第57話 二人きりになった夜
機体が激しい着陸の衝撃に揺れ、すぐさま鈍い逆噴射の音が響き渡った。
「……着いた」
窓の外には、雪混じりの暗い滑走路が広がっている。
息を呑みながら機内モードを解除する。
その瞬間、手のひらのスマートフォンが激しく震えた。
画面いっぱいに並ぶ通知。
お母さんからの着信が三件。
叔母さんからの着信が二件。
非通知からの着信が一件……
非通知? 気にはなるけれど、LINEは何件も届いていた。
震える指で、お母さんとのトーク画面を開く。
『義姉さんから聞いた。何処にいるの?』
『明日の朝9時には、札幌に着く』
『見たら電話か、LINEして』
お母さんらしくない短い文章ばかり。焦りが画面越しにも伝わってくる。
返信を打つ心の余裕もないまま、私はそのまま叔母さんとのトーク画面を開いた。
『病院に着いたよ』
『先生の話を聞けた』
指先に力が入る。恐る恐る続きを開いた。
『車同士の事故だけど、命に別状はないって』
「……っ」
生きてる。
その事実だけで、十分だった。凍りついていた心に、ようやく息が戻る。
ふっと息を吐きながら、親指を上に滑らす。
『当直医いないから、大事を取って検査入院、明日の午前に検査』
『お兄ちゃんのスマホ壊れたから、公衆電話から連絡行くかも』
最悪の想像だけは、頭の中から少しだけ遠ざかった
「泉さん……? 」
隣から八乙女さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「……命に別状はないって。大事をとって検査入院だって」
掠れた声でそう伝えると、八乙女さんは自分の胸に手を当てて、深く、小さく息を吐いた。
「……よかったぁ」
心底安心したような、声だった。
気付けば、私の手の震えも少しずつ収まっていた。
私は画面を切り替え、お母さんへ手早くメッセージを送った。
『八乙女さんと、札幌に着いた。今から病院に向かう』
お母さんへ短く返信を送り、そのまま叔母さんへ電話を掛けた。
数回のコール音のあと、すぐに繋がる。
『真琴ちゃん? 』
『今、新千歳空港に着きました』
『えっ!? 来たの!? 』
『すみません。何も分からないのも嫌だったので』
『謝ることじゃないけど……私もちゃんと状況を確認してから、連絡すればよかったわね』
叔母さんの声から、張り詰めていたものが少しだけほどけた気がした。
『お父さんは……? 』
『今は疲れて眠ってる。命に別状はないから、大丈夫よ』
『……はい』
『面会時間はもう終わっちゃってるけど、私は特別に夜間受付の近くで待たせてもらえることになってるから』
そこで叔母さんは、何かを思い出したように続けた。
『あ、そうだ。お兄ちゃん、事故で荷物もそのままになっちゃってね。着替えも歯ブラシも何もないの』
『分かりました。途中で買って行きます』
『ごめんね、助かる』
『あと、夜間入口から入れば良いですか? 』
『うん。受付で名前を伝えれば入れるようにしているから』
『分かりました。すぐ向かいます』
通話を切る。
「お父さん、寝てるって? 」
隣で静かに待っていてくれた八乙女さんが尋ねる。
「うん。今日は検査入院だけみたい」
「そっか……」
胸をなで下ろした八乙女さんは、すぐに表情を切り替えた。
「じゃあ、その前にコンビニ寄ろ」
「え? 」
「着替えと歯ブラシは必要でしょ。札幌行きの電車に乗る前に、空港の中で揃えちゃお」
もう私より先に、お父さんのことを考えてくれている。
「……ありがとう」
「お礼はあと。今は急ご」
八乙女さんは、本当に不思議な人だ。
私が立ち止まりそうになるたび、一歩先で振り返って待っていてくれる。
空港内のコンビニで、父の着替えや歯ブラシ、タオルを手早く買い揃える。
店員さんから袋を受け取り、そのまま快速エアポートへ乗り込んだ。
発車を知らせるベルが鳴る。静かに滑り出し、次第に速度を上げてホームを離れていく。
窓の外には、白く雪をまとった景色が流れていた。
何度も訪れた北海道。
けれど、冬の北海道を見るのは初めてだった。
……本当なら、綺麗だと思えたのかもしれない。
今の私には、その景色を眺める余裕はなかった。
