第62話 可愛いは、着崩れの原因になる。
元旦の朝。
姿見の前で、チャコールグレーのウールロングコートの襟元を正す。
黒のタートルネックニットにスラックス。いつものマニッシュな冬服を鏡越しに見つめ、全体のバランスを確認した。
着慣れた冬の私服。いつも通りのコーディネート。
――けれど、今日だけは少し、胸の奥の落ち着きが違った。
ポケットに突っ込んだ手元が、わずかに強張っているのが分かる。
頭の中で、着付けの手順をもう一度確認する。
実家が美容院だから、小さい頃から母に教え込まれてきた。成人式の手伝いだってできる。
だから、本来なら緊張するようなことじゃない。なのに今日は少しだけ落ち着かない。
理由は分かっている。
これから、初詣に向かう、めるの着付けをするからだ。
スマホが震える。
『今から行くー!』
めるからのメッセージ。
短い一文なのに、無意識に口元が緩みそうになる。
数秒後、エントランスの呼び出し音が鳴ったので、オートロックを解除する。
心臓が少しだけ落ち着かない……着付けなんて慣れているはずなのに。
ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
羽織っていたロングコートを一度脱いでハンガーに掛ける。
急いで玄関に向かい、ドアを開けた。
「真琴、おはよ――」
開口一番
「格好良い!! でも。いつもと同じじゃんね……」
めるは振袖を抱えたまま、不満そうに口をとがらせた。
軽く整えられただけの髪に、薄いメイク。それなのに十分可愛い。いや、振袖を抱えているせいで余計に可愛い。
「……おはよう、める」
平静を装って返す。
「はっ……真琴。あ、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
恋人として迎える、最初のお正月。
新年の挨拶を交わせただけで、今年はもう良い一年になりそうだと思った。
「真琴、絶対着物似合うのに」
「着ないよ」
「なんで!? 」
「寒いから」
「絶対それ本音じゃない! 」
着られるけど、私が着たいわけじゃないし、私が着る意味もない。
それより――今日は、めるに着てほしかった。
「めるが着れば十分」
何気なく言ったつもりだった。
だけど、めるは一瞬固まった。
「……え? 」
しまった。少し言い方を間違えたかもしれない。
訂正しようとして、やめた。どう言い直して良いかが分からない。
「部屋、行こ」
私は誤魔化すように、先に自分の部屋へ向かう。
「あっ、ちょ、待って! 」
慌てて追いかけてくる足音。その音だけで、少しだけ安心する自分がいた。
部屋へ入ると、めるは抱えていた振袖をベッドの上へ優しく広げた。
「では、泉先生。本日はよろしくお願いします! 」
ぺこり、と大げさに頭を下げる。
「……任せて」
振袖を手に取る。鮮やかな色合いだった。
きっと似合う。いや、間違いなく似合う。
だから困る。これから、その本人に触れながら着付けをしなきゃいけないんだから。
「最初は、何すればいい? 」
首を傾げるめるに、私は短く告げる。
「まず、肌着に着替えて」
「いや、『着替えて』って。どこでよ? 」
部屋の隅に置かれた折り畳み式のパーテーションを指差す。
「そこで着替えて。分からなかったら呼んで」
「の、覗かないでよ」
「出来ない約束はしない」
「して! 」
めるは振袖と肌着を抱えてパーテーションの向こうへ消えていった。
カサカサと布の擦れる音が聞こえる。
……落ち着かない。
着付けなんだから当たり前なのに。
数分後。
「真琴ー、これで合ってる? 」
パーテーションの脇から、ひょこっとめるが顔を覗かせた。
その姿を見て、私は固まった。
振袖用の肌着姿。
肩や首筋が思った以上に露わになっていて、普段の制服姿とはまるで違う。
白い肌が眩しくて、目のやり場に困る。
「……真琴? 」
「大丈夫」
何が、大丈夫なのか自分でも分からないけれど、慌てて視線を逸らす。
落ち着け。着付けだ。私は着付けをする……それだけ。何度もやってきた作業。
相手が、めるなだけ。
――それが一番問題なんだけれど。
「こっち、おいで」
「無自覚イケボ」
……? めるが照れたように俯きながら目の前へ立つ。
近い。
香りがする。
シャンプーの香り。
クリスマスの夜を思い出してしまうくらいには近い。
だめ。今は着付け。仕事、仕事、仕事。これは私に任された大事な仕事だ。
私は自分にそう言い聞かせながら襟元を整える。重なる布地がサラリと擦れ、衣擦れの音が部屋に小さく響いた。長襦袢を合わせ、衣紋を抜く。
順番通り、いつも通り。
