第61話 名前を呼ぶ朝
ふと、意識が浮かぶ。
目を開ける。
「……」
目の前に、真琴がいた。
……え?
「……おはよう」
掠れた声で挨拶すると、真琴は少し着崩れたガウン姿のまま、じっとアタシを見つめていた。
ガウンの隙間から覗く白い鎖骨も、少し乱れた綺麗な黒髪も、寝起きですら絵になる……アンニュイモデルめ。
「……おはよ」
いつもの少し低くて心地いい声。
「起きた」
小さく呟く真琴に、アタシは目をパチパチとさせた。
「え、起きてから、けっこう経つ? 」
「うん」
「何してたの? 」
真琴は少しだけ首を傾げた。
「……見てた」
「はっ!? 」
見てたって何!? アタシの寝顔を!?
完全に油断してたんだけど!!
「な、なんで!? 」
思わず上半身を跳ね起こす。
真琴はアタシの手首をそっと掴み、指先を絡めてくる。
耳まで真っ赤に染めながら、小さく呟いた。
「……可愛かったから」
「~~~~っ!! 」
心臓にダイレクトアタック。
昨日の夜と変わらない破壊力。
このクールビューティー、アタシを仕留める気か!?
耐えきれなくなって、掴まれた手をするりと抜き、慌てて毛布を頭まで被る。
……むり。
毛布の中には、真琴のシャンプーの香りが残っていて、余計に心臓がうるさい。
でも、このまま逃げっぱなしは悔しい。
毛布の隙間から、昨日もらった名前をそっと呼んだ。
「……おはよう、真琴」
思った以上に声が震えて、自分で焦る。
ほんの一瞬の静寂――それから、毛布がかさりと揺れる。
真琴は毛布越しにアタシの頭をぽん、ぽん、と優しく叩いた。
「……おはよう、める」
……超むり。
名前を呼ばれるたびに、胸の奥がくすぐったくなる。
まだ頬の熱が引かないまま、毛布から顔を出した。
ヘッドボードのスマホへ手を伸ばす。
「え、もう八時! 」
チェックアウトは九時までだったはず。
慌ててシャワーを浴びて髪を洗い、なんとか身支度を整えた。
バタバタとコートを羽織っていると、ベッドの上の真琴が自分のスマホをじっと見つめている。
「真琴、どうしたの? 」
「……お母さんから、LINE」
画面を見せてもらうと、『9時には病院に到着する』と短いメッセージが入っていた。現在の時刻は、すでに八時四十分を回っている。
「急いで病院行こ! 」
さっきまでの甘い空気なんて、一瞬で吹き飛んだ。
アタシたちは慌てて部屋を飛び出した。
病院の待合ロビーには、すでにお母さんの姿があった。
「真琴! 」
小さく手を振る真琴ママは、娘の顔を見た瞬間、張りつめていた糸が切れたようにほっと息をついた。
続いてアタシに気づくと、表情をぱっと明るくする。
「おはようございます」
「おはよう、八乙女さん。わざわざこんな遠くまで、真琴に付き添ってくれたのね」
「急に押しかけちゃって、すみません」
「いいえ。本当に助かったわ。ありがとうね」
その笑顔を見て、昨日の電話から続いていた緊張が少しだけ解けた気がした。
「先生からも、もう面会して大丈夫って聞いてるわ」
お母さんに案内され、そのまま病室へ向かう。
静かな病棟の廊下を進み、一つのドアの前で足が止まる。
名札には、はっきりと『泉』の文字。
昨日も来たけど、起きている時に会うのは初めてだ。
真琴は小さく息を吸い、白いドアを三回ノックした。
コン、コン、コン。
「……入るよ」
ガララ、と横にスライドするドアの向こう。
そこにいたのは、ベッドの上で上体を起こし、「よぉ」と気まずそうに片手を挙げる、真琴によく似た顔立ちのクール系イケメンだった。
お父さん、思ったよりずっと元気そうだった。
「トラックに横から突っ込まれてな。まあ、奇跡的に打撲と、軽い脳震盪で一晩経過観察だけで済んだんだ。先生にも運が良かったって言われたよ」
「……そっか。本当によかった」
真琴がホッとしたように小さく息を吐く。
アタシも胸の奥のトゲが抜けたみたいに心の底から安心した。
すると、お父さんはアタシの方を優しく見つめてきた。
「君が、わざわざ北海道まで付き添ってくれたんだって? 本当にありがとう、八乙女さん」
「いえ!……無事で良かったです!! 」
最敬礼で答えると、お父さんは少しだけ笑った。