また同じことを繰り返す――画面を開いても、叔母さんからの連絡は来ていない。
隣にいる八乙女さんは、何も話さなかった。景色に目を向けることなく、ただ静かに私の隣にいてくれる。
その沈黙が、不思議と心強かった。
快速エアポートは札幌駅へ滑り込む。ホームへ降りると、仙台とは明らかに違う、肌を刺すような厳しい冷気が一瞬で身体を包み込んだ。
吐く息が、白く夜空へ溶けていく。
叔母さんから教えてもらった病院へ向かうため、急ぎ足でタクシーへ乗り込んだ。
車窓の向こうでは、札幌の街がクリスマスの灯りに包まれていた。
その景色はガラス一枚隔てた、別世界の出来事のように見える。
十分ほど走ると、タクシーは大きな総合病院の正面玄関前で停まった。
車外へ出ると、夜の闇の中に白く照らされた、無機質な建物を見上げる。
ここに、お父さんがいる。
自動ドアをくぐり、夜間受付で父の名前を伝える。
「真琴ちゃん? 」
聞き慣れた声に振り向くと、叔母さんが小さく手を振っていた。
「叔母さん……」
駆け寄ると、叔母さんは、ほっとしたように微笑んだ。
「本当に来たのね……」
隣にいる八乙女さんを静かに見つめているけれど、叔母さんに言ってなかった。
「一緒にいる時に電話あって……そのまま付いてきてくれました」
八乙女さんが頭を軽く下げた。
「初めまして、八乙女と申します」
「八乙女さんも、ありがとうね」
叔母さんは柔和な笑みを浮かべ、私に向かって「ごめんね。大した怪我じゃなかったのに」と言った。
私は首を横に振る。
「お父さんは……? 」
「今は眠ってる。薬も入ってるし、起こすのはかわいそうだから」
「そうですか……」
「個室だから、許可は貰ってるけど、顔だけね」
叔母さんに案内され、静かな廊下を歩く。
消毒液の匂いだけが鼻をついた。
病室の扉が静かに開く。
父はベッドの上で、規則正しい寝息を立てていた。
額には小さなガーゼ。腕には点滴。
それでも、その胸はゆっくりと上下している。
「……お父さん」
その寝顔を見た瞬間、胸の奥を締め付けていたものが、すうっと消えていくのを感じた。
叔母さんが小さな声で言う。
「私が大袈裟にしちゃったわね……ごめんなさい」
「……そんな事ないです。事故や入院の手続きもあったと思いますし、ありがとう御座います」
病室を出ると、叔母さんが買い物袋に気付いた。
「あら、買ってきてくれたの? 」
「着替えと歯ブラシだけですけど」
「助かるわ。本当にありがとう」
叔母さんは袋を受け取ると、少し申し訳なさそうに笑った。
「真琴ちゃん。私はこれから日高に戻るけど、明日の9時過ぎにはお母さんも来るのよね? 」
「はい」
「お兄ちゃんがいないと、ただでさえ人手が足りなくて大変だから、任せっきりに出来ないの」
「すみません。お母さんにも状況をLINEしておきます」
「ありがとう。……それで、真琴ちゃんたちは、今日はどうするの? 」
「……まだ、決めてません」
叔母さんは一瞬だけ目を丸くした。
「急いでここまで来たので、宿のことまで頭が回らなくて……」
私が俯きながら白状すると、八乙女さんが「すみません、アタシが焦らせて連れてきちゃって」と、私の肩にそっと手を添えてフォローしてくれた。
叔母さんは困ったように小さく頷いた。
「困ったわね、今日はクリスマスイブだし……。日高に一緒に帰る? 」
「いえ、明日の朝すぐにお父さんのところに来たいので、近くで探します。叔母さん、朝も早いでしょうし、私たちは大丈夫です」
安心させるように微笑んでみせると、叔母さんは「何かあったら、すぐに連絡するのよ」と、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「八乙女さんも、今日はありがとうね」
「いえ……当たり前ですから」
八乙女さんが柔らかく微笑むと、叔母さんもつられるように笑みを浮かべた。
病院を出ると、凍てつく空気が容赦なく頬を刺してくる。
スマートフォンで時間を確認すると、画面には22:43と表示されていた。
吐く息は真っ白で、立ち止まっているだけでも身体の熱が少しずつ奪われていく。
「寒っ……さすが、北の大地」