そのはずなのに、指先が少し触れるたびに心臓が忙しい。
恋人になって二ヶ月も経つのに、ちっとも慣れない。
「真琴、なんか手あったかいね」
めるが不思議そうに言う。
「……めるがじっとしてないから」
「えぇ? 」
「動くと着崩れるよ」
先生みたいな口調で注意すると、めるは素直に背筋を伸ばした。
「はい」
いい子。
すごくいい子。そしてものすごく可愛い子。
でもその無防備さが困る。
帯を締めるために、細い腰へ両腕を回す。一瞬、完全に息が止まった。
きつめに引いた帯が擦れ、キュッと硬い音が鳴る。めるは「ふぇ」と小さく息を漏らした。至近距離から伝わる柔らかな体温と、かすかな吐息。
細い。本当に細い……なのに、女の子らしい柔らかい肉付きはちゃんとしていて……ズルい。
私の両腕の中にすっぽり収まってしまう。
まるで正面から抱きしめているみたいだった。
「真琴? 」
「……なに」
「顔、赤くない? 」
「赤くない」
「赤いよ? 」
「赤くない」
「絶対赤い」
「動くと着崩れる」
即座に黙った。
助かる。
全然助かってないけど。これ以上喋られたら本当に手元が狂う。
帯を締める。帯揚げを整える。帯締めを固定する。
ようやく着付けが終わった頃には、私の精神力もほぼ限界だった。
「次、髪」
「よろしくお願いしまーす」
めるが椅子へ座る。私はその背後へ回った。
柔らかな髪を指で梳く。最近のめるは華やかに巻いていることが多いけれど、今日は着物に合わせて、少し落ち着いた雰囲気にまとめていく。
編み込みを入れていくと、めるの明るい髪色が綺麗なグラデーションになって、手の込んだアレンジみたいに映えた。用意されていた髪飾りをバランスよく差す。
そして最後に全体のバランスを整える。
「できた」
そう言った瞬間。めるが勢いよく立ち上がり、鏡を見るなり、目を輝かせた。
「えっ、すごっ! 」
くるりと一回転する。
くすみピンク。ミルクティーベージュ。アイボリー。
柔らかな色彩の中に咲く、大ぶりの花々。
いつものギャルっぽさは絶妙に残っているのに、どこか育ちのいいお嬢様みたいで。
振り向いた瞬間、言葉を失った。髪飾りが揺れるたびに耳元が覗く……
見惚れる――いや、 そんな一言では到底足りない。
さっきまで私の指先に触れていた布も、髪も、すべてがめるの一部になっていた。
綺麗という言葉では、あまりにも足りない。
「ど、どうかな? 」
めるが、少し不安そうに上目遣いで見上げてくる。
変なわけがない。世界で一番、似合っている。
でも、限界の脳から辛うじて口から出てきたのは……
「綺麗」
たった一言、それだけだった。
言葉を選ぶほど、どれも嘘みたいに薄くなっていく。だから最後に残った、いちばん短い言葉だけを渡した。
「~~~~っ!! 」
めるの顔が一瞬で真っ赤になる。そして両手でパタパタと顔を仰ぎ始めた。
「むりむりむり! 真琴の『綺麗』は反則だから! 」
その反応が、狂おしいほど愛おしくて。
私は、自分の口元が少しだけ緩むのを、どうしても止められなかった。
「……本当のことだから」
「だから、その追撃! 」
めるは耳まで真っ赤になりながら、鏡の前でしゃがみ込んだ。
可愛い。全世界の可愛いを集めたくらいには可愛い。めるを見ると、その単語しか思い浮かばなくなってしまう。
「真琴。写真撮ろ」
「めるが一人で撮って、私に送って」
「真琴と一緒が良いの! 」
めるは嬉しそうに私の隣へ身を寄せる。
肩が触れそうになる。
鏡の中には、並んで立つ私たちがいる。
それが一枚の写真になる前から、ずっと残ればいいと思った
めるは姿見の前でスマホを構えた。
「真琴、もっと寄って」
「……これ以上? 」
「二人きりだし、恋人なんだから大丈夫でしょ」
その一言だけで心臓が跳ねる。
めるはそんな私の動揺なんて知らず、当然のように、さらりと肩を寄せてくる。
カシャッ。
撮れた写真を確認しためるが、満足そうに頷いた。
「いい感じ! 」
そう言いながら、今度は私のスマホへ手を伸ばす。
「真琴にも送っとくね――」
画面が点灯する、その瞬間。
「あ」
めるの動きが止まった……しまった。
私も気づいた時には遅かった。
ロック画面に設定されていたのは――クリスマスの日に撮った、サンタコスのめる。
ベッドの上で楽しそうに笑っている一枚だった。
数秒の沈黙。
めるの顔が、じわじわと赤くなっていく。
「……真琴? 」
「……うん」
「これ」
「うん」
「もっと、ビジュいい奴にしてよ! 」
「全部良いから……」
めるが固まった。
あ。
たぶん、また何か間違えた。
良くわからないけど……
「むりーーーーーーっ!! 」