それから、真琴を見る。
アタシを見る。
二人を見比べるように目を細めて、ふっと肩の力を抜いた。
「真琴に、こんな仲の良い友達ができてたんだな」
……あ。
……友達
真琴は、いま。
どう思ってるんだろ? 思わず背筋がぴんと伸びる。
「ほんとよ。昨日は急に義姉さんから電話があって驚いたけど、八乙女さんが一緒にいてくれて、本当に助かったわ」
お母さんも優しく笑う。
「……うん」
真琴が、すっとアタシを見る。
「めるが一緒にいてくれたから」
「ちょっ、真琴! そんな大げさだって」
思わず笑い返す。
すると、お父さんが小さく吹き出した。
「ははっ。仲が良いな」
その笑顔は、どこか安心したようだった。
「真琴がそんな自然に笑ってるの、久しぶりに見たよ」
そう言われて隣を見ると、真琴は自分では気付いていないのか、不思議そうに小さく首を傾げていた。
……いや、笑ってるよ。
ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
誰にも気付かれないくらい、小さな、小さな笑顔。
でも、その変化は、アタシにもちゃんと分かる。
昨日までの真琴と、今日の真琴は違う。
名前を呼び合うようになっただけで、真琴ってこんなにも表情が変わるんだ。
「じゃあ、お父さん。また来るね」
「おう。牧場の仕事ならいくらでもあるからな」
その一言に、病室の空気がふっと和らぐ。
昨日までの重たい空気が嘘みたいだった。
「――八乙女さん。いや、めるちゃん、でいいかな? 」
「ダメ」
真琴のカットイン!!
「俺は、めるちゃんに聞いてる」
「もちろん良いですよ……」
アタシには、ちゃんと分かる。隣から感じる、真琴のお怒りオーラ……だって『ダメです』なんて言えないじゃんね!
「真琴を連れて来てくれて、本当にありがとう」
「アタシは付いてきただけなので! 」
「それでもだよ」
その言葉に、思わず照れ笑いがこぼれた。
「めるちゃんも、真琴と一緒に牧場に遊びに来な」
「はい! 」
病室を出る頃には、お昼を少し回っていた。
真琴が小さく息を吐く。
「……安心した」
「うん。アタシも」
その一言だけで十分だった。
「でも、めるが『遊びに来な』で、私は『牧場の仕事』なんだ」
「アタシに手伝えるか分からないから、教えて。一緒に仕事しよ」
エレベーターへ向かう廊下を、微笑みながら二人並んで歩く。
昨日はあんなに長く感じた廊下なのに、今日は不思議なくらい短く感じた。
空港へ向かう快速エアポートの中。
窓の外には、白く染まった北海道の街並みが流れていく。
「北海道らしいこと、何も出来なかったけど、良いクリスマスだったよ」
アタシが笑うと、真琴も少しだけ口元を緩めた。
「……うん」
「今度来る時は、ちゃんと旅行したいかな」
「牧場に、めるっぽい馬いるから見せたい」
「なにそれ? アタシっぽい馬? 」
「うん。可愛い」
「ほんっと、無自覚は悪だよね……牧場にも連れてってね」
「もちろん」
そんな何気ない約束が、少しだけ嬉しかった。
飛行機が静かに離陸する。
窓の外で、雪景色が少しずつ小さくなっていく。
シートベルト着用サインが消える頃には、真琴は少し疲れたように目を閉じた。
「眠い? 」
「……少し」
昨日から、ほとんど寝ていないもんね。
「着いたら起こすから、寝てていいよ」
「……うん」
返事をした数秒後には、真琴の身体から力が抜けていく。
気付けば、こてん、と肩に重みが乗った。
昨日までなら、こんなことで心臓が飛び出そうになっていたと思う。
でも今は違う。
肩越しに伝わる温もりが、不思議なくらい心地いい。
そっと寝顔を見つめる。
……お疲れ様、真琴。
朝も照れてしまっていたその名前が、今は自然に胸へ浮かぶ。
心の中で「真琴」と呼ぶことが、もう当たり前になっていた。
その変化が、少しだけ嬉しかった。
仙台空港へ降り立つ。
北海道より少しだけ暖かい空気が頬を撫でた。
「帰ってきたね」
「……うん」
二人で歩き出す。
昨日までと同じ景色。
でも、昨日までと同じ二人じゃない。
そのことだけは、お互い何も言わなくても分かっていた。




