いいじゃんね! 」
「泉。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」
持田さんにつられて、私も思わず丁寧に挨拶を返してしまう。
「二人は固いなぁ……あけおめ、いずみん」
「あ、明けましておめでとうございます」
振袖姿の黛さん。明るい色合いで、本人の賑やかな雰囲気によく似合っている。
すると、めるが黛さんの全身を見て、にやっと笑った。
「叶乃」
「ん? 」
「七五三? 」
一瞬の静寂。
「誰が七歳児だ! 」
「いや、三歳児かも」
黛さんが即座にめるの頭を軽くはたく。
「いたっ! 」
「ゆーりん! めるちが新年早々ケンカ売ってくる! 」
「八乙女が悪い」
持田さんは即答だった。「ふんっ」と鼻を鳴らす黛さん。
「ごめん、ごめん。つい。でも、すごく似合ってる。可愛いよ」
「じゃがバターで許してあげる」
「え? 食べたい!! 行こう、叶乃」
「黛、さっき焼きそば食べただろ」
「美味しかった」
「そうじゃなくて……」
持田さんの言葉が虚しく取り残され、黛さんとめるが吸い寄せられるように屋台へと向かっていく。
気付けば、めるとの距離が少し開いていた。
ほんの数秒前まで隣にいたのに。
その変化が少しだけ寂しくて、少しだけ可笑しかった。
私と持田さんは、人混みの波に押されながらも、ゆっくりと二人の後を追う。
「泉。人混み苦手だろ? 」
「苦手」
「でも、初詣には来た」
「……日本人だから」
ぷっと、持田さんは吹き出した。
「泉が言うと本気か冗談か分からないんだよ」
そうこうしているうちに、黛さんとめるが戻って来た。
二人とも両手に紙皿を持っている。その上には湯気を立てている美味しそうなじゃがバター。
「こっちのじゃがバター、まこ――」
めるが、ぴたりと口を止めた。
一瞬の硬直。
「……泉さんの」
何事もなかったように無理やり言い直す。
じゃがバターに夢中になってる黛さんの横で、持田さんが一瞬だけこちらを見た気がした。
でも、何も言わなかった。
気付いていない……と思う。
「ってか。いずみん、お正月からイケメン度更新してるね」
「してない」
「だって、周りの女の子たち――」
黛さんの視線を追うと、確かにすれ違う女の子たちが、ちらちらと私を見ていた。
気まずさに視線を彷徨わせていると、すっと、めるが私の近くに寄ってきた。
「めるち、成人式のパンフレット載れそう」
「でしょ!? 泉さんに着付けしてもらった! 」
自慢げに胸を張る、めるの一言に持田さんが目を丸くする。
「さすが、美容師の娘」
「うん! プロ並みだった!! 」
「成人式の手伝いとかもしてたから」
短く答えると、私を見たあとに、持田さんは納得したように頷いた。
「なるほどね」
その横で、黛さんが私とめるを交互に眺めている。
「ふーん」
含みのある、意味深な一言だけ。
……何だろう。
少しだけ落ち着かない。めるも、不思議そうに首を傾げていた。
じゃがバターを食べ終え、紙皿をゴミ箱へ捨てる。
「よし」
めるが満足そうに手を合わせた。
「これで心置きなく参拝できる! 並ぼ!! 」
「手水舎で手と口を清めてからな」
「し、知ってるよ」
持田さんと黛さんが疑惑の目を、めるに向ける。
「ちなみに、めるち。参拝の仕方知ってる? 」
「え? パンパンっ拍手して、頭下げて……二回だっけ?三回?? そして拍手二回かな?? アハハ……」
笑って誤魔化す。
「笑って誤魔化した」
私が呟くと、隣で持田さんも苦笑した。
「だ、大丈夫。見よう見まねでやり過ごすのは得意だから! 」
「八乙女も、これを期にちゃんと覚えろ」
手水舎で身を清めるも、めるが私の行動を真似するので、なんとなくやりづらかった。
参拝者の列に並ぶ。
冷たい風が頬を撫でても、不思議と寒くはなかった。
私の少し前には、振袖姿のめる。
人混みではぐれないようにしているのか、それとも私が人混みを苦手なのを知っているからなのか、ときどき振り返っては私の姿を確認してくれる。
ようやく賽銭箱の前まで来る。
お賽銭を入れ、鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝。
願うことは、一つだけ。
──めるが、ずっと笑っていられますように。
それだけじゃない。
もっと欲張りで、もっと自分勝手な願い。
これからも。
その笑顔を、一番近くで見ていられますように。
四人で参拝を終え、石畳の端へ移動する。
冷えた空気の中、めるがふぅ、と白い息を吐いた。
「真琴」
「……? 」
「何お願いしたの? 」
ふっと、息を呑む。
お願いしたことなんて、一つしかない。
でも、それを本人に言えるはずもなくて。
「……言ったら叶わないから」
そう答えると、めるは「あー」と納得したように頷いた。
「確かに、そういうの聞いたことある! 」
あっさり引き下がってくれて、胸を撫で下ろす。
「じゃあ、真琴のお願い事、ちゃんと叶うといいね」
屈託なく笑う、その笑顔を見た瞬間。少しだけ胸が苦しくなった。
……そのお願いは。
今、目の前で笑っている、める自身のことだから。
「……ってかさ」
小さく声を漏らしたのは、持田さんだった。
「どうしたの? ゆーりん」
黛さんが首を傾げる。
「いや……」
持田さんの視線が、私とめるの間をゆっくり往復する。
「八乙女、今――」
――呼ばれた。
さっき、じゃがバターを渡そうとした時も。
今、人前で。『真琴』と。
めるも、ようやく自分で気付いたらしい、表情がぴたりと止まる。
私も、咄嗟に言い訳なんて思い浮かばなかった。
心臓が痛くなるような沈黙。
数秒の沈黙。
「まっ、いっか」
持田さんは、小さく笑って首を振った。
「ゆーりん? 」
「何でもない」
隣では黛さんが、不思議そうに私たちを見比べている。
その表情は、本当に何も分かっていないような顔だった。
私は、小さく息を吐く。