八乙女さんが肩をすくめながら、小さく息を吐いた。
私は黙って頷く。
寒さを感じる余裕が出てきたということは、それだけ張り詰めていた気持ちが少しだけ落ち着いたのかもしれない。
「ちょっと待って。コンビニ入ろ」
八乙女さんは目の前のコンビニへ入ると、ホットミルクティを二つ買った。
「座りながら、近くのホテル探そ」
イートインスペースのテーブルにミルクティを置くとスマートフォンを取り出した。
今日だけで、何度八乙女さんに助けられたんだろう。
「ミルクティありがと……温かい」
「それな。マジで心に沁みるわ」
ホットミルクティの温もりが、冷え切った指先へゆっくりと広がっていく。
「……え」
その声に、思わず画面を覗き込んだ。
「全部、満室……」
予約サイトを閉じ、別のサイトを開く。
また閉じて、さらに別のサイトへ。
「ここもダメ……」
表示されるのは、どこも『満室』の文字ばかりだった。
「クリスマスイブだからかな……」
八乙女さんは小さく呟く。
時間だけが過ぎていく。
「ごめんなさい……」
私が俯くと、八乙女さんはすぐに首を横へ振った。
「泉さんが謝ることじゃない」
そのまま地図アプリを開き直し、周辺を探し始める。
「八乙女さん……ホテルがダメなら、ネットカフェとか? 」
「ネカフェかカラオケでも、一晩いられれば……ここにいても仕方ないし、行くだけ行ってみよう」
コンビニを出る。駅前より人通りは少ない。
その代わり、寄り添って歩くカップルが目立つようになっていた。
私たちはホテルを探しながら、人気の少ない通りを歩き続ける。
ネットカフェに、カラオケ……。
「この時間だと、年齢確認されるよね……」
八乙女さんが眉をひそめた。
「あぁ……確かに」
「保護者いないと断られるかも……」
どちらともなく足が止まる。
行き場をなくした私たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。
その時だった――。
ひときわ派手なネオンが輝く建物の前で、甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。
『ふざけないでよ! クリスマスに特別なホテル予約したって言うから楽しみにしてたのに、ここラブホじゃん!』
「声デカ……修羅場こわ」
見ない方がいいとは思いつつ、その剣幕につい目が向いてしまう。
『いや、でも、イブだしどこも空いてなくて……。もう入らないと、時間的にキャンセルになるって! 』
『絶対に嫌! 最低! もう帰る!! 』
スタスタと歩き去る女性を、男性が慌てて追いかけていく。
その後ろ姿を、私たちは黙って見送った。
ぽつんと取り残された、建物の入口。
八乙女さんが、息を漏らすように呟いた。
「……今、キャンセルって言ってたじゃんね」
息を漏らすように呟いた
私もネオンを見上げる。
『……ラブホテル』
ハモった――その言葉のあとが続かなかった。
八乙女さんは壁に貼ってある料金表を見ると、少しだけ考え込むよう視線を落とす。
「……女子会プランある」
自分に言い聞かせるような、小さな声だった。
八乙女さんが私を見る。
「部屋空いてるかだけ確認してみよう」
「……えぇ」
自動ドアをくぐると、思っていたより静かなロビーが広がっていた。
正面のタッチパネルへ八乙女さんが近づき、画面を操作する。
並ぶ部屋に表示される『満室』
「やっぱり……」
諦めようとした時だった。
「あっ! 」
八乙女さんが身を乗り出した。
一室だけ、『空室』の表示が灯ったままになっている。
八乙女さんが弾かれたように私を振り返った。
その瞳が「本当にここでいい? 」と揺れている。
「良いよ」 もう、選択肢がないのだから。
私は小さく呟いた。
八乙女さんの指先が、画面へ触れる。
電子音が鳴る。
『106号室へお進みください』
二人で顔を見合わせると、無言のまま廊下を歩き出した。そして、指定された部屋の前で立ち止まる。
カチャリ。
電子ロックが外れる音がした。
八乙女さんが、ゆっくりとドアノブへ手を掛ける。
部屋に入り、分厚いドアが静かに閉まった。
私たちは、完全に二人きりになった。
※次回から八乙女視点!!




